実習の帰りに土砂崩れがあり、迂回するはめになった私は、すでに嫌な予感を覚えていた。
日が暮れてきた中で、慣れない道を歩く不安よりも、この非常事態にさらなる非常事態が重なる気配を感じ、自然と早足になる。
もちろん予感は当たった。薄暗い道を走ってきた人物を見た時、思わず私は足を止めた。もはや一歩も進みたくない境地だったのだ。
「レイコ」
手を上げる土井先生に軽く応え、ついでに降ってきた雨に呆然とし、こんな運命を授けるフォレストサーバー神を恨んだ。
当初の予定から大幅なタイムロスで実習から帰る私を、授業を終えた土井先生が迎えにきてくれたらしい。どうして土井先生なのか尋ねたら、手の空いた者が来ただけだという。空かないでほしかった。いつもの一年は組の補習はどうしたんだ。
加えて土砂降りに見舞われ、近くの廃寺で休むしかなくなった我々である。ここまで来ると、フォレストサーバー神の力にひれ伏すしかなく、私はもはや諦めの境地にいた。
すごいな、フォレストサーバー神。この状況も神の力で作り出したというのか?いや私は全然信じてないけど。信じてないけども、もはやどうする事もできないので、大人しく雨が止むのを待つしかなかった。通り雨っぽいことだけが救いだった。
相変わらず土井先生とは、不可解なフラグが立ち続けている。常識では説明できない何かの存在を信じてしまいそうなほど、先生と無理やりに縁を結ばされている気がしてならない。
学園長の突然の思いつきで大運動会が開かれた時は、二人三脚で土井先生と組まされたし、蕎麦屋に行ったら土井先生と相席だったし、図書室で本を借りようとしたらたまたま同じ本を借りようとしていた土井先生と手が触れ合ったし、とにかく毎日がときめきメモリアルだ。いっそ爆弾ついてほしいくらいだった。
そして今日は雨宿りイベントか…と冷静に順応しながら、廃寺を見回す。すると、なんだか奇妙な雰囲気を感じた。
廃寺のわりに…なんか人の痕跡があるな。しかもそう古くない感じの。私は暗がりに散乱したゴミを見て首を傾げた。
塵紙、丸めた塵紙、褌、手拭い、破れた布、丸めた塵紙、丸めた塵紙、丸めた汚い塵紙。
なんだ?ここはゴミ捨て場か?
よく見ると中央に畳が二畳置いてある。血のような染みが点々と付いていて不気味だ。ただでさえボロの廃寺が一層心霊スポット感を醸し出しており、もしかしたら肝試しにでも使われているのかもしれないと思った。廃寺なんて絶好の場所だからだ。
今度くの一教室のみんなに教えてやろうかな…なんて考えていた時、奥の壁だけやけに新しい事に気付く。全てが色褪せたこの室内で、まだ白みの残るその壁は、何故か微妙に傾いていた。優秀な私には正体がすぐにわかった。
「土井先生、ここ隠し扉ですよ」
壁を強く押すと、思った通り回転した。奥に現れた小部屋は狭く、ちょうど扉一枚分の幅しかない。もしかするとただの廃寺じゃないのでは…と勘繰った時、先生も隠し部屋へ入ってきた。当たり前に狭い。誰がどう見たって狭い。
「この板だけ後付けされたようだな…」
先生は冷静に分析しているが、狭いんだ。早く出ていってくれ。そう願った瞬間の出来事であった。
入り口の方で、物音がした。人が駆けてくる気配に、私は思わず扉を閉めて隠れてしまった。何故そんな事をしたのか自分でもわからず、また胡散臭い神の力を信じそうになる。
なんで隠れた。なんで隠れたんだ。人の気配がしたからって別に怪しい奴とは限らない、私達みたいに雨宿りに来た一般人かもしれないだろ。なのになんで隠れた、なんで隠れちゃったんだよ。隠れたらもう出られないだろ。
先生も困惑したのか、私の背後でどうしたのかと聞いてくる。こっちが聞きたいよ。どうかしてるのはこの状況なんだよ。
入ってきたのは男女のようだった。話し声が近くで聞こえる。そんな事より狭すぎて、私の心音が先生に聞こえるんじゃないかと思うと、そっちの方が恐ろしかった。先生に背を預けるしかない中では、全てを見透かされてしまいそうだ。
まずいぞ。雨宿りからの暗所密着イベントはラブコメの定番すぎる。これがロマンスの神様の力か?本当にこの人でしょうか?違いますように。
「随分濡れたな…」
「ええ…」
どうやら雨宿りに来たらしい男と女は、声の感じからして若い。私と同じ年の頃だろうか。
どのタイミングで出ていくか迷っている間に、ふと戸に穴が空いている事に気付いて、思わずそこを覗き込んだ。
なんだ、この穴。おあつらえ向きに二つ空いてるが。ちゃんと両目の位置に。私の目の高さの位置に。
暗闇ではシルエットくらいしか見えないが、二人は濡れた服を脱いでいる雰囲気がある。なんだか嫌な予感がするけど、そんな事よりこの穴は何なんだと気になって仕方がない。
どう見ても覗き穴だぞ。何なんだこれは。ただの廃寺じゃないのか?隠し扉があるという事は隠れるための施設として誰かが使っているのだろうが、一体どこの誰が何のために。追っ手から逃れるためか、それともここで行われる何かを見るためか。たとえば…。
考え込んでいたら、脱いだ着物を絞りながら男が話し出す。
「お前…あの話本当なのか、村長の息子のところに嫁ぐってのは…」
出て行きにくい話が始まってしまった。
「…本当です」
「どうして言ってくれなかった」
「言えるわけないでしょう、あなたにそんなこと…」
まるで安いメロドラマみたいな会話が繰り広げられ、土井先生も困惑している事がわかった。私に至っては冷や汗まで出てきてしまい、忍者にあるまじき醜態である。落ち着け、と言い聞かせるも、進んでいく展開から目が離せない。
何だこの雰囲気は。
もしかしてここが…占い師の言っていたハーレクインの部分…!?
