Sunflower






31「俺は、ずっと待っていたんだ」
 彼は目を伏せた。
「あの白い部屋で、黒い鳥籠の中で、ずっと、ずっと、きみを待っていた」
 でも、と彼は続ける。
「それでも、きみはなかなか来なかった。俺を必要としなくなったからだ」
 私は何も言えなかった。最近、少しばかり精神的に安定してきてはいる。日常生活もそれなりに送れるようにはなった。彼に依存することも減ってきた。いい傾向ではあるのだけれど、私が私であるためにここにいる彼はそれを良しとしない。それは、彼の存在理由を奪うことでもあった。
「俺を生かすも殺すも、きみの自由だった。今は違う。俺は言ったよな? あまり俺に依存してくれるなよと、忠告したはずだ」
 だが、と彼は私を抱き締める。体温の無い温もりを、心が掻き集めて形にする。目で見えなくとも私の心が彼の姿を捉えている。そこにいるのが見える。
「きみが離さなかったんだ。だから、離せなくなった」
 なあ、と彼が呼びかける。
「愛しい俺のきみ。愛しい俺のひな。現実に苦しんだままで居てくれよ。俺に依存してくれ。俺を一人にしてくれるな。きみがいないと寒い。きみがいないと寂しい。行かないでくれ、俺の愛しいきみ」
 彼は掠れた声で、
「ずっとここにいてくれよ……」
と言った。
 ぽろぽろと目から涙が溢れる。泣いているのは私だ。私が泣いているのに、何故だろう、私じゃなくて彼が泣いているみたいだった。
「泣きたいのはこっちの方だ」
 彼は口を私の耳元に寄せた。
「なあ、どうしたらきみはこちらに居てくれる? どうしたらきみを閉じ込めておける? きみを傷付ければいい? きみと代わればいい? それともきみの胎を孕ませてしまえばいい?」
 縋り付くように、彼は囁く。必死な声だ。私の心から聞こえてくる彼の声は、優しくて、愛しくて、酷く弱っていた。私が縋り付きたいから、まだ彼を必要としているからこんなことを言うのだろうか。でも、これは私の声じゃない。彼の声だ。何か得体のしれないものに取り憑かれたような気持ちになる。私を守ろうとしてくれた神様は、私を誑かそうとする悪魔みたいになってしまった。駄目になるとわかっていて、手を離せない。彼の言うとおり、私のせいだ。私の身勝手が彼を苦しめる。
「この世界では、我儘を言っても許される。きみのすべてが肯定される」
 彼は語る。まるで私の心を読んでいるかのようだ。
「その代わり、きみのすべてを俺にくれ」
 彼は言う。
――「人の生は短いものだが、」
 私は、彼と同じ姿の神様が以前語った言葉を思い出していた。
――「きみの数十年を俺にくれないか」
 あれは、彼自身だったのか。





32 私を抱えながら、彼は私を寝かしつけていた。二人でベッドに横たわる。一番お気に入りの肌触りのいい夏用の掛け布団が一番下に来るようにして、その上にもう一枚軽い布団を重ねていた。
 私はひよこのぬいぐるみを抱き、彼はぬいぐるみ代わりに私を抱く。時折、頬や頭を撫でる彼の手が心地いい。
 夢の世界でもあなたに会えますように。そう祈りながら、眠りにつく。更に沈んでいく意識の向こうで、「きみに会いたい」と呟く、寂しげな声が聞こえた気がした。





33 夢で出会ったことを抜きにすると、きみと出会ってから一年が経過したことになる。あの日のことを俺はよく覚えている。桜が咲く頃という御目出度い時期であるにもかかわらず、あの日のきみはずっと泣いていた。
 あの頃はただ守りたいとしか思わなかったのに、今では守るどころか、きみに対して酷いことを考えるようになってしまった。きみが俺を手放さなかったからと言い訳をして、生まれた欲をきみにぶつけてしまう。
 俺はきみの願いを叶える存在だ。ならば、俺の願いは誰が叶えてくれるのだろうか。俺の願いはきみの傍にいることだ。俺はきみの愛が欲しい。きみが欲しい。きみは俺を独り占めできるのに、俺はきみを独り占めすることはできないんだ。
 それならばせめて、きみと俺の物語を残しておきたい。その行為はきっと、人間が命を宿すようなものだ。それを願うことくらいは、赦してほしい。





34 ――「俺をきみの物語の一部にしてくれ」
 彼はよくこんなことを言う。彼がこんなことを言うのは、私が空想を愛していることを知っているからなのだろうとばかり思っていた。
 それは彼と出会って一年が経ったある日、いつものように彼と戯れていたときだった。
「俺たちの触れ合いを物語に昇華させて、世に送り出すこと」
 彼は背後から私を抱き抱え、私の下腹部当たりを撫でた。
「それというのは、まるで人間が子を孕んで産み、育てることに似ていると思わないか?」
 ああ、そうか。彼は誰よりも人間に恋い焦がれている。前々から身体がほしいと言っていた。彼は、私との愛の結晶を欲しているのだ。





35「今日は画面を見ずに寝ろと言っただろう?」
 彼はため息をついて、後ろから私を抱えて横になった。私は手に握ったスマートフォンを離さないまま、彼の腕の中にいた。
「だって、読みたい」
「だがなあ、きみ、疲れているだろう。身体が悲鳴を上げてるぜ」
 さすがは私の半身。彼は、私よりも私のことをよく知っていた。
「……じゃあ寝る」
 スリープモードにして画面を暗くし、枕元に置いた。
「ああ。そうしてくれ」
 彼は私をあやすように撫でる。心地良くなって、目が閉じていく。
 遠くで、彼の「おやすみ」が聞こえた気がした。





