ー果たし状ー
裏山の頂上にて待つ
私が勝ったら真剣交際をご検討願う
くの一教室六年生 レイコ
「先生に指一本でも触れられたら、私の勝ちです」
まさに若気の至りであった。あの頃の私ときたら、本当に失礼極まりない子供だった。付き合ってくれた先生も先生だけど、向こうも若さゆえの過ちだったのかもしれないと、今なら少し思える。
卒業を間近に控えた私は、日に日に抑えられなくなっていく土井先生への思いを、決闘という形で消化する事を決めた。秋が終わる季節だった。
恋に恋するお年頃というか、とにかく盛り上がっていた私である。思いを秘めたまま卒業する事などできるはずもなく、先生がやってきた時から変わらぬ想いを抱き続けて早数年。卒業前に告白しようと決意したものの、何としてでも繋がりを保ちたかったので、勝者が敗者を支配できる決闘スタイルを選択し、勝ったら付き合ってくれと懇願した。先生は承知こそしなかったものの、決闘自体には応じてくれて、この六年間の集大成を愛という名の凶器に変え、本気で闘った。完全に若さの成せる業であった。
どう考えても勝てるはずがないから、指一本でも触れられたら私の勝ちという条件にし、先生はそれを飲んだ。実に愚かな選択であった。そのせいで、先生は今でも苦しめられている事だろう。
決闘はまず、いきなり背中にチョークの雨を浴びるところからスタートした。経絡秘孔を突かれたような衝撃だった。あとで風呂場で友達に、レイコの背中に北斗七星の痣あるよ、とドン引かれたと言えば、その凄まじさが理解できるだろう。容赦がなさすぎる。そんなに交際したくなかったのかよ。だろうな。
別に私だって、まともに闘って勝てるとは思っていない。先生が本気を出したら、指の一本も触れられない事はわかり切っていた。実力が飲み込めないほど馬鹿ではなかったから、知恵を使い、この一日のために膨大な時間をかけている。もちろん絶対に勝つためだ。地理や、気候や、そして先生の優しさなども、全て利用する。
疲労がピークに達して、肩で息をする頃には、私は崖を背にしていた。正々堂々の勝負に勝てる気はもちろんしないが、実は私の勝利は初めから決まっている。
「土井先生」
強い風が吹く中で、先生に呼びかける。どこか不穏な気配を感じたのか、先生はゆっくり近付いて、絶妙な位置で立ち止まった。私は最初から、絶対にそこで止まると思っていた。
「私がここから落ちたら、先生は助けてくれますよね」
「え?」
しばらく考える時間を与えたあと、後ろに下がる。言葉の意味は十分理解した事だろう。わざわざこの場所を選んだ事も、しっかりわかったはずだ。初めから罠だった事さえも。
「ま、待て」
風の勢いで落ちてしまいそうな私を、先生は深刻な顔で引き止めた。
「馬鹿な事を言うな、こっちに来なさい」
焦る先生に、私は笑いそうになるが、拳を握って耐えた。こんなの当たり前に本気なわけない。しかし、先生に思春期の女子の心などわかるはずもない。
「私の勝ちですよ」
優しい先生は私を助けるしかないのだ。崖下に飛び込む前に走り出し、私の手を取らざるを得ないだろう。完全勝利である。使えるものはなんでも使う、それが忍者だと教えてくれたはずだ。
疲労と高揚で妙なテンションになっている事が、先生には不気味に見えたのかもしれない。深刻な顔で説得を試み、往生際の悪さを発揮した。
「ひ、引き分けでどうだ」
「駄目に決まってるでしょ」
この期に及んで何を言ってるんだ。私の命と己の体裁を天秤にかけるんじゃないよ。私のためにさっさと倫理を捨てなさい。
まだ自分の立場がわかっていないようだな…の顔をし、もう一歩下がる。踵が浮いた。足場が悪ければ本当に落ちるかも、と思ったが、焦りはしなかった。それが先生への信頼だったのか、他の何かだったのかは、よくわからない。
「あー!わかったわかった!」