「だって私…」
いつの間にか雨は止み、ボロ壁から月明かりが差し込んできた結果、さっきよりも二人の様子が見えた。見つめ合う男と女は何か言いたげに拳を握っていたが、やがて言葉はいらないと判断したらしい。ゆっくりと顔を近づけ、とうとう熱い口付けを交わし…。
というところで、土井先生に目を覆われた。
「…見なくてよろしい」
耳元で囁かれた時、危うく悲鳴を上げそうになった。近い!と改めて実感したら、体が硬直してしまった。
ち…近ぇ、近すぎる。駅から徒歩一分ってレベルじゃねーぞ。
耐えられずに先生の手を払い、覗き穴から目を離す。しばらくは静かだったが、そのうち床が軋み始め、底が抜けたりしないだろうかと心配した。かなりボロかったからな、弾みで扉が開いたりでもしたら気まずいなんて話じゃない。いやそもそも、すでに気まずい。土井先生とは。
扉一枚隔てた向こうで何が起きているのか、さすがに私もわかる。愛し合う二人が決して結ばれぬ事を知り、せめて今宵だけでもと慰め合う…つまりロミオとジュリエットである。あの薄汚い畳の上でよくそんな気になるな…と冷静に引きながらも、どうなっているのか見たいという好奇心も顔を出し、落ち着かない気分だ。見つかったら終わりだってのに。
お茶の間で濡れ場が流れた居た堪れない家族のような状況だったが、案外先生は平然としながらまた私に声をかけた。
「終わったら教えるから…耳を塞いでていいぞ」
有り難い気遣いを受け、言われた通りにしたけれど、よくよく考えるとそれもどうかなって感じだった。さすがに六年生ともなるとこの程度の事で動じはしないと先生は思っているようだが、まぁ実際そうだし保健体育で習ってるけど、それはそれとして何とも言えない不快感が私の中に渦巻いている。
思わず先生を振り返ったら、本当に近くてびっくりした。しかも目が合った。見ないでくれ。
「…先生が聞き耳立ててる方がなんか嫌じゃないですか?」
「え?そ、そうか?」
なんかなぁ…親がエロ本見てたみたいな不快さがあるよなぁ?親にはそういうのと無縁であってほしいっていうか…あの清純派な土井先生がロミオとジュリエットの情事を聞き逃すまいとしてる方がショックでかいだろ。別に聞きたくて聞いてるわけじゃないだろうけど。
しかし私は違う。聞かねばならないというのなら是非聞かせていただこう、後学のために。
「私が見てますから、先生が耳塞いでくださいよ」
「いやそれも教育上よくないような…」
渋る先生を振り切り、免罪符を得た気分の私は、再び穴を覗いた。しかし本当に見事なまでの穴だ、このためにあるんじゃないかと思わざるを得ないくらい良い位置にある。ていうか本当にこのためにあるんじゃないか?ここで行われる何かを見るための隠し扉と覗き穴。
つまり…ここ、ハッテン場ってこと?
