いろいろあったけど、端的に結果だけ言うと、綾部の掘った穴に落ちた。この私とした事が。いや、この私と土井先生とした事が。

「なんか…久しぶりにお会いしますね」
「そうだな…」

狭い穴の底で先生と向き合いながら、状況が悪すぎてもはや笑えてくる始末である。しかしこの悪すぎる状況すら懐かしく思え、毒されている自分にも笑える。


後輩が喧嘩したというので、仲裁に入っていたら遅くなってしまった。私はご存知の通り容姿端麗ですから、美しいものの前で喧嘩する気は起きないだろうという事で、よく仲裁役に抜擢される。
しかし人は、美しいものの前でも全然普通に争うし、何なら美しいものも巻き添えにするし、つまり美しさに意味などなかった。ひたすらに宥め、宥め、宥めても駄目だったので、殴って帰ってきたところであった。結局力がなければ何も成し遂げられないのが現実なのだった。

そうして疲れ切った私は、部屋へ帰る途中、穴に気付かず落ちたというわけだ。それを助けようと、たまたま通りがかった土井先生も落ちたわけだ。二人仲良く穴の中で、久しぶりの再会を祝った。呪ったとも言えるけど。

あれから宣言通り先生を避けていたので、数日振りにまともに顔を見た気がする。
ここのところ平和だった。平和だが物足りない日々だった。いつ土井先生と出くわすかハラハラしながら過ごしていた毎日から一転、土井先生の事を考えても一向に土井先生が現れないので、逆に拍子抜けで参った。素直に寂しいと思ってしまった。

占いの件がなければ、ただのいい先生である。私のために占い師の長蛇の列にも並んでくれたし、密室に閉じ込められても嫌な顔一つしなかった。もちろん今もだ。自分が下敷きになったというのに、どう見ても無傷な私の身を案じてくれて、この優しさを避けまくっていた事に胸が痛む。

「怪我はないか?」
「おかげさまで…庇っていただいてありがとうございます」

深々と頭を下げようとしたが、九十度のお辞儀をするスペースはなかった。狭い。深い。寝巻きだから登る道具も持ってない。いつもは苦無を持ち歩くようにしているが、喧嘩がヒートアップした勢いでうっかり後輩の頭をかち割ったらいけないと思い置いてきてしまった。後輩の命を取ったら自分が危機に見舞われる…決して全ては手に入らない、それが人生なのかもしれないと悟りを開いた。

月明かりで泥に汚れた服が見える。また風呂に入り直しか…と土砂降りのデジャヴを感じて溜息をついた。

「誰か通るまで待ちますか…」
「だな」

土井先生の諦めた声も、もはやどれのデジャヴかわからないくらい聞いた。

「閉じ込められた時と一緒ですね」
「本当に…お前といるとろくな事がない…」

こっちの台詞すぎる。苦無があったら頭かち割ってたかも。持ってなくてよかった。
お互い様だろと怒鳴りそうになったが、心を鎮めて冷静になった。ろくな事がないけどそれは別に誰のせいでもないのだ。確かに穴に落ちかけたのは私が先だよ、廃寺の隠し部屋に最初に入ったのも私だよ、でも別に私のせいではなくない?私のせいだな。考えてみれば占いに行ったのも私だし、全ての事は私に起因していると気付いて、押し黙るしかなくなった。
でもまぁ手がかかる方が可愛いって言うし…と開き直りかけたところで、以前のやり取りを突然思い出した。

「そういえば先生、私のこと容姿端麗と思ってるんですね」

私は悪魔の笑みで語りかけ、弱味でも握ったかのような気分になった。もちろん私が容姿端麗なのは誰もが知る事実だが、先生の目から見てもそうなのだと思うと気分がいい。
成績優秀容姿端麗で好奇心と正義感が強く、あとやや自信過剰で微塵を扱うのが上手い六年生、と聞いて私の事が浮かぶわけだから、言い逃れはできないだろう。容姿端麗以外の情報が多すぎる事はこの際目を瞑ろう。
虚を突く私の攻撃に、先生は一瞬焦った顔をしたあと、すぐに話を逸らして持ち直した。

「そ、それは…ていうか、お前が自分で言ってるんじゃないか」
「でも先生だって思ってるでしょ」
「それはどうかな」

誤魔化すように笑い、はっきりと答える事はなかった。素直に認めたらいいのに…と思うも、深追いはせず、しばらく沈黙が流れる。
容姿端麗でも喧嘩の仲裁はできないし、美人は目立つから忍者としてはなぁ…と就職面接を蹴られるし、自分で言うほどでもないよとマジレスされたりするし、いい事ばかりではないが、それでも容姿端麗は容姿端麗である。これを強みとしてやっていくしかない私だ。別に先生に認めてもらわなくても事実は事実なんだからそれ以上言う事もなかった。