強風にも負けぬクソデカボイスで先生が叫んだ時、勝敗は決した。私は足を戻すと、降参させられたわりには屈辱に滲んでいない先生の目を見て、土井先生にとっては私の命と同じくらい、教師というものが大切なんだろうと感じてしまった。
「ぶ…文通をしよう…」
「はぁ?」
先生は、真顔だった。まるで私が本当に落ちると思っているみたいに慎重で、しかし限界値を示しながら、落とし所を提案してきた。一瞬もう一歩下がろうと思ってしまったけれど、卑怯な手を使ったんだ、これが譲歩だろうと大人になれた。
やや納得できないながらも前へ出て、ようやくお互い息をつく。
「…ちゃんと返事書いてくださいよ」
絶対マメなタイプじゃないと知っているため、最初から念を押しておいた。そもそも果たし状にも、交際を検討願うと書いただけだから、検討した結果文通になった、で決着をつけるしかあるまい。先生との繋がりが確保できただけでも儲け物だ。そう思うことにした。
思いの外ダメージを受けていたのか、歩くとふらついてしまった。すぐに先生が駆け寄り、肩を支えてくれる。
「大丈夫か?」
自分でボコボコにしといてよく言うよな…の気持ちと、馬鹿な子供に付き合ってくれて優しいな…の気持ちが同時に押し寄せ、切なくなった。もうすぐ先生とも会えなくなる実感が急に湧いてきて悲しい。新しい年になれば先生はまた別の子達を教え、そいつらに好かれていくんだろう。私の記憶も薄れてしまうに違いない。そういう予感が胸を締め付け、絶対嫌だと首を振った。
「卒業したら毎日手紙書きます…」
「真面目に仕事しなさいよ…」
呆れる先生は、私が泣きそうな事に気付くと、それ以上何も言わなかった。思わず手を繋いでしまうも、意外と握り返してくれて、そのまま帰った。美しくも恥ずかしい青春の思い出であった。
しかし、意外にも思い出で終わる事はなかった。
無事忍術学園を卒業した私は、早速手紙を書き、最初はちゃんと返事がきた。その後は予想通り一方通行になったので、最近は一年は組宛に手紙を送っている。
先生は元気ですか、お土産は何がいいですか、倉庫の血天井には実はイタズラで付けた私の手形があります、五年前に私が壊した備品があるのですがまだバレていませんか、よく効く胃薬を見つけたので先生にあげてくださいね、などと、どうでもいい事から有益な事まで書いて送ると、は組の良い子達から勤務先の城へ返事がくる。私はそれを楽しみにしているのだが、たまに先生からは、子供を使うのはやめなさいとお小言が添えてあって、それもまた嬉しい。
もうすぐ学園が秋休みになるというタイミングで、私も長めの休暇をもらう事になった。福利厚生がしっかりしているホワイトキャッスルに就職したおかげで、忍術学園にも度々足を運ぶ余裕がある。あんまり頻繁に来るから、先生も全然懐かしい顔はしない。
休みになると、先生ときり丸は薄い雑炊を食べる日々が始まるという。ドケチ根性逞しい話を聞いていたら、家の畑で埋まりっぱなしになっている芋の存在を思い出した。あと実りっぱなしになっている枇杷の存在も思い出した。全く手入れしていないものだけど、そんなもので良ければ持って行ってあげると言ったところ、それは悪いから先生が取りに来ると言うので、放課後一緒に向かう事になった。私も家に帰るのは久しぶりだった。
道中、土井先生と他愛のない話をしている時は、普通に楽しかった。仕事で忙しくしていると先生への思いが薄れるような気がしていたが、こうして一緒にいれば、やっぱり好きだと痛感する。全然青春の思い出に昇華してくれない。現在進行形でまだまだ好きだ。
畑に着いて、これが芋であれが枇杷ですと指差し、私の記憶より小さかった作物に、ちょっと申し訳ない気分になる。
「助かるよ」
「味の保証はできませんけどね、ずっと放ったらかしなので」
