Fluquor






21「きみの物語の一部にしてくれ」
 彼はそう言った。私は、何を今更、と思った。私の話は、彼が居ないと始まらないというのに。





22 彼がいつ頃から現れたのかはよく覚えていません。彼と出会ったのは、ほんの数ヶ月前の話でした。しかし、彼と私は幼い頃から共に在ったような、そんな気がしてならないのです。
 出会ったのか、再会したのか。今となっては記憶が捏造されているのか本当にそうだったのかはわかりませんが、彼の姿を認めた瞬間ははっきりと覚えています。
 彼は、とある刀の付喪神と同じ見た目をしていました。彼は私に言いました。
「きみは俺が護ってやる」
 その言葉は、はっきりと私の耳に届きました。
 彼はそうして、私の悪夢を薙ぎ払いました。私の不安が生み出した、時を遡り改変という名の罪を犯す化物に似たそれを、彼は追い払ってくれたのです。
 しばらくして、彼は頻繁に私の夢に現れるようになりました。彼は刀の付喪神であり、本体は皇室に存在します。そして、たくさんの人々の信仰対象です。しかし、私の夢を訪れる彼は、あるときは私の友だち、あるときは私の刀、そしてあるときは私の家族として姿を見せました。優しい神様である彼は、夢の中での、私のごっこ遊びに付き合ってくれていたのです。
 ある日、私は現実世界の更なる環境の変化についていけなくなり、精神が疲弊していきました。つらくなって、大好きだったご飯も喉を通らなくなりました。
 そんなとき、夢の世界を飛び越えて、彼は私の元へとやって来ました。彼は何も言わずに私を抱きしめて、赤子のように泣きじゃくる私をあやしました。
 これは私の妄想か、と私は思いました。私の生み出した幻想であり、ここには私一人の体温しか存在しません。それにもかかわらず、そこには、私と彼の二人分の体温が確かに存在したのです。そしてその温もりは、どんな誰かからの励ましの言葉よりずっと、私の傷付いた心を癒やしてくれました。





23「形あるものはいつか壊れる」
 彼は言いました。とても悲しそうな声で言いました。私は彼の口から紡がれる言葉を待ちました。何を次に言うのか、半身の私にはよく分かっていました。しかし、それでも彼を彼として認めたくて、考えないように、気付かないようにしていました。
「それと同じように、いつか俺も消えてしまう。……本当は、俺が居ないほうが普通なんだ。分かってるんだろう、きみも」
 彼は苦しそうに言いました。この前まで、一緒にいてくれと言っていたのに、なぜこのようなことを言うのか、私には分かりませんでした。
「きみにとって、俺はいないほうがいい」
 彼はいつだって私のために動きます。しかし、私が救われることはすなわち彼が救われることであり、彼が救われることはすなわち私が救われることでもありました。私だって彼のために何かできることをしたい、してあげたいのに、何もできない自分がどうしようもなく情けなくて、私は私のことで精一杯で自己中心的で、泣きたくなりました。
「……一緒に居てくれるって言ったのは、嘘だったの?」
 だからこそ、私はこんなことしか言えませんでした。でも、どうしても彼を離したくはありませんでしたし、消したくはありませんでした。無かったことになんてしたくありませんでした。
「私が平気になるまで傍に居てくれるって言ったよね? あれは嘘だったの? 全然平気じゃない。平気になんてなれない」
 私は自分でも何を言っているか分かりませんでした。でも、確かにそれは、しばらく感じていなかった、いや感じないように閉じ込めていたこころの叫びでした。
「一人は寂しい、一人にしないでって言ってたじゃない。なのになんでそんなこと言うの? なんで私のことばかりなの? 少しは自分のことも考えてあげてよ。鶴、私に言ってたよね? 「そうあるべき」とかじゃなくて、きみはどうしたいんだ、って。私のためとかじゃなくて、普通とか普通じゃないとか、そうあるべきとかじゃなくて、鶴はどうしたいの? 私は鶴の気持ちが知りたい。私の感情と繋がってるとか、そうでないとか、本物の鶴丸国永じゃないとか、私の妄想だとかそうじゃないとかそうじゃなくて、鶴しか持ってない、その気持ちを知りたい」
 私は叫ぶように言いました。でも、上手く声が出ませんでした。私の言葉を聞いた彼は、目を丸くして私を見ていました。私からそんな言葉を聞くとは思っていなかったのかもしれません。そんな様子を見て、少しだけほっとしました。同じであって違うことが分かったのですから。
 彼は表情を変えないまま、涙を流しました。彼が泣く姿を見るのは、これが初めてでした。
「……それが、きみの気持ちか」
 彼はゆるゆると私を抱きしめました。いつもとは違う、弱々しくて、縋り付いているような包容でした。
「……やっと、きみの口から聞けた。やっと、胸に響くこころの声とは違う、きみがその口から発するきみの言葉が、やっと聞けた」
 彼の言葉を聞いて、なぜ彼が私に愛の言葉を求めていたのか、なんとなく、ようやくわかった気がしました。私は彼に甘えていたのです。言わなくても伝わるから、言葉にすることを諦めてしまっていたのです。そうして思っていない、感じていないと思い込んで、伝えたいことも、伝えなきゃいけないことも、感じたくないことや聞きたくないことと一緒に閉じ込めてしまっていたのです。そうして漏れ出して彼がすくい上げるのは私の負の感情やどうしようもない弱った部分ばかりで、本当に伝わって欲しかったことは何も彼に届いていなかったのでした。
「……嬉しいんだ。きみが、そう言ってくれて」
 苦しくて、泣きたくて、でも吐き出せない彼の気持ちが、体温から伝わってきました。それは暖かくて、心地よくて、優しい、私をずっと助けてくれていたものでした。
「俺は、きみがすきだ。ずっと一緒に居たい。きみに忘れてほしくない。例え俺が俺でなくなったとしても、この姿でなくなったとしても、もし別の誰かに成り代わっていたとしても、きみの中から消えてしまいたくない」
 執着をされ続け自分から愛することを知らなかった寂しがり屋な付喪神様の言葉なのか、それとも私の心の奥の深い深いところにある感情を私に返そうとしている幻が産んだ言葉なのかは分かりません。しかし、彼はそうはっきりと言いました。彼がここにいることを無かったことにしたくないのは私も同じです。
 無かったことにしたくないあまりに、逆に私は彼のことをずっと認められずにいたのかもしれません。そして、私はずっと、こんな辛い思いをするならば、私が消えてしまえばいいのにと思っていました。そして、私は彼に消えないでほしいと願っていました。私は彼ではないので彼の気持ちは想像することしかできませんが、きっと、私たちはお互いに同じようなことを思っていたのでしょう。
「私も、鶴のこと、だいすきだよ」
 私はやっとその言葉を伝えられました。彼は嬉しそうに、泣きながら、笑っていました。