早く誰か通らないかな…と夜空を見上げる。丸い穴から丸い月が見える。何の影もなく私達は照らされていた。まるで何かに見られているような感覚があり、この月明かりに不吉さを覚えた。
やけに静かになった頃、急に土井先生が口を開いた。今度は私が虚を突かれるはめになるのだが、突かれるどころの話じゃなかったとわかるのは、このあとの事であった。

「…孫次郎に傘を貸してあげたお前が、ずぶ濡れで走ってきた時…」

先生は、驚いてしまうくらい穏やかな顔をしていた。

「少しだけ思ったよ」

目も合わせずそう言われた瞬間、心臓が火縄銃で撃ち抜かれたような衝撃を受けた。思わず胸を押さえ、本当に撃たれてないか…?と確認する。無傷だ。無傷だけど無傷じゃなかった。

やばい。撃たれてないのに撃たれた。真正面から致命傷を受けた。弾丸が心臓のド真ん中を貫通し、そこからじわじわと熱くなっていく。
もしかすると死ぬ時ってこういう感じなのかもしれない。気付いた時には全部手遅れで、もう元には戻れないような、そんな感覚だけが確かにある。

どうしよう。
なんか燃え上がってきた。
苦無で思い切り頭かち割りたいような、そんな衝動って…一体なに?

「…少しですか?」

やっとの思いで言葉を発し、じりじりと先生の方へ近付く。撃たれたはずの心臓はリオのカーニバルが如く爆音を奏で、息を吹き返していた。居ても立っても居られず先生の両手を握って、衝動の赴くまま動く体を制御しようとした。というか、制してほしかった。握り返された手が火傷しそうなほど熱い。

「ちゃんと見てくださいよ…」

顔を近付けたけれど、先生も何故か避けなかった。こんな穴の中では避けようもないのかもしれないが、それ以上はもう何も考えられなかった。
そして思わず唇に触れてしまった時、気付いたのだ。丸い月の存在に。

あれ…。
もしかして今日、満月じゃないか?

満月の夜に何かあるって、あの占い師に言われなかったっけ?
確か…満月の夜に運命が変わる…的な。

「あ!」

叫び声を上げながら、私は土井先生を押しのけて離れた。突然のクソデカボイスに耳を押さえながら、先生も負けじと怒鳴る。

「な、何なんだ急に!」
「掌の上だ!」

結局占い師の言う通りになっている!と絶望し、私は頭を抱えた。もはや私の意思が私の意思じゃなくなってる気がして、もう色々限界だった。
言われたじゃん!満月の夜だって!そこが最高潮フラグポイントだって!捨て台詞のように言われたのに何でこのザマ!?絶対おかしいだろ!気付けよ!月は基本丸くないんだから見たらわかるだろ!アホすぎる。カスすぎる。何もかもが終わっている。

もはや思考を乗っ取られてるんじゃないか?フォレストサーバー神に。それともこれが私なの?綺麗だよって言われて舞い上がってキスしてしまう変質者が私の本質だとでもいうのか?そんなの嘘だ、信じたくない。こんなはずじゃなかったのに。

「先生…」

この苦しみを与えているのは土井先生だが、それでも土井先生以外に苦悩を訴える事などできるはずもなかった。

「もし…この先本当に先生の事を好きになったとして…それって私の意思なんでしょうか…それとも神に導かれてるだけなんでしょうか…」

オカルトに脳を支配される私を、先生は呆れた顔で見ていたが、すぐに何だか怒ったように目を細める。

「レイコ…」

声が怒っている。絶対殴られるぞ。

「という事は…今のは好きでもないのにしたって事か?」
「すいません…なんか魔が差して…」
「お前という奴は…!」

羞恥と恐怖で私は顔を上げられない。むしろ殴ってくれ、頭を殴れば正気に戻るかもしれないから。だって魔が差した以外の事なんて考えたくないだろ。魔が差してないなら答えは一つじゃん。たった一つの真実なんて見抜きたくないじゃん。
顔を覆い、先生に合わせる顔がないのにも関わらず向かい合わなきゃならない状況を、私は呪った。しばらく先生も黙っていたが、向こうも答えが出たのか、落ち着いた声で私を宥めた。

