明日の休暇に向け、同室のイカレ女が実家に戻るというので、私はのんびりした気持ちで茶を啜っていた。やけに不味い茶だったが、六年も忍術学園で学んでいるともはや味など気にもしない体になってしまうため、何も考えずに飲み干していく。
しかし本当に不味いな、もしかしてあいつが調合したやつか?棚にあったのを適当に取ったけれど、ハズレを引いたのかもしれない。まぁどれもハズレだが。
私は六年間、茶葉作りが趣味のイカレ女と同室であった。どこがイカレているのかと言うと、効能を重視して味を捨てているからだ。
「あれ、レイコ…このお茶飲んじゃったの?」
委員会から戻った同室がそう言った時、素直に嫌な予感がした。減った茶葉を揺らしながら問われ、勝手に飲んだ事を咎められたわけではなく、飲んだ事によって大変な事態になる事を心配されているのだと、私にはすぐわかった。
「飲んだ」
「え?何ともない?」
「なんで?」
「いや…私が作った即効性の性欲増強感度鋭敏媚薬茶だったから」
なんてものを作ってるんだこのマッドサイエンティストは。作ってどうするんだそんなもん。聞きたくもないけどさぁ!
「効いてないって事は失敗か」
「失敗か…じゃなくて、もっと他に言うべき事があるだろ」
しれっとしているバカ女をド突き、どこから指摘したらいいかわからない状況を嘆き悲しんだ。全てが常軌を逸していた。
で…なんて言った?性欲増強…感度鋭敏…媚薬茶?エロ同人の見過ぎだろ。そんなクリムゾンみたいな都合のいいアイテムがあってたまるかよ。
どうやら妙なものが配合されているらしい。どうりで不味いと思った。六年間こいつの変な茶を飲まされ続けたせいで味覚が終わってる私だったが、少しは警戒するべきだったと反省し、大きく溜息をつく。
まぁ効いてないならよかったけど…。長きに渡り変なものを飲まされ続けた結果耐性ができているのかもしれない…。別に有り難くもない特殊体質に思いを馳せた瞬間、私は思い出した。この茶が、他の手の者に渡ってしまっている事を。
「やばい!」
「え?」
「土井先生にも渡しちゃった!」
私は飛び上がり、勢いよく戸を開けて廊下を走った。顔から血の気が引いていくのがわかり、大変な事をしでかした事実に心臓が破裂しそうである。
やばい、マジでやばい。さっき書類を渡しに行った時に土井先生にあげちゃった。自分で淹れたついでに先生にも差し入れちゃった!さぞかしお疲れだろう…何の茶か知らないがまぁ何らかの効能はあるやろ…と思って渡しちゃったよ!親切心が仇になった瞬間であった。まさかここまでマッドなサイエンスが込められているとは思わなかったのだ。
ショートカットにショートカットを重ね、最短距離で職員室に辿り着いた私は、今すぐ戸を開けたい衝動を堪えながら声をかけた。
「土井先生!失礼します!」
中から返事をもらった直後に押し入り、採点中と思われる先生の机を覗き込んだ。バツだらけの答案より重要なものを確認した私は、届かなかった祈りに絶望する。
「遅かったか…!」
空っぽの湯呑みの前に崩れ落ち、思わず床を叩いた。最後に見た時には並々と注がれていた液体が、今や影も形もなく消えてしまっている。
飲んで…しまったのか…俺の淹れた茶を…完璧な抽出で濃くも薄くもない茶を…飲んでしまったのか、土井先生!