うちは両親も忍者だから、畑はしない。一昨年まで祖母が野菜を売っていたが、亡くなってからは完全放置である。放置していても勝手に育っているようだから、たまに野生動物が掘り返していたりする。とても人様にあげられるようなものじゃないが、そういうものの方が気兼ねなくもらえると言うので、渡す事にしたのだった。
荷物を置くため家へ入ると、誰もいなかった。代わりに五色米が置いてある。
前回の満月から七日間不在と残してあった。先生に見られる前に散らし、まだ帰らないな、と考えたら、よくない考えが浮かんでしまった。そういえば私は卑怯な忍者なのだった。
「ご両親は?」
「もうすぐ帰りますよ」
咄嗟に先生に嘘を伝え、文通相手からの進展を望んでいる自分に気が付いた。まず文通が成立していない事が問題だ。提案したのは先生のくせにな。
とはいえどう仕掛けるか…と考え事をしながら、一緒に芋を掘る。芽が出始めている小さな芋だ。枇杷も萎んできてる始末だし、もはや実ではなくほとんど種なのでは?といった有り様なので、さすがに面目ない。
「すみません、こんなもので」
「いや、十分だよ。こっちこそ貰ってばっかりで申し訳ない」
そう言った先生が、私が学園に来るたびに持参する土産の話をしているのだと気付いて、静かに首を振った。
「別に先生にはあげてませんよ。お土産は全部一年は組の良い子達宛てですから。手紙の返事のお礼に」
「うっ」
痛いところを突かれた先生は、鍬を置いて胃を押さえた。自業自得すぎる胃痛に同情の余地はなく、私は芋の芽を引きちぎって先生の方へ投げる。
「悪いとは思ってるんだが…色々やる事があって…」
「冗談ですよ」
意地悪を言った事を素直に謝り、私は元からわかっていた結末を受け入れている。
「手紙は私が書きたくて書いてるだけ」
そう言うと、先生はやはり申し訳なさそうだったが、微笑んでくれた。
「…ありがとう」
その言葉だけで十分な気持ちになると同時に、手紙などでは全然足りないと自覚もした。私の思いを知っていながらのこのこついてきた先生が、一体何を考えているのか、もしくは何も考えていないのか、それを探りたい。あわよくば、手紙より確かなものを手に入れてみたい。若気の至りだと思っていたあの時の感情は、生涯現役なのだと思い知らされた瞬間だった。
「私も出そうとは思ってるんだけどなぁ」
「はいはい」
言い訳はいいですよ、と思ったところで、突然雨が降ってきた。まるで筆忠実な私を手助けするような展開に、日頃の行いを天は見ているのだと思わざるを得ないのだった。
日も暮れて、止む気配のない雨の音を聞きながら、私達は夕飯に薄くない雑炊を食べた。七日も家を空けるだけあってろくな食材がなかったが、きり丸の作る雑炊には雑草が入っているとの事だったので、何も気にする必要はないと強く感じた。ハードルが下がって有り難い。貧相な芋と枇杷もまともに思える。
止みませんね、と食器を片しながら土砂降りに言及する。それどころか雨足は強くなっているようだ。先生の顔色が少しずつ変わっていく様子を観察し、反対に私は不敵な笑みを心の中で浮かべていく。もっと降れ、と脳内八代亜紀も熱唱する。
「泊まっていってください」
「えっ」
「忍術学園、明日休みですよね」
断る口実を確実に潰しながら、私は悪魔の提案をした。
泊まっていけ、土井半助先生。文通しようと言っておきながら一通しか送っていない罪悪感に苛まれ、私を拒絶できないまま身を委ねるがいい。恐れる事はない。何が起きたとしても、全て雨のせいにすれば良いだけなのだ。
呪いでもかけるかのように念を送り、純粋な好意と強かな下心を混ぜ、私は先生と視線を合わせた。どう受け取っても構わないが、どんな手を使ってももはや帰すつもりはない。私の卑劣さは先生ならよく知っている事だろう。
「いや、しかし…」