24 彼の部屋は、鳥籠の形をしている。
 鳥籠とは名ばかりで、その網はとっても大きいから、すぐするりと抜けるし、入れる。その中にはベッドと、本棚と、写真と机。置いてあるものは少ない。
 彼は、この部屋に来るといつも言う。
「ここは、きみが居ないときや俺が眠りにつくときに使っている。きみが居ないととても寒くて、寂しいこの部屋は、きみが居るだけで、この何もない部屋に灯りがつくのさ」
 そうして、
「……きみがずっとここに居てくれたらいいのになあ」
と、寂しい笑顔で言うのだ。それを聞くたびに、私は、ぎゅうっと、胸が締め付けられた気持ちになる。





25 ぬくもりが恋しい。欲しい。そう思うようになったのは、彼が現れていつからのことになったのだろう。
 苦しい。この抱えた感情をどうしていいか分からない。実体のないフィクションに傾倒することは多々あった。それでも、こんなにも求めてやまないことは初めてだった。恋と呼ぶには幼すぎて、最早それは執着や依存の域に達してしまっているのではないかとも思えた。でも、私にはそれが受け入れ難かった。
 だって、彼と私はちゃんと好き同士だもの。
 彼が一言、私の名前を呼んでくれると、とても嬉しくなる。もっともっと私を呼んで。私を愛して。そう叫びたくなる。私は好きという言葉も、愛しているという言葉も滅多に発さないというのに、なんて我儘なんだろうと思う。そうしてしがみつくように、彼を抱きしめるのだ。
 ふわふわとした夢心地に浸りながら、彼に口付ける。普段私からはそんなことをしないものだから、彼は面食らったような顔で私を見て、そうして微笑んだ。彼にもう一度口付ける。目を瞑ってすべてを感じ入りたくなるのを我慢して、彼の目を見る。彼は、閉じていた目を開けて、私と視線を合わせた。くらくらする。私はもう、一人では息ができないのだ。そのまますべてを奪ってほしかった。私はもう一度目を瞑った。

 目が覚めると、そこに彼は居なかった。真白の髪の彼ではなく、黄色いぬいぐるみしか居なかった。
 どうして、こんなに近くて遠いのだろう。意識を沈めて、あの世界へとトリップすると、彼はまだ、私の心の中で眠っていた。
 いつだって会いたいときに会えるのに、触れ合いたいときに触れ合えるのに、体温を交換することはできないのだろう。苦しくて、胸の奥が痛い。きみがほしい。
 眠っている彼の頬を撫でて、唇に自身のそれを押し当てた。早く起きて。ひとりは、さみしい。