顔を覆って苦悩し、どうしよう、と全身に冷や汗をかく。
先生に変なものを飲ませてしまった。いや変なものだとはわかっていた、あいつの作る茶がまともだとは決して思っていない。でも奴の志すものはあくまでも健康茶なんだ。味は最悪でも抜け毛予防になるとか、発毛促進になるとか、そういう効能ばかりだったんだって。ハゲ向けすぎるだろ。
なのに急に性欲増強感度鋭敏媚薬茶だなんて…そんなの予想できるわけないよ。バイアグラの元祖作ってんじゃねーよ。
「ど、どうした…?」
今にも泣きそうな顔で湯呑みを見つめる私を、土井先生は当然怪しんでいた。無理もない。私も私が怪しい。
「あの…さっきのお茶…飲みましたよね?」
恐る恐る尋ねると、先生は嫌な事でも思い出したかのように頷く。
「この世のものとは思えない味だったぞ」
「なんで飲んだんですか…」
「せっかく淹れてもらったし…」
優しい。私がEテレを見てるキッズだったら今ので惚れてたわ。
その優しさが仇となる世界が、この乱世である。申し訳ない気持ちでいっぱいになる私だったが、元はと言えばあのカス女のせいでは?という思いも湧いてきて、複雑な心境だった。とはいえ責任転嫁してる場合ではない。改めて土井先生を観察した。
パッと見は…全然普通だ。私の奇行に引いてはいるものの、性欲増強感度鋭敏になっているようには見えない。確か即効性だと言っていた。私もこの通りなので、もしかすると本当にちゃんと失敗作だったのではないかと思い、安堵の気持ちが上回っていく。
大丈夫か…?大丈夫な気がしてきたな。てっきり私に耐性がありすぎて効いてないだけかと思ってたけど、でもそりゃそうか、簡単に媚薬なんて作れるわけないだろうし、仮に作れたとして一杯飲んだくらいでは効果など期待できないだろう。養命酒みたいに毎日摂取してたら効いてくるパターンかもな。
安心したらようやく冷静になってきて、先生に頭を下げながら、この奇行に至った事情を説明した。
「あのお茶…実は毒だったみたいなんですけど…そうとは知らずお出ししてしまい…」
「え!?」
媚薬盛っちゃったんですよね、なんて言えるはずもないので、私はオブラートに包んだ表現をした。毒がオブラートになるってどんな世界だよ。
「でも…効いてないですよね」
「そうだな…何ともない」
「私も飲んだんですが…ご覧の通り健康体です」
奴の健康茶の賜物なのか風邪一つ引かないこの体をアピールして、無害だったと結論付けた。ただ怪しいものが入っている事には変わりないので、最後にアフターフォローの意を伝え、私は先生の元を去るのだった。
「もし何か症状が出たら教えてください」
この言葉のせいで、このあと地獄の夜を迎える事となる。
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気付いたのは寝床につく頃だった。思えば夕食時から、何だか暑いなぁ…とは思っていた。更年期じゃね?と揶揄われている時にはもう媚薬の事など忘れていたので、その後風呂に入り、部屋で布団を敷き、寝転がった瞬間まで、一切思い出さなかった。ようやく気付いたのは、衣擦れの感覚が妙だったからだ。端的に言うと感度鋭敏になっていた。
何となくに膝を擦り合わせた時、ぞわぞわしたものが体を巡る。
何だこれ。もしかして効いてきてないか?性欲増強感度鋭敏媚薬茶。
私は思わず起き上がり、異様な熱と喉の渇きが増している事に気付く。とどめにエロい気分にもなってきて、完全に全てを理解した。
今頃症状が出てるやんけ。どこが即効性だよ。遅効性の極みだろ。
調合成功してやがる…とまさかの展開に頭を抱えた。こんなに時間が経ってから効くとは思わなかったから、見事に油断していた。
マジかよ。怠すぎる。もしかしてここからさらに悪化するんだろうか?それとも今がピーク?先の読めない不安で余計に汗が滲み、引っ張り出した手拭いを額に当てる。
あのボケ同室はすでに実家に帰ってしまった。戻るのは明日の夕方である。当人に確かめる事もできない中、熱い体を持て余し、しかしそれを解消する術を持たない私はただただ悩んでいた。
どうしよう。こういう時ってどうすればいいんだろうな?恋人もいないし青春を謳歌した記憶もない。あるのは謎の茶のモルモットにされた日々だけである。
私の六年間とは一体なんだったのか…と考えてはいけない事を考え始めた時、後輩の声がした。
「レイコ先輩」
戸の向こうから私を呼ぶ声があり、どうした、と平静を装って尋ねる。こんな時に限ってトラブルでもあったんだろうかと危惧したが、そうではなかった。しかし予想だにしない返答があって、私は窮地に立たされていく。
「土井先生が来てくれって言ってます」
土井先生。その人物の名が出た時、熱かった頭から血の気が引いた。正直いま一番会いたくない人間だったからだ。
「井戸のところまで」
「井戸…!?」
なんでそんなところなんだ、変な茶を飲ませた恨みで私を突き落として殺す気か?呪いのビデオにしようとでもいうのか。
動揺のあまり思考回路はショート寸前だったが、待っているというのなら行かねばならない。了解の意を伝え、手拭いを三枚ほど用意して立ち上がった。冷や汗やら脂汗やらが止まる気配がないためだ。あと土井先生に襲われたらこれで絞めよう。露骨な武器を持っていくと気を悪くされそうだし。
私は一抹の不安をよぎらせながら、重い足取りで井戸へと向かう。
井戸…こんな時間にあの辺に呼び出しって事は…人通りのない場所がいい、つまり聞かれたくない話があるという事だろう。茶を飲んだ私が今こんな状態って事は、先生も同じ症状が出ている可能性がある。きっとこれが一体何なのか確かめたいんだな。熱を持った頭で推理し、しかしどう説明するべきかと悩んでしまう。正直に言うしかないんだろうけども。
静かな夜だ。井戸が見えてきたと同時に、土井先生が待っているのも見えた。何やら神妙な面持ちで手招きされてしまい、怒られるかも…と不安になる。
私もそのまま来てしまったが、相手も寝巻き姿だ。なんかエロいな…違う、今にも寝ようとしたところでこんな事になってお気の毒に、と言いたかっただけだ。やばいぞ、出てるぞ性欲増強作用が。こんなに見境なく発揮されちゃうのか?今なら学園長相手にも欲情できるのかな?