当然渋った先生に、私は平気で嘘をつく。
「もうすぐ両親も帰ってきますから」
「それは有り難いような…恐ろしいような…」
「何ですかそれ」
どういうつもりの発言かわからず、思わず突っ込んでしまう。
「やましい事でもあるんですか?」
「ないないない!絶対ない!」
そんなに全力で否定しなくても。逆にあるのか?と思っちゃうだろ。あればいいのに。先生の脳内にも八代亜紀が住めばいいのに。
先生が家にいたところで、両親は気にしないだろう。いつもお世話になってます、くらいの事だ。恐ろしい事など何もない。もちろん帰ってきたりはしないため、考える必要もない。
時間ばかりが過ぎ、先生には少し短い父の寝巻きを貸したりしながらまた時間が過ぎ、勝手に布団を敷いてさらに時間が過ぎ、とうとう観念して先生は横になった。激しい雨とは裏腹に、私の心は凪いでいて、隣で眠るだけで満足なのか?と自問する。文通の返事がないせいで、些細な事で満たされる体になってしまったのかもしれない。安上がりだ。なんてお買い得なんだ。
「先生」
とはいえこのまま眠ってしまうのは惜しい。私はあれ以来触れてこなかった若気の至り…つまり決闘の日の事を、ついに語る事にした。確かめたい事があったのだ。
「先生と勝負して、私が見事勝利した日…」
「引き分けにしてくれと言っただろう…」
まだ言ってやがる。意外としつこいな。
細かい事まで先生が覚えている事に嬉しくなってしまい、何だかちょっと泣きそうだった。忘れてほしい気もするけど、忘れていないから今こうして先生を縛りつけていられるわけだ。どちらかと言うと手紙を出さない罪悪感を利用している方がでかいのだが。
「…先生あの時、岩の下に鉤縄を隠していましたよね」
私がそう言うと、先生は一瞬息を止めた。つられて私も口を閉じた。
どこで戦うかは、果たし状であらかじめ伝えていた。だから先生が何か仕掛けるかもしれないと、私は毎日毎日裏山に通い、不審な場所を調べ尽くした。集中力と記憶力で地の利を得て、果てない努力の末、とうとう見つけたのがそれだった。あの日先生が立ち止まったまさにその場所に、たった一つだけ、それがあったのだ。
「あれを使って私を捕まえればよかったのでは?」
この数年、聞きたいような聞きたくないような気持ちで過ごしていた疑問を、ようやくぶつける。指一本でも触れたら私の勝ち。だから鉤縄で私を捕らえて引き上げれば、崖からも落とさずに済むし、先生の勝ちで終わったはずなのだ。
それをしなかったのは、自信がなかったのか、私に花を持たせたのか、若さゆえの判断力の欠如か、それとも私の気持ちなどすぐに風化すると、侮られていたのか。
答えを知るのが怖かったけれど、この機を逃したら二度と聞けないかもしれない。どうか本当の事を言いますように、と祈っていれば、数年越しに真実が明かされた。実に先生らしい判断だった。
「…もしお前がすでに鉤縄に気付き、別の場所に隠していたらと考えたら…できなかった」
裏の裏を読んでの事か、と感心すると同時に、先生の優しい性分を思い出して、胸の奥が熱くなる。
鉤縄などで私を捕えるより、先生の言葉の方が効果がある事は見透かされていたみたいだ。結果的に文通程度の関係で済んでいるから、逆に先生の勝ちなのかもしれない。
嬉しかったのは、私がどこまで見抜いているか、先生にも読めなかったというところだ。思春期の女子の不気味な執着は大人の忍者でも恐ろしいらしい。手も足も出なかったけれど、侮られてはいなかった。こんなに誇らしい事はない。
「使わなくて正解だったみたいだな」
先生はホッとしたように苦笑を浮かべたけれど、私はそれをすぐに打ち砕く。
「いいえ」
残念ながら、お前はやはり負けている。それを突きつけるため、私はありのままを語った。
「鉤縄は見つけましたけど、そのままにしておきました」