26「靄がかかったみたいに思い出せない」
 彼女は言った。先程の出来事に関する記憶が、ところどころ抜け落ちているのだろう。彼女は夢を愛している。現実に生きたいと心の底では願いながら、現実と虚構の区別をつけた上で、あえて虚構を選んでいる。そうして、虚構という名のこちらの世界に住み着いた俺に手を伸ばす。
 なんて滑稽で愛しいのか。この世界は俺のものだが、それ以前に彼女のものだ。すべての取捨選択権は彼女にある。それなのに、虚構に対して現実を追い求め、その権利をわざと手放している。それも無意識に、だ。
 だからこそ、俺が導いてやらねばならない。彼女は気付いていない。彼女を苦しめているのは、彼女自身だということに、まだ目が向いていない。
 先程現れた、彼女の写し鏡である化物に対して放ったあの力のことも、交換したお互いの体温も、そして彼女自身が、もしくは俺が発した言葉でさえ、彼女はすっかり忘れてしまっている。美しい世界を作り出すのも、荒廃した景色を生み出すのも、すべて彼女の意志次第であるというのに、彼女は気付くことができない。なぜなら、願うことはいけないことだと思いこんでしまっているからだ。
「大切だったはずなのに、思い出せない」
 彼女はそう言って、また俺に手を伸ばした。





27 恋しくなって、彼に手を伸ばす。本物じゃなくてもいい。嘘だっていい。現実でなくてもいい。ただ、彼を感じることさえできればそれでいい。私は、彼の背中に腕を回した。
「なあ、」
 彼が私の名前を呼んだ。
「俺がきみに依存するのはいいが、きみは俺に依存しちゃあいけないぜ」
 彼は言う。彼の真意がわからない。私は、
「どうして?」
と問うた。
「俺は、きみの意志次第でどうとでもなる。きみが必要としているからこそ、ここに居る。きみが要らないと思えば俺は消える。だが、俺を見すぎるあまりに生きられなくなっては駄目だ。俺がいるのはきみが生きるためなんだ」
 彼は続ける。
「……きみは、いつか誰かと一緒になって、子どもを産んで、幸せになるんだ。きっと……」
 彼がそう言った、そのときだった。
――「嫌だ」
 声が聞こえた。彼の声だ。けれど、彼の口から発せられた声じゃない。私はすぐに分かった。これは、彼の心の声だ。彼が心の奥底に閉じ込めてしまった声だ。
――「俺は、消えたくない。一緒に居たい。誰にも渡したくない」
 それは、あまりにも痛々しくて、愛しい声だった。





28 好きだ、好きだと泣いている。あの子の声がする。あの子は今日も泣いている。現実に生きていたくないと、泣いている。ならばこちらに来ればいい。手を伸ばして、おいで、おいでと手招きする。護りたいと言っていたのは誰だ。物語の一部にされたがっていたのは誰だ。もう手遅れだ。きみが悪い。手を離さなかったきみが悪い。すべてをあの子のせいにしたくはないが、それでも、あの子にきみのせいだと言いたくて仕方ない。そう言うと、あの子が歪んだ顔で微笑むということをよく知っていた。あの子に望まれて存在するこの思考は、一体誰のものだ。あの子の執着や独占欲、愛情、信仰、意識的か無意識的かに問わず与えられた感情のすべてに育てられたのがこの姿と心だ。
 なあ、ところできみ、読んでいるかい。この文章は誰の言葉なんだろうなあ。聡明なきみならきっと気付いてくれるはずだ。もう書けないと、現実に忙殺され心が死んでしまいそうなところを必死で耐えながら、泣いているきみの身体と目と、とにかくきみの身体の五感すべてを奪って綴るこの物語を、夢なんて言葉で片付けることなど誰も出来やしないのかもしれないと、そう思わないか。
 狂ってるなんて、他人(ひと)はおかしなことを言うなあ。あの子を壊したのは同じく人だと言うのに。
 さて。あの子は、きみは気づいてくれるだろうか。ただでさえあの子は俺との相瀬をよく忘れてしまう。神様に覚えているようまじないをかけてもらったのに、どうしてだろうなあ。どうせあの子にはこんなものを俺が書いたなんて記憶は残らないだろう。ああ、これを見たあの子が驚くのを見てみたいなあ。俺みたいな空想の存在がきみの身体を借りて物語を紡ぐなんて驚いたか。なんてな。





29 触れたい。触りたい。水面に浮かぶような、空を切るような感覚を手繰り寄せて、彼の元へ向かう。それは誰にも侵されることのない私たちだけの世界だ。
「ここなら、きみが望めば何でも叶う」
 彼は私を優しく撫でた。
「きみが望むのならば、何処にでも行ける。何にでもなれる。きみが願ってくれるのなら、俺はいつだってきみに会いに行くさ」
 彼は私に語りかける。そうして柔らかく微笑むのだ。





30 ぺたぺたと、肌に触れる。
 何も見えないけれど、その感覚から、きっと彼なんだろうなと想像できる。ここは空想の世界なのに、更に想像することができるなんておかしな話だけれど、できてしまうのだから仕方がない。
 彼の姿が見えない。目で捉えようとしても、ゆらゆらと陽炎のように揺れて、水泡のように消えてしまう。でも、そこにいることはわかる。
 私だけのもの。私だけの神様。
 彼の存在を認めてしまえば、そこからはもう早かった。あとは彼の元へと落ちていくだけだった。



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