馬鹿な事を考えているうちに辿り着き、そこそこの距離を取りながら土井先生と向かい合う。こんばんは、と言ってみたけれど、先生はそれどころじゃないという表情で私を見ていた。上から下まで。観察するように。
な、なに?明らかに何かが起きた顔をしてるけど。まさか先生もエロい気分になっているのか?学園長にも欲情できるかどうかのチキンレースが始まっているとでもいうのか。
警戒に警戒を重ね、私は息を飲む。こっちは背中にまで汗をかき始めているけど、土井先生はわりと普通だ。怒ってるのかビビってるのか微妙な顔はしてるものの、汗一つかいてないように見える。女優は顔に汗はかかないと言うけど、真に優れた忍者もそうなのかもしれない。
静かに出方を窺っていると、ようやく先生は口を開く。
「最初に聞きたいんだが…あのお茶…」
やっぱりその件か。そりゃそうだ。私を呼び出すなんてそれ以外にないだろう。逆にそれ以外で呼び出された時の方が怖ぇよ。
「あれは何だったんだ」
核心に迫ってくる先生は、何もわからないというよりは、答え合わせをしたいような目をして私を見た。恐らく確信はしているんだろう、いま己の身に降りかかっている現象を考えるに、何かを盛られたという事は。
そのわりにやっぱり普通の態度だ。むしろ涼しい顔に見えるくらいだ。私ほど熱くなってないんだろうか?成人男性だし、湯呑み一杯程度の量では足りなかったのかもしれない。
それならいいんだけど…と希望を抱きつつ、まさか媚薬でしたなんて恥ずかしい事は言えなかったため、私は言葉を選び、回らない頭で必死に言葉を探った。
「その…多少…本能的になるといいますか…」
「もういい…わかった…」
察してくれたらしい。呆れた顔でクソデカ溜息をつく土井先生は、心底参った雰囲気を隠しもしない。てことは効いてるんだろうか。本当にそうは見えないんだが。私にも汗を止める術教えてほしい。
「お前は大丈夫なのか?」
「いえ…全く大丈夫ではないですけど…」
この更年期状態で誤魔化せるはずもなかったため、正直に白状した。何が何だかわからないけど、ぶっちゃけかなり燻ってる。何かを破壊したいような衝動が内側から押し寄せてきてるんだよ。塹壕を掘り進めたいとか、無差別に手裏剣を打ちつけたいとか、学園長の盆栽壊して回りたいとか、そういう衝動をいま必死に抑え込んでるんだよ私は。これ本当に性欲?
雲行きが怪しくなってきた効能は置いといて、とりあえずあのお茶が私の所持品でない事だけは先生にわかっていてほしかったから、潔白の旨を早口で伝えた。先生からの無罪判決がほしかったのだ。
「すみません、あれは同室のイカレ女が作ったやばいお茶なんですが…当の本人は休暇に入るので実家に帰ってしまい…どうしたらいいかわからないんです」
解毒剤がない事を伝え、私を呼び出したところで解決する問題でもないと説明した。逆にどうやったら治まるのか知恵を与えてもらいたいくらいである。
手詰まりを聞いた先生は、お前の同室問題も深刻だな、という顔をしたあと、胃痛に見舞われたのか腹を押さえた。気の毒すぎて思わず駆け寄り、申し訳なさから手を伸ばす。
「大丈夫ですか」
声をかけた時だった。私が触れる前に、土井先生は素早くその手を払った。ほんの一瞬だったけれど、接触面積もわずかだったけれど、確かに掠った肌の温度に私は驚愕してしまった。
あ、あ…熱い。
土井先生、手、あっつ。
めちゃくちゃ効いとるやんけこいつ。涼しい顔をしているがこう見えてめちゃくちゃ媚薬が効いているってテロップ付けられるやつやんけ。全く表面に出てないの怖すぎるんだけど。だって媚薬飲んでなかったとてこうなんでしょ?内心死ぬほど欲情してても表には出ないって事でしょ?怖いわ。今ももしかしたら頭の中ドスケベカーニバルなのかもしれない。
土井先生でもそんなことになるんだな…と逆に賢者になりそうな私とは裏腹に、先生は困った顔で唸っている。
「どうしたものか…」
頭と胃を押さえる姿を見ていると、私も熱さを思い出し、脳の血管が収縮しているような感覚さえあった。頭の中と内臓各種から熱が発生している気がする。これって本当に大丈夫なのか?発熱とも何だか違う感覚だし…でも異様に熱いし…その辺の草とかぶち抜きたい暴力衝動に駆られている…もしかして性欲って加害欲求なのか?私が男を知らないから暴力に置き換える事しかできないだけ?