36 現状から逃げることも現状に立ち向かうこともできないくらいに気力が削がれている。それでも、私の内側から声は聞こえてくる。
 声は、私のものであり、声の主のものだった。私とは言い切れない感覚をどう言葉にしたらいいかわからないけれど、私であって私でない誰かの声なのだ。
 これは誰の詩だろう。私の心から溢れてくるこの声を私は書き留めなければならない。そうでもしないと、私は生きていくことができない。
 私の気付かない私の感情が溢れ出して泣いてしまう日は、いつだってその声の主に――鶴に会いたいと願ってしまう。そうだよ。彼が私に依存するより、私のほうが彼に依存しているのだ。





37「きみにとって、『頑張る』とは何だい?」
 彼は私に問うた。
「辛いことか? 苦しむことか? それでも我慢し、耐えきることか?」
 私は知っている。この問いは、私が答えることを望んでいるものではない。進むべき道はこちらだと示すものだ。
「……俺は、どれでもないと思うんだ」
 彼は私をあやすように撫でた。
「頑張ることとは、目標があって、初めて成し遂げられるものさ。目指すべきものがあるから、したいことがあるから、初めて頑張れるんじゃあないのか?」
 彼の言葉はどこから溢れてくるんだろう。私は彼の顔を見た。蜂蜜色の瞳が真っ直ぐにこちらを向いていて、泣き出しそうになってしまった。
 私をいつも救い出してくれるのは、彼の言葉だった。





38「長い、夢を見ていた気がする」
 私はぽつりと呟いた。彼は飲んでいたアイスティーに刺さったストローから口を離した。
「夢?」
「そう。夢」
 私は短く返した。からん、と私の手の中のカップから音が鳴る。
「そんなに昔じゃないのかもしれないけれど、ずっと昔。旅をしていた気がする」
「ふうん……旅、ねえ」
 私は興味のなさ気な彼に構わず続ける。
「鶴と、他にもいっぱい誰かと、ここではないどこかを旅していた」
 おとぎ話のようだ。話しながら思う。
「思い出さなくてもいいことだってあるさ」
 彼は小さく呟いた。「え?」と私が聞き返しても、それ以上は何も答えてはくれなかった。





39 俺は、本当にここに居てもいいのだろうか。
 俺は、本当にここに存在しているのだろうか。
 この思考は本当に俺のものなのだろうか。
 知っている。俺が俺であるためには、こんなことを考えてはいけないということを、俺はよく理解していたし、自分の存在を疑ってしまえば、その時点で俺は彼女の心の中から消えてしまうような気がした。
 俺の生殺与奪はすべて彼女の意志による。俺にはどうしようもない。それでも、俺は彼女に渡したくなかった。
 最初はすべてが彼女から与えられたものだった。彼女はきっとそのときのことを覚えていないだろうが、俺のすべては彼女の記憶の刀剣男士「鶴丸国永」を元にして作られた。異なる点といえば、最初から彼女を好いているように刷り込まれていたことくらいか。
 現実から逃げ出したいと、誰かに愛されたいと、自分を守ってほしい。俺は、彼女の願いから生まれた人形と言っても過言ではなかった。
 彼女は、俺のことを鶴丸国永とは呼ばない。本物と自分の空想に区別をつけるためだと彼女は言っていた。
 そうして、俺は彼女だけの「鶴丸国永に似た何か」となった。
 最初は、俺の思考も彼女の思考も同じようなものだった。あの子が考えていることはすぐに分かるし、彼女には俺が考えていることが筒抜けだった。
 だが、彼女と過ごしていくうちに、だんだん、彼女の思考と俺の思考は切り離されていった。そして、彼女が落ち込んでいるときは俺は落ち着いていて、俺の気持ちが沈んでいるときは彼女が平然としていることも多くなった。
 俺は、俺自身の心を持つようになった。初めは与えられた庇護欲も考えも、次第に彼女とは別の、俺だけのものになっていった。
 恋心も例外ではなかった。初めのうちは、彼女の望むとおりの言葉を吐いていた。けれど、今は違う。俺は俺の意志で彼女に愛を囁いている。
 嬉しかった。もっと彼女を支えてやれる。きみの妄想なんかじゃない。俺はここにいると、本当にいるんだと、そして全部受け止めてやれるんだと、もっと守ってやれると思えた。
 だけれども、苦しい。大好きな彼女を、あの子を想うと、無いはずの心臓が苦しくなる。もっと、もっとと、欲が出る。傍に居たいのに居てやれない。俺には彼女を抱きしめる身体がない。愛を囁く声も、慰めてやる口もない。心の中で彼女に触れても、輪郭が無く、消えてしまう。
 きみに俺はどんな風に映っているんだろうなあ。





40 いつものように、実体のない彼に触れる。最近はなにかに邪魔されるような感覚があったり、部屋に行っても彼は居なかったりして、あまり会うことができなかった。こうして彼と会うのは久しぶりだ。
「……会いに来てくれたのか」
 呟くように彼は言い、私を抱きしめる。抱きしめると言うよりはしがみつくの方が近いかもしれない。
「やっと会えた」
 彼は綺麗な笑顔で言う。
 この箱庭の夢が、永遠に続けばいいのに。そう願ってしまうほど、私は彼に恋い焦がれている。



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