想像した瞬間、鳥肌が立った。そう考えたらやたらと塵紙が落ちていた理由も納得でき、ますますゾッとして背筋が凍る。
何という事だ…確かにそういうスポットがあることは知っていたが、わざわざそれを覗く奴がいるとは…しかもこんな隠し扉まで作って。いつ見つかるかわからないスリルを楽しんでいたとでもいうのか。下衆すぎる。これは愛と正義の忍術学園としては見過ごせない。
そうと決まったわけではないが、現にこうして覗けてしまうため可能性はある。何よりこんな扉さえなければ私達がこの状況に陥る事などなかったのだ。憎しみしか湧いてこなかった。
ちょうど月が隠れたタイミングだったようで、ぼんやり浮かぶシルエットから、呻き声が発せられている事だけがわかった。わりとホラーだ。なんかもっと盛り上がるのかと思いきや、お互い苦行ですみたいな感じで痛々しい。
もし占い通りに土井先生と結婚するとしたら、私もいつかこんな事をしなくてはならないのだろうか…?危うく想像しかけた瞬間、先生が後ろから私の肩を寄せた。
「やめなさいって…!」
「はいはい…」
食い入るように見てたら怒られた。そりゃそうだ。ロミオとジュリエットに申し訳ない。
しばらくその体勢のままじっとして、床の軋みと声と息遣いを聞き、動じぬよう心を落ち着かせる。
体勢を変えず息をひそめる、これも忍者の訓練と思えば、平常心を保てそうだ。先生の鼓動も似たようなもので、微塵も心乱れていない。そのためか、何だか占いへの恐怖が薄れていき、やっぱり有り得ないな、と実感が湧く。
この先生とどうにかなるなんてやっぱり嘘だよ。信じられない。二人でこんな光景を目の当たりにしても境地的には無なんだもん。無。何も起きる気がしない。土井先生からのあまりの脈のなさに、私は久しぶりに安心感を覚えていた。
そのうち床板の不穏な音も止まり、もう一度穴を覗くと、二人はそそくさと服を着ているところだった。やはり私と同じくらいの年に見える。忍術学園で人並み以上の経験を積んだ気がしていたが、こうなってみると私なんかは全然遊んでばかりだなと思ってしまった。占い如きで心乱される小さき人間…そう感じたのだった。
しばらく二人は話していたが、別々に帰って行った。男の方が不気味なほど泣いており、涙を拭いた塵紙を捨てて去った。お気の毒ですがポイ捨てはやめなさい。女が去ってから捨てるのも感じ悪いな。だから寝取られるんだよ。
静まり返った室内は、月明かりが差して今日一番明るい。
「先生」
「…なんだ?」
「この隠し部屋の用途…何となくわかった気がします」
「それはいいから早く出てくれ…」
そうだった、と私はゆっくり扉を回転させる。一度外を見て、誰もいないのを確認し、やっと大きく息をつけた。
マジで疲れた。実習より疲れた。むしろこっちが本番だったのではと思うほどの疲労感。ここからまた帰らないといけないんだからつらいよな、しかも土井先生と一緒だ。もはやこれ以上何も起きない事を祈るしかない。
ぬかるんだ山道を一歩踏み出すと絶望的な気持ちになり、つい大きな溜息が出てしまう。すると何を思ったのか、心配げに土井先生が並び立ってきて、逆に私は距離を取った。
「大丈夫か?」
「はい…そこそこ大丈夫ですけど…」
微妙な返答をしたあとで、不可解な廃寺の設備の見解を述べた。あれが一体何だったのか、答え合わせをしたかったのだ。
「あの隠し扉、覗きのためにわざわざ付けたような感じでしたね」
「今はそうかもしれないが…昔は別の用途があったんだと思うぞ。床に抜け穴があった」
「は?」
先生の発言に私は衝撃を受け、思わず立ち止まった。そんなものがあることに気付きもしなかったのは普通に恥だが、それよりも感じるべき事が一つある。
「じゃあ何でそれ使って脱出しなかったんですか」
「雨が降ってたし…」
「途中で止みましたよ」
「物音を立てたらまずいだろう」
何を言っても反論してくる先生だったが、どうにも納得できず、私は渋い顔をする。確かに二人入った状態では狭すぎて、床板を動かすのは難しかったかもしれない…でもずっとあの状態でいるくらいならトライしてもよかったのでは?と思ってしまう。逆に雨が降ってるうちなら多少の物音は誤魔化せた気もするし。
今さら言っても後の祭りだ。先生を責めても仕方がないが、燻った気持ちを抑え切れず、つい余計な事を言ってしまうのだった。
「…そんなに覗きたかったんですか?」
「お前が言うな!」
殴られた。結構な力で脳天に拳をお見舞いされ、何も反論できず帰路を歩き始める。そうだった、覗いていたのは私の方だった。だって目の前に穴があったんだもん。山があれば登る、穴があれば覗く、それが人間だと開き直って、この日は何とも寝苦しい夜を過ごすのだった。