「…レイコ」

怒ってない声だ。鉄拳制裁回避。

「今のは忘れるから、お前も忘れなさい」

有り難い申し出に、現金にも私は顔を上げる。

「避けなかった私も悪いし…」

そう言って先生が己の落ち度を認めた時、私も最初に感じた疑問を再び芽生えさせた。

「…そうですよね?」

調子を取り戻して首を傾げると、先生は決まりが悪そうに視線を逸らす。
やっぱりおかしいよな?狭いとはいえ顔くらい避けれたよな?明らかに生徒が道を踏み外しているのにそれを止めないとは一体どういう事なんだ。納得がいく説明がほしい。
責任転嫁したいというより、私はもう純粋に、先生の気持ちが知りたいと思っていた。そうする事で自分の気持ちもわかる気がしたのだ。本当はとっくにわかっていたのかもしれないけど。

「何で避けなかったんですか?」
「…魔が差したというか…」

差すなよ。教師だろ。懲戒免職だぞ。
私の魔と土井先生の魔は決して同じではないと声を大にして言いたかった。執行猶予付き判決と実刑判決くらい重みが違う。そんな言い訳が通ると思っているのかと追及したかったが、目が合ってしまうと何も言えなかった。
気まずそうな表情の先生を見ていると、自分も同じ顔をしている事がわかった。どうしたらいいかわからない。わからないけど、撃たれた心臓がずっとうるさい。無限にマツケンサンバ状態だ。眠りさえ忘れて踊り明かすしかないのか。
助けを求めるように視線を送っていたら、今度は先生が頭を抱え出した。ついでに胃も押さえ出した。心配になって近付いた時、再び目線がかち合う。

「はぁ…」

諦めを含んだ溜息のあと、度重なる葛藤の末、結局怒りの感情が生き残ったらしい先生が、私の腕を掴んだ。

「じゃあ魔が差したら私以外ともするんだな?」
「え?」

そうはならんやろ、と突っ込みたくなる事を言われ、私は困惑した。今のはこれまでの積み重ねからの魔であって、そんなポッと出の奴に差す魔はないだろ、としか思わなかった。
一体何を言ってるんだ。ていうか何で怒ってるんだ。いやまぁいきなりキスされたら怒るだろうけど、なんか方向性が違うんじゃないか?倫理観のなさを怒られてるのか?これは一体どういう雰囲気なんだ。

ムードの読めない私は、次の瞬間先生に引き寄せられ、なんだか久しぶりの感覚だと懐かしい気持ちに陥っていた。曲がり角でぶつかってた時期は、こうやって受け止められる事が多かったな。弾き飛ばされる事もまぁまぁあったが。特に出席簿が懐にある時は当たりどころが悪いと終わりだったので、額に角が刺さった際には釈迦のような痣ができたりしたものである。土井先生と結婚するくらいならこのまま出家しよう、と思った。あの時まではそうだったのだ。

そういうのがいつの間にか嫌な思い出でなくなり、むしろいい思い出になっている事を自覚したら、また唇が重なってしまう。しかも、今度はこちらからしたわけじゃなかった。
それが何秒も続く恥ずかしさに耐えかね、きつく目を閉じる。人が来ないかハラハラしている私とは裏腹に、先生の腕は腰に回り、さらに私を引き寄せた。いつぞやに見た覗きの記憶が、自然と脳に呼び起こされた。
月が雲に隠れていない時だけ現れるロミオとジュリエットのシルエット、苦痛に漏れ出る呻き声、ままならぬ現実に流す涙…などが走馬灯のように駆け巡ると、もはやじっとしてなどいられない。
変な想像をしてしまって、思わず飛び上がる。驚いた顔をする先生に咄嗟に謝ったが、この展開に驚いてるのはどう考えても私の方だろう。

「す、すみません…」

顔を覆い、まだ離してくれない先生に動悸が止まらない。このまま誰も来なかったらどうなってしまうんだろう…と考えるのをやめられなかった。

「痛いの嫌だなと思って…」

そう言うと、私の想像力が伝わったのか、先生は慌てたように体を離し、そして今までで一番でかい声で怒鳴った。最初からその声で助けを呼べばよかったのに。

「あ、アホか!」

結局殴られた。暴力教師すぎる。教育テレビだったら許されてないぞ。自分がどの局の人間なのか自覚が足りてないんじゃないか?

その後無事救出された私達は、顔も合わせず部屋に戻り、汚れた寝巻きのまま布団に入った。もはや占いを外す事はできないと気付いていたが、それすら忘れてしまおうと、強引に目を閉じるのだった。

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