やや軽い岩を少しだけ動かし、下を見たところで、私はそれを元の位置に戻した。先生絶対私と付き合う気ないんだな、と思ったら、普通に悲しくなり、勝敗よりも生死の方が大事になってしまったのだ。
「先生のために死ねるほど…好きなわけじゃありませんでしたから」
本当に崖から落ちた時のための安全策として、それを残すしか選択肢はないのである。だって助けてくれないと困るし。先生から見たら恋に命懸けな若気の至りモンスターだったかもしれないが、実際は強気で打算的で現実的なのがくの一教室の良い子たちなのだ。手紙の返事をもらうために子供を使うような、卑怯な忍者なのだった。
「そうなんだろうけど…」
さっきから苦笑が止まらない様子の先生は、私に完全敗北しても尚悔しがる事はなく、何やら言葉を探していた。ようやく見つけたわりに、私にはピンと来ない。
「何だか急にいなくなりそうな気がしたんだよ」
そう言われましても、現在も全然隣にいますが…と思う他なく、私は曖昧な返事をする。
「…そうですか」
桜に攫われる平成初期の受けじゃあるまいし、そんな実感はまるでなかった。そりゃあこんな仕事をしていればいつ何があるかわからないけれど、それ以上に思春期の女子の危うさみたいなものが先生には見えたのだと思ったら、急に点と点が繋がった。
「え?だから文通なんですか?」
図星なのか、先生は黙り込んだ。子供騙しと思っていたこの手紙のやり取りが、案外意味を成していたのだと気付き、私は思わず起き上がりそうになる。
急にいなくなりそうで心配だったんだろうか。私がちゃんと近くにいるかどうか、先生は、手紙を読んで安心したかったんだろうか。
それって結構…愛じゃないか?
「…自分は書かないくせに」
「それは悪かったって…」
私が責めると、先生もとうとう仕返しを繰り出した。
「あと、ご両親が帰るなんて嘘だろう」
バレてたのか。五色米を消したのが逆に怪しく見えたかな。
「嘘とわかって泊まったんですか?」
「別にやましい事もないしな」
平然と言った先生の後ろで、雨足が弱まったのを感じる。忍者に足も時間も関係ない、雨が止めば帰ってしまう恐れがあり、少し焦った。八代亜紀頑張れ!と私は応援するしかなかった。
しばらく布団の中で雨の音を聞いていたら、また少し強くなる。先生は動かない。でもまだ眠ってはいない。
「本当にないんですか?」
「さっさと寝ろ!」
ありそうだな、と何故か確信が持てた。この勝負も勝てる、と思った。先生が指一本でも私に触れたら、私の勝ちだ。
布団から這い出て、四足歩行生物と化しながら隣へと移動する。
「土井先生」
「待て待て待て…」
すると、さすがに先生も抵抗を見せた。起き上がって逃亡を謀ったから、出られないよう布団を押さえる。別に本気で押さえ付けたわけじゃない。けれども、先生の動きはそこで止まった。
「そういえば私…先生にチョーク連撃食らったあと、背中に北斗七星の痣できたんですよ」
「お、お気の毒に…」
「まだあるかも。見ますか?」
無理がありすぎる誘い文句だったが、私はこの北斗七星のおかげでしばらく笑い者だったため、責任くらいは取ってもらいたい。実際、消えているかどうか私にもわからなかった。わざわざ背中を見る機会も見せる機会もなかったからだ。大きな怪我もなく健康に過ごせている。
顔を近付け、目を泳がせる先生を間近で見つめる。先生の中で私が、あの時決闘を挑んできた子供から、普通に卑怯な忍者へと変貌を遂げていくのを確認したい。
「さすがに…もうないだろう…」
私もそう思っているが、あるかないかわからない、つまりシュレディンガーの北斗七星が重要なのである。確かめてもらうまでこの雨は止ませない。亜紀の力を信じてる。
先生が避けないのをいい事に、私は唇を当てた。意外と遠慮してしまい、何が触れたかもわからないくらいささやかなもののまま、体を離された。