段々と怖くなってきた。このまま効力が強まったら、通り魔になってしまうかもしれない。道行く人を手拭いで絞め殺すモンスターになる前に、この媚薬という名の毒を取り除かなければ。
治療といえば医務室なので、私は何気なく先生に一つ提案してみる。
「新野先生にでも相談してみますか?」
「…一応聞くけど、なんと言って相談するんだ?」
そう言われてしまうと言葉に詰まり、私は苦笑した。そりゃまぁ土井先生的には、生徒に媚薬盛られて困ってるなんてアホなこと言えんわな。普通に恥だろ。辞表だろ。
そして私も、媚薬を飲んでしまったなんて言った日には、事件性を疑われて大変な事になる可能性はあった。日頃の行いが良いとは言えないくの一教室の私とアホ同室…その媚薬を誰に使うつもりだったのか?と疑われかねない。そんなもんこっちが聞きたい。
再び詰んだので頭を抱え、涼しい井戸を覗き込む。空気が冷たい。ここに住みたくなってきた。
わずかに指先が震え始め、本気の体調不良を感じていると、先に結論を出した土井先生がようやく警戒を解いた表情をした。
「事情はわかったよ…呼び出して悪かったな。もう部屋に戻りなさい」
優しく声をかけられると安心感を得られたが、でもこいつも脳内ドスケベカーニバルなんだよな…と思ったら胸が痛んで死にそうである。
なんか本当に申し訳ないな…。夕刻に見たバツだらけの採点のあとにこんな不幸に見舞われて、先生の心情を思うと涙が出そうだよ。胃痛に効くクソ不味い茶を探しておくからどうか許されたい。
しかし部屋に戻れと言われても、結局何も解決していない状態である。困り果てながら額の汗を拭い、先生がこのあとどういうプランで行くつもりなのか私は尋ねた。
「土井先生は?」
「私は…山田先生もいらっしゃるしなぁ…誤魔化し切れる自信もないし…」
それを聞き、私は脳内山田先生を羨望の眼差しで見つめた。
なんと。山田先生はこの状態の土井先生から異常を察知できるというのか。涼しい顔して佇む土井先生の頭の中が、とてもEテレでは放送できない事になっていると見抜けてしまうの?凄いな。凄すぎるな。あの一瞬の触れ合いがなければ絶対気付けなかった事を、山田先生は見ただけで…そうか…それって…すごい…嫌だな。同僚にこいつ今脳内ドスケベカーニバルなのかよって思われるの絶対に無理。辞表案件すぎる。
あまりの気の毒さに、私は土井先生を放置できなくなってしまって、思わずここに居残る事を宣言した。いずれにせよ、一人になる方が怖かったのだ。
「私も眠れないから…付き合います。話してると気も紛れるし」
「お前は別にいいだろう、今日は部屋に一人なんだから」
何がいいんだ。殴る相手がいなくてむしろ最悪なんだが?
「逆に一人の方が怖くないですか?何か急性症状でも出たとき誰も助けてくれませんよ」
「そういう事じゃなくて…」
私は至極真っ当な事を言ったつもりだったけれど、何故か先生は口篭った。段々と悪化している自覚があった私は、媚薬を盛られて死ぬ事だけは避けたかったため、症状が落ち着くまでは入院したいくらいである。
しかし先生は違うらしい。土井先生ほどともなれば体調変化にもすぐ対応できるという事か。このくらいじゃ死なないってわかるのかもな。
結局意見が合わなかったので、先生が折れた。
「まぁいいか…もう少し話そう」
やっぱり涼しい顔で微笑んでいたので、私には一生ドスケベカーニバルを見抜ける気がしないのだった。
といっても、すでに私は悠長に話せる状態でなくなりつつある。
本当に熱い。なんか息苦しくなってきたぞ。井戸を集合場所に選んでもらったのは心底有り難く、さっきから水を汲んでは手拭いを冷やして首に当てるのを繰り返している。
いやもう本当にくらくらしてきた。熱が篭ってるっていうか…じっとしてる方が体に悪いような感じ…。首を冷やす時でさえ肌に触れるとぞくぞくしてしまって、まさに媚薬という効果を実感している。
先生は大丈夫なのか?と顔を見たら、さすがに少し熱そうだった。いよいよ気丈に振る舞ってもいられなくなったらしい。土井先生が官能に支配されて火照っている姿なんて普段なら絶対に見たくないが、今日に限っては見たすぎた。だって私ばっかり醜態を晒してるの不公平だろ。乱れてみろ土井先生。絶対誰にも言わないから。
性欲を増強され、私の性癖ってこうなの?と気付きたくない事に気付いた後ろめたさから、まだ使っていない手拭いを差し出した。
「…先生も使いますか?たくさんありますから」
「何でたくさんあるんだ」
「先生に襲われた時に首絞めようかと…」
正直に言ったら殴られた。脳天に拳が降ってきて電流が走った。やめろ、マゾになる。今触られたら性癖が歪む。
「そんな心配をするくらいならさっさと帰れ…!」
「冗談ですってば…」
全然冗談などではなかったが、土井先生が理性的で非常に助かっているのは事実である。私も全く考えてなかったけど、媚薬を飲んだ男女が二人きり…何も起きないはずがなく…という展開もこの世にはあるんだろうが、ここには一切その空気がなかった。ただ夜を徹して耐えるのみ、それだけであった。
まぁ外だしそういう雰囲気になりようもないわな…と冷静になる頭とは裏腹に、体のピークはまだ訪れない。永遠に続く上り坂の途中で、とうとう桶を掴む手が震えで滑った。汲んだ水が井戸の中へと戻っていく。
熱い。死ぬかも。今なら私の体で茶が沸かせるくらい熱い。
井戸の縁に手を置いて、私は深呼吸した。
「おい…本当に大丈夫か?」
やり場のない手を宙に浮かせながら、土井先生が私の顔を覗き込む。さっき殴られた頭が痛くて…という冗談も言えないくらい、切羽詰まってきた。
「こういう時って…本当はどうするのがいいんでしょうか…」
深刻な声を出すと、先生が息を飲むのがわかった。いや別に抱いてくれって言ってるわけじゃなくて…と弁解する元気もない。
内から発せられる熱が体を循環し続けてるイメージだ。発散させたい。でも発散させる方法がわからない。いま頭に浮かぶのは…めちゃくちゃに暴れ狂って奇声を上げながらこの井戸を埋め立てたいとか、そういう人として終わっている破壊衝動であった。もしくは目黒蓮に抱いてもらうかのどっちか。決して土井先生ではないから安心してほしい。
「なんかこう…もどかしいというか…なんというか…無性に暴力を振るいたくなるというか…」
「危ない奴…」
私の加害衝動を聞き、確実に引いている先生だったが、同時に私が無知無知の実の能力者である事に気付いたらしい。
非常に言いづらそうにしていたけれど、教師としての本能が勝ったのか、この知恵を授けなければという責任感が芽生えたのだろう。セクハラ辞任覚悟で教えてくれたその気概には感謝しかなかった。
「人を殴るくらいなら…一人で解消するという手があるにはある…」
「一人で…?」
思わず復唱したが、さすがに言わんとしてる事はわかった。でもそれは男の場合の話だった。
「男性なら何となく想像つきますけど…じゃあ私はどうやったら解消できるんですか?」
「そんなこと私に聞かれたって知らない」
童貞乙すぎる。そこは図解とかして教えてくれるんじゃないのか。もしくは教えると称して行為に持ち込む流れなんじゃないのかよ。
私もエロ同人の読みすぎかもしれない。一瞬頭に浮かんだビジョンを振り払い、さっきから先生がやたらと部屋に戻る事を勧めていた理由がようやくわかってすっきりした。
そうか。だから一人の方がいいってことか。一人で抜いてこいって話だったんだな。察しが悪くて申し訳ない。
しかし何を抜くというんだ、何もないんだよ私には。ネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲持ってないんだよ。無いものに触れることはできない。思いついたところで不毛である。
女体に関して、私は無知であった。保健体育でも当たり障りのない事しか教えてくれないため、媚薬に火照らされた体を一人で慰める方法などが教科書に載っているはずもなく、事件は迷宮入りである。くの一といえば色仕掛けのイメージがあるが、対魔忍の見過ぎだろと罵倒されて終わった頃が今はただ懐かしい。
結局耐えるしかない事がわかったところで、それならばと私は提案した。
「土井先生…お一人になりたいようでしたら部屋をお貸ししますけど…」
無言で殴られた。親切心だったのに。本当に親切心だったのに。親切とセクハラって紙一重なんだな。勉強になった。
殴られた衝撃で背筋がびりびりしてきて、感度鋭敏作用がしっかり働いている事を痛感させられた。正座で足痺れた時みたいな感じする。このままだと歩く事もままならなくなるんじゃないか?朝になっても終わらなかったらどうするんだ。
何か話して気を紛らわせたいけれど、残念ながらエロい事しか浮かばなかった。心が中学生だ。早く土井先生が乱れるところが見たい…と異常な劣情を向け始めるも、先生は私を心配と呆れの目で見るだけで、息も上がっていない。凄いな。次媚薬を作る時は三倍濃度で大丈夫そうだぞ。
本当に熱くなってきて、ひたすら井戸水を汲んで手拭いを濡らした。しかしすぐに温くなり、こんな事を続けていても不毛だと井戸を見つめる。
水面に月が映ってて綺麗だ。ここに飛び込めたらな…と思った時、閃いた。
そうだ、飛び込めばいいんだ。
水で強制クールダウンや!もうこれしかない!