「や、やめなさいって…」
自信なさげな言い方から、やめなくていいやつと判断した私は、制止も聞かずにもう一度唇を重ねて、というか押し当てた。引き剥がそうとする先生すら押さえつけていると、思いがけず舌が入ってきたため、驚愕のあまり悲鳴を上げてしまう。
「うわっ」
急にやってきた生々しい感触は、刺激が強すぎた。子供だと思われたかな、と謎の心配をしながら身を引くと、あっという間に押し倒され、背後を取られる。腕を捻られてしまっては、もう動けなかった。
「…背中だな?」
「え?」
そう言うと、寝巻を引っ張られた。髪を払う先生の手が肌に触れる。怒涛の展開を噛み締める間もなく体温だけが上がっていき、外気に晒された背中も全然寒くない。そんな事より腕が痛い。
容赦がなさすぎる。やはり決闘しかないのか、とあの頃の決断が蘇る。節度ある忍術学園の教師が応じてくれるもの、それは決闘だ、と本気で思っていたが、今もそうなんじゃないかと感じさせるほど、先生の力は私を圧倒する。
「暗くてよく見えないが…」
抜け出す方法を考えている間に、背中をなぞられた。しかもちゃんと北斗七星の形に。よくそんな星座知ってるな。
私の体が熱いせいで、先生の指が冷たい。温度が混ざり合うためには、やっぱり先生に勝つしかない。床下に暗器もあるし、戦ってみようかな?今度は胸に七つの傷がある男になっちゃって南斗水鳥拳のレイから狙われるかもしれないけど、闘いに負けるとはそういう事だ。甘んじて受け入れるしかあるまい。その代わり勝ったら絶対交際してもらおう。また卑怯な手を使うかもしれないけど。
脳内果たし状を叩きつけている私の背を、先生が真剣に見ている事がわかった。この暗がりではどうせわかるわけないのに。
「確かにこの辺に投げたかも…」
「かも、じゃなくてそうなんですよ」
経絡秘孔を突いた、お前はもう死んでいる…レベルの衝撃だったんだ、本当に痛かったから死ぬまで投げられた場所は覚えていると思う。チョークの殺傷能力を私は決して見くびらない。
この隙に抜けようとしたら、それを見逃す先生ではなく、さらに力を加えられ、覆い被さられた。丸腰で勝てる相手ではない、武器を使おう、そう思った時だった。
完全に学生気分に戻っていた私だったが、首筋に唇を寄せられ、思ったより展開が進んでいる事にようやく気がついた。
もはや勝ち負けとかそういう次元の話ではなかったんだ。人の心を支配できるのは圧倒的勝利などではなく、毎日手紙を書いたりだとか、読んだりだとか、貧相な野菜をあげたりだとか、そういうささやかな事で生まれる感情なのだと理解して、意図せず先生を仕留めていた事がやっとわかった。
いつの間にやら拘束は解かれ、それでも動けない私は、先生の指が体を這うのをじっと感じているだけだ。私は目も合わせられず、加えて何も言えず、そして先生も何も言えなさそうだった。口を開くと、どうでもいい事を言って終わってしまいそう。そうなりたくなかった。
本当はあの時、崖から落ちてみてもよかった。そんな気がしてくる。
雨はとっくにあがっていた。
私は一切眠れなかったが、先生は普通に寝ていた。明け方まで寝顔を見つめ、隙間から日が差してきた頃、ようやく背を向けて目を閉じる。時間が経つほど体が重くなっていく。妙な疲労感があるも、眠れる気はせず、そうこうしているうちに先生が起きた気配がしたので、寝た振りをした。寝た振りというか、寝た振りをしている私に気付いている土井先生に気付かない振りだ。
身を捩った先生は、あからさまに落ち込んだ雰囲気を出し、それは起き上がれないほどのショックだったのか知らないが、しばらく布団の中でだらだらしていた。私の方を見る事なく、思い悩んでいる気配だけを強く感じる。
「はぁ…」