沸騰寸前の頭には、もはやそれ以外浮かばなかった。私は狂っていた。持て余した性欲が正常に昇華されないと、人間はおかしくなってしまうのかもしれない。少なくとも媚薬を盛られた者はそうであった。
井戸に足をかけた時、さすがに土井先生が異変に気付いた。落ちる寸前で服を掴まれると、すぐ耳元で怒号が飛ぶ。
「馬鹿かお前はー!」
もちろん私は馬鹿なんだが、それ以上に衝撃が強すぎて、私の呼吸は完全に止まった。
落下を阻止した土井先生は、私を後ろから抱き込むと、強い力で引き止めてくる。腹部に回った腕と、肩に回った腕に完全に囲い込まれ、身動きが取れない。背中越しに伝わる尋常でない熱さには電流が走って、感じた事のない衝撃に力が抜けた。危うくハートで喘ぎそうだった。
む、無理。熱い、熱すぎる。ぞくぞくしてきた。
これは悪寒…?いや…快、感…?薬師丸ひろ子?
やっぱり機関銃をぶっ放すのが正解なのか?と血迷う私は、耳元で怒鳴られたのも相まって、どうにかしてほしいという欲求がピークに達した。土井先生の指が布越しに肌へ食い込んでいる。それがあまりにも刺激的で、脳内ドスケベカーニバルであった。
だ、抱いてくれ。と言いそうだった。息が止まってなかったら言ってた。社会的に死ぬところだった。
いや、でも、もう、滅茶苦茶にされたい。部屋中の文房具とかばら撒きたい。そういう衝動で暴れ出したくなる。
私を押さえ込む先生の手がわずかに動くだけで、耐え難い気持ちに陥っていく。今すぐ飛び込まないと危ないぞ。このままだと、私が土井先生を襲う!手拭いで首を絞めながら!
不穏な気配を察したのか、先生は一層私を締め上げると同時に、説得を試みてきた。
「鍛錬と思って耐えろ!」
どんな鍛錬だよ。潮江文次郎もこんなことはやってねぇよ。
「もう無理…抗えません…!」
欲求に屈した私はそう言い、先生の指を引き剥がそうと手を重ねた。火傷しそうなくらい熱かった。私よりも燻っている疑惑を抱きながらも、まだ理性が凌駕している点を心から尊敬した。
凄まじい意識の高さだ。精神の成熟度が違いすぎる。私なんてもう白旗だよ。この先生の指で体中攻め立ててほしいくらいだよ。頭の上から爪先まで這い回って日本地図書いてくれてもいいくらい屈してるよ。
特殊性癖を披露している私にも、土井先生は諦める事なく教師の本分を果たそうとする。
「レイコ …忍者の三禁とはなんだ…」
いきなりのクイズ?
「同室の茶を飲むこと…それを土井先生に飲ませること… 同室のボケカスを生かしておくこと…」
「それはお前の個人的な三禁だろ!」
もはや頭も回っていない中で、アホ同室の顔が浮かんだ私は、突然性欲が殺人衝動へと昇華した。奴の作った茶などで自分を見失い、土井先生に抱かれる想像をして身悶えている…そんな馬鹿な話があっていいのか?と正気に戻ったのだ。
有り得ない。私がこんなに苦しんでいるというのに、奴は今頃実家でだらだらごろごろしてるんだ。そして酷い目に遭ったと訴えても、じゃあ今度は三倍濃度にしてみるか…とカルピスみたいなノリで調合し直す、そういう奴なんだあのクソは。マッドサイエンティストサイコパスなんだ!
心底腹が立ってきた私は、さらに熱くなる頭を鎮め、土井先生を振り返る。顔が近い。この距離で見るとさすがにわかった。先生もギリギリでいつも生きてるリアルフェイス状態だという事が。
「わかりましたから…離してください…」
そう言ったが、信用がないのか一切手を緩めなかった。日頃の行いが悪すぎたか。
こうなればあざとい術を使うしかない。たとえ対魔忍の見過ぎと言われようとも。
「変な気分になっちゃうから…」
実際ガチでそうだったため、演技でも何でもなかった。むしろもうなってる。ネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲の辺りから私はもうおかしいんだ。
しかし土井先生は今まさにそうなったらしい。凄まじい勢いで私から離れると、桶を蹴飛ばして後ずさった。この機を逃す私ではなかった。
かかったなアホが!とジョジョ顔で口角を上げると、私はすぐさま井戸に飛び込んだ。軽快に壁を蹴り、水の中へとダイブする。直後に訪れた冷たい感覚に、これまでの全てが成仏する気配がした。
頭から足まで瞬時に冷える。心地良さで昇天しそうだ。逆に。
「あーもう!」
飛び込んだ私にブチギレた先生が、縄を伝って降りてくるのが見える。すっかりクールダウンした私は、ほくそ笑みながら先生のためにスペースを空けてやった。
あんな初歩的な手に引っかかるとは…やはり先生も相当参ってたようだな。めちゃくちゃ熱かったもんな、全身。もう少しで土井先生が乱れまくるところが見れたかもしれないけど…流石に諸刃の剣すぎるからこの辺でオチがついてよかったのかもしれない。
わざと水飛沫を立てて着水した先生に、私は安藤先生なみに嫌味を飛ばした。
「先生こそ勉強し直した方がいいんじゃないですか?私が教えてあげますよ、忍者の三禁」
安い対魔忍に乗せられた哀れな先生は、私を叩くために拳を握ったけれど、結局それを解いて溜息をついた。肩まで水に浸かり、返す言葉もないという表情で苦笑する。
「そうだな…」
素直にそう言ったので、何だか胸を射抜かれてしまった。クールダウンしたはずなのに顔が熱くなり、あれだけ耐えた甲斐もなく、私は土井先生の唇にそっと触れた。今日一番衝動に走った行動であった。
熱い唇に触れていると、また性欲増強感度鋭敏が舞い戻ってきて、我を忘れそうだ。もう忘れてる気もするが、先生の方が先に正気に戻ったらしい。
私の頭を掴むと、そのまま井戸に沈められた。わりと長めに押さえ込まれ、もしかして土井先生も性欲が殺人衝動に変わってしまったのではと危惧した。
確かに私が悪かったけど、何もかも私が悪いけど、でも長くないか?沈めすぎじゃないか?井戸から這い出てテレビから飛び出す存在にしようとしてるんじゃないか?
さすがに手を振り払って、私は勢いよく顔を上げる。
「殺す気か!」
「少し頭を冷やした方がいいぞ」
「肝の方が冷えたわ!」
再び沈めようとする先生を押しのけ、私は壁に背をつけた。息苦しさがまた訪れて、そんな私を見ながら先生は深すぎる溜息をつく。ガチ怒られが発生する気配を察知したけれど、怒鳴られたり殴られたりする事はなかった。代わりに諭すような声があって、そっちの方が私としては情けなさを煽られた。
「…一時の感情で行動するな」
「一時じゃなければいいんですか…」
「一時じゃないと思っていても、一時なんだよ」
急に何もかも知っているかのような口振りでそう言われ、さっきまでの脳内ドスケベカーニバルはどこへ行ったのか、私は見事に冷静な気分にさせられた。正気を失っていたとはいえ、思い返せばかなりの無礼を働いた気がする。いきなり恥ずかしくなってしまい、照れ隠しも兼ねて、私は素直に謝った。
「…ごめんなさい」
一応あざとさオプションを付け、最初に茶を持っていったところから許してもらおうと画策する。何とかお互い不幸な事故だったという事で穏便に済ませてもらえると助かるんだが。カスの同室は私が処分しときますから。茶葉燃やしときますから。
そういう打算も込めて頭を下げると、先生はようやく笑いかけてくれた。半分は呆れ顔だったが、怒っていないとわかるとそれだけで安堵した。
「もう眠れそうか?」
「はい」
「なら出よう。ここの井戸は飲み水にも使うんだから…」
逆に井戸に入った件で叱られてしまい、半分聞き流しながら先生と別れ、風呂に入り直した時にはすっかり体調は戻っていた。媚薬を完全攻略した事に気を良くし、翌日戻ったクソ同室をとりあえず蹴飛ばして、茶葉は燃やした。何らダメージを受けてない様子のサイコパスは、黙っていたのちに何を言うかと思えば、以下の通りである。
「女一人で解消する方法だけど、まずこの図をご覧いただいて…」
別口からの媚薬攻略法を指南してきたため、もうこれで終わってもいい…だからありったけを…の顔をして、渾身の力で殴った。ゴンの深い絶望が私にはわかった。
---
「失礼します」
職員室の前で声をかけると、わりと不服そうな声で入室の許可があった。土井先生の声だ。山田先生ならよかったのに、お互いに間の悪い事である。
私だって来たくて来たわけではなく、書類を持っていくよう頼まれたから、やむなくここに来ただけである。あれから数日経ったが、翌日に体調を聞かれたくらいで、土井先生と進展も後退もない日々を過ごしていた。ちょっと気まずいけど別にそれだけだ。平和なもんだった。
「書類をお持ちしました」
「どうもありがとう」
他人行儀の極みな対応をされると、くの一教室の悪いところが出る。何だその態度は?と思ってしまったけれど、それも仕方のない事だと感情を飲み込んだ。許していただいたんだからそれを有り難く思わないとね。他の先生だったら許してくれてないかもしれないからね。土井先生って本当に優しいよね。
そう自分に言い聞かせながら、盆の上に乗った湯呑みをそっと差し出す。
「あとお茶です」
「それはいらない!」
「普通のお茶です!」
食堂で淹れてもらった茶!詫び茶!トラウマ払拭茶!先日はすみませんでしたの茶だろうが!飲めよ!せっかく淹れてくれた茶は不味くても飲むんだろ!?