なんだその露骨な溜息は。自分でやっといて何なんだ?大体文通も自分から言い出しといて続いてないし、責任感なさすぎだろ。教師としてどうなんだよ。
天井を見上げながら、先生は無意識なのかわざとなのか、私の髪を弄んでいる。肌に髪が落ちるとくすぐったい。完全無視を決め込んでいたら、ようやく口を開いてきた。
「手紙のことだけど…」
また言い訳だろうか、と漠然と考える私の予想とは裏腹に、意外な言葉が降ってくる。
「出してない分があるから、今度取りに来てくれ」
あるんかい。書くだけ書いて出すのが面倒になったパターンか。まぁ私も郵便物を取りに来る者がいなければここまで筆忠実ではなかったはずだから、正直気持ちはわかる。責める気は起きない。
ていうか、今まで何回も忍術学園に行ってるんだからその時に渡したらよかったのでは?と純粋な疑問が浮かんだ。忘れてたんだろうか。いや忘れるなよ。こっちが何通送ったと思ってるんだよ。結構金もかかってるぞ。
不平不満を溢れさせていたら、ようやく眠くなってきた。先生の声を聞きながら微睡みに落ちていき、寝てる間に帰ってほしいような、起きるまでそばにいてほしいような、相反する感情に飲み込まれていく。結局書き置きを残して帰ってしまったけれど、最後に聞き取れた言葉には、いろいろ言いたい事もあった。
「誰かに見られたら困るし…直接渡すよ」
一体何を書いてるんだよ。そう思って私も当たり障りのない事しか書いてないのに。逆にそんなものをいつまでも手元に置いておく方が怖くないか?それこそ忍術学園の誰かに見られたらどうするんだ。
考えるのも恐ろしくなり、そのまま寝落ちた私は、二月後に学園を訪れる事となった。
先生は、四通の手紙を渡してきた。想像したより多かったことに感心すると、照れているのか素っ気なく去ってしまい、そして私も逃げるように忍術学園を後にして、人気のない山中で手紙を読んだ。こんなにドキドキしたのは久しぶりだった。
元気にしてるかとか、背が伸びたんじゃないかとか、今いくつになった?利吉くんと同じ年だったっけ?とか、親戚のおじさんみたいな事が書いてあったり、この前の着物は似合ってたとか、顔が見たくて筆を取りましたとか、確かに見られたらまずいな、と思わせるものもあって、私は気恥ずかしさにたまらず顔を覆った。
私が気付いていなかっただけで、もしかしたら先生とは案外昔から気持ちが通っていたのではないかと自惚れてしまいそうなる。ただ、私が八代亜紀に祈りを捧げていたあの夜がなければ、きっとこの手紙を貰う事はなかったのだろう。渡すのを躊躇った理由がわかるくらい、読んでいて顔が熱くなる。
四通目は、最後に会った日のあとに書いたもののようだった。
枇杷と芋を食べた、腐りかけの方が美味い、という謎のフォローがしてあった。渡した時は腐ってなかったはずだと弁解しておきたい。腐らせたのはお前らだ。
きり丸が喜んでいたこと、枇杷の種を取っておいたことなど、内容のほとんどが礼だったが、最後に、痣のことだけど、と突然脈絡のない言葉が現れ、私はそこを指でなぞる。
よく見えなかったから、今度確かめる。
そこで手紙は終わっていた。
初めは、残るような傷をつけたことを気にしてるのかな、と思って、申し訳なく眉を下げた。私が挑んだ決闘だし、実力の差は歴然なのだから、怪我をするのも当然だ。逆にこの程度の傷で済んでしまった事の方が、己の実力不足を痛感して悔しい。
しかし、突然脳内で鈴木雅之が叫んだ。
違う、そうじゃない、と。
そういう意味じゃない、これは絶対そういう意味じゃない。そういう意味なら、別に普通に出せる手紙だ。
私は思わずその場に倒れ、手紙を荷物の奥深くにしまい込んだ。誰にも見られないように、いや別に見られたって当人以外にはわからないのだから、何も気にする事はないのだろうけど。
やましい事があるから、出せないし見せられないのだ。