無視して私は机に湯呑みを置き、つれない態度の先生を見つめた。しおらしくして改めて謝ろうと思ったのに…まぁいいわ。謝罪は不要という事でしょう。先生は湯呑みを覗き込み、明らかに警戒して中身を見定めていたので、普通のお茶だってば、と重ねて言った。疑いすぎだろ。余程つらかったんだな、脳内ドスケベカーニバルが。
相変わらず答案にたくさんバツを付けている。教え甲斐があると思い込む以外にない成績を見たあとで、もう一度先生の方を見たら、まだ湯呑みを覗いていたので、そのしつこさに一周して気の毒さが勝った。
可哀想に…私のせいでお茶がトラウマになってしまって…いや私のせいではないけども。その他は私が悪かったかもしれないけども。
今思い出しても凄まじい夜だった。私は先生を巻き込んだことへの罪悪感を抱きながらも、一つ言っておかなくてはならない事を思い出したため、座り直して口を開いた。
「先生に教えて差し上げたい事が…」
真剣な顔をすると、ようやく先生は普通の顔でこっちを見た。何だか嬉しくなってしまい、自然と笑顔を浮かべてしまう。
「女一人で解消する方法なんですけど」
「教えんでいい!」
後学のために…と付け加えたら筆を投げつけられた。慌ててキャッチし、親切心とセクハラが紙一重だった事を思い出して、私は黙った。
だって知らないって言ったじゃん。ちょっとは知りたいかな?と思ったんだよ。それとも本当は知ってたのか?私に言うのが憚られて知らない振りをしていたのか?だとしたら酷いよ、ちゃんと教えてくれてたら井戸に飛び込まずに済んだかもしれないのに。
どちらにせよ真相はわからないため、非難の言葉は飲み込んで筆を机に戻した。しかし一矢報いたい気持ちを堪えられなかった私は、返した筆を指して余計な事を言う。
「あ、これも使ったりするらしいですよ」
揶揄いと親切心を混ぜて言うと、土井先生に手を掴まれた。そのままさっき置いた筆を握らされ、思いがけない反撃を食らった。
「なら貸してやる」
「え」
仕返しと言わんばかりの表情だったが、一瞬で色々想像してしまい、私は赤面した。ガチ赤面だった。
え、それは…なに、土井先生の筆で土井先生のことを考えながらという事ですか?ド級のセクハラにも程があるだろ。涼しい顔のドスケベカーニバルやめろ。
先生と違って顔に出てしまう私は、ろくな返事もできずに目を丸くし、筆を握ってただただ顔を熱くした。すると先生も私の初心加減に驚いたのか、こっちはこっちで照れ始め、誰も得をしないやり取りになってしまうのだった。
「な…何でこんな時だけその反応なんだ!」
「す、すみません…」
「早く帰りなさい!」
背中を押されて追い返され、私は両手で顔を扇ぎながら部屋の前で立ち尽くした。どさくさに紛れて返しそびれた筆を持ち、爆音の心臓にそれを押し当てる。
あーびっくりした。あんな冗談を言う先生も先生だけど本気で動揺した自分にもびっくりした。あれだとマジで使うみたいじゃん、大丈夫かな?先生誤解してないよな?
不安を抱きつつも廊下を歩き出し、筆は今度返そうと思ったところで、足を止める。
待てよ…あとで返したりしたら、これ使ったと思われるんじゃないか?いま返さなきゃ使ってない事の証明ができない。いやでもこの雰囲気で引き返せるか?無理だ。いやしかしあとで返すと誤解されるかもしれない、今しかない。今引き返すしかないけど。
考えるほどに熱くなってしまい、性欲増強感度鋭敏媚薬茶を飲んでもないのに、嫌な汗が出る私であった。