山吹色の夜

炎の呼吸を使いたかったのを思い出した。

まぁうちは代々水の呼吸だし、両親からもそのつもりで指導されてきたし、正直かなり性に合ってると思ってたからそれはそれでいいんだけど、でも日輪刀が青くなった時、あー…って声が出ちゃったな。あー…やっぱそうだよね…って、なんとも言えない気持ちになった。
そりゃ赤くはならないよな。わかってたけど、でももし赤くなったらっていう希望がなくもなかったから、それが砕かれて胸が詰まったのだ。そんな夢みたいな事あるわけないのに。

というのがもう何年も前の話で、私は相変わらず水の呼吸を使いながら、ギリギリのところで生きている。炎の呼吸への憧れを漠然と抱きながら、でももう諦めて、自分にできる事をする決意をした。正直生きていられるだけでも充分だと思った。


その日戦った鬼は、私と非常に相性が悪かった。向こうも水の血鬼術を使うせいで、互いに決定打もなく、攻撃も相殺され、ただ時間ばかりが過ぎていった。生きてきた中で一番つらく長い時間だったように思う。
とはいえこっちは人間だから、長引けば疲れるし、不利になる一方だ。早く朝が来てほしいと何度祈ったか計り知れない。全身は傷だらけ、固まった血は皮膚に張り付き、もはやどこから出血しているのかわからない。朝を待ちながら、しかし逃すわけにもいかないので、攻撃を止める事もできなかった。心を挫く暇もないことだけが幸いだった。

血鬼術を使えるわりにはそんなに強い鬼でもないのに、なんでこんなに手こずってるんだろう。自分が情けない。炎の呼吸が使えてたらなぁ…と、憧憬の日々を蘇らせる。
見様見真似で、炎の呼吸を使おうとした事があった。試してみるも、すぐに体に合わないとわかり、知っていたけど悲しかった。

私達が戦うのは、いつだって暗闇だ。深い夜の中、明るい炎が立ち昇ると、それだけで心が奮い立つ気がする。鮮明な視界が安堵を生む。だから炎の呼吸を使いたかった。山吹色が熱く揺れるのを、間近で見たかったのだ。

どうせ死ぬかもしれないし、と思い、私は刀を強く握り直した。仕留め切るつもりはない、撹乱できれば、また戦況を変えられる。
壱ノ型は、何度か練習した。深く息を吸い、振り上げると炎が噴き上がった。瞳が乾くほど明るくなって、鬼も驚いた顔をしていたけれども、私は炎の呼吸を使うには、根本的に力が足りないのだ。体質に合わない剣術は、相手の血鬼術ですぐに鎮火させられ、やっぱり駄目かと思い知らされる。

奇跡なんて起きるわけないか。でも一泡吹かせてやったから、少し気分は晴れた。あとは朝が来るか、私の体力に限界が来るかのどちらかだ。
再び身構え、鬼に向かおうとした時、遠くの空が明るくなったのが見えた。淡い黄色が、闇を徐々に消していく。

朝だ。
やっと朝になった。そう思った。

しかしその黄色はすぐに橙に変わり、激しい赤となって近付いてきたため、私は思わず距離を取る。違う、と気付いた時には、鬼は業火に焼かれていた。

「遅くなった!」

その豪快な声で、やっと全てを理解する。私は呆然と立ち尽くし、小さくなる炎を背に歩いてくる人物へ、何も言えぬまま思考を停止させた。
あんなに手こずった鬼はもう跡形もなく消えており、断末魔さえ上げる間もなく、炎の中で息絶えた。こんな芸当ができるのは一人しかいないと息を飲む。

炎柱だ。
来てくれたのか。大した鬼でもないというのに。

恐らく近くにいたのだろう。天の助けだと心底感謝して、私はようやく肩の荷を下ろした。同時にあの安堵感を思い出して、気持ちが溢れてしまいそうになる。
どうしてこんなに胸を焦がすんだろう。夜を晴らす色を見ると、いつも安心してしまう。鬼に怯えずに済む事を、こんなにも喜ばしく思ってしまう。鬼狩りだというのに、臆病で敵わない。情けない。
私は涙ぐみながらも、なんとか堪えて、消えゆく炎に目を向ける。

「朝が…」

来てくれた煉獄にお礼を言わなくてはと思っていたのに、昂った感情がそれを許さず、私は無礼にも口走る。

「朝が来たのかと思いました…」

力なく呟くと、煉獄は一瞬の間を空けて頷いた。快活な煉獄の一言は、私の生涯において、最も胸を高鳴らせるものになるのだった。

「俺もだ」

思いがけない同意に、さすがに涙が溢れた。焦がれて焦がれてどうしても向かなかった炎の呼吸が、煉獄の瞳にどう映ったか知り、泣かずにはいられない心境となったのだ。

朝が来る事を、鬼狩りがどれだけ望んでいるか、私は痛いほど知っている。なんだか救われた気分だった。
いきなり泣き出した情緒不安な隊士を特に慰めることもなく、煉獄はすぐに次の任務へ向かって行ったが、今日のことは私の胸に深く刻まれ、永遠に忘れ得ない出来事となった。
だからこそ彼の訃報を聞いた時、悲しみのあまり連日泣き続けた。鬼を殺しながら泣き、飯をかき込みながら泣き、歩きながら泣き、とにかく泣いた。つらくて悲しくてたまらなかった。あの一度しか話した事はないというのに。
煉獄に継子はいなかったから、炎の呼吸が継承されないかもしれず、それがまた私の心を折った。つらい毎日だった。

煉獄家へ訪ねられたのは、それからしばらくしてのことだった。遠方に派遣されていたため、葬儀には行けなかったが、挨拶くらいはしておきたかったのだ。命を救われた恩を、せめてご家族にお伝えしたい。
でもそんな人はきっとたくさんいるんだろうな、と思う。数多の人間を救ってきた炎柱が亡くなり、どうして私は生きているのだろう。不思議で不条理だ。また泣きそうだ。


煉獄そっくりの弟は、似ても似つかない性格だったけれど、私を快く迎え入れてくれた。決して話すのが得意というわけではない私の話を聞き、何度もお礼を言ってくれた。礼を言うのはこっちなのに、千寿郎は心根の優しい少年なんだろう。兄を失っても強く生きる姿は、健気で立派に見えた。
煉獄さんが助けてくれたこと、猿真似にもならない炎の呼吸を使ってみたこと、ずっと憧れていたことなどを包み隠さず話していたら、思いがけない事を千寿郎に言われ、私は目を丸くする。

「貴方がそうだったんですね…」

出された茶にようやく口をつけたところで、千寿郎は語り出した。
あの日、煉獄が助けてくれた日のことを、煉獄も覚えていたと言うのだ。
そりゃ教えてもない炎の呼吸が適当に使われてたらご乱心だわな…と今さらながら恥じ、謝罪の言葉を準備していたら、聞き覚えのある句が飛び込み、私の頭は真っ白になった。

「朝が来たと思ったらしいです」

不意に、あの日の事が鮮明に蘇る。
山吹色の空が広がり、安堵した心が満ちていった事を、どうして忘れられるだろう。

「そうしたら、貴方も同じ事を思っていたから驚いた…と」

笑って言っていました、と微笑む千寿郎に、私は泣いてしまった。みっともなく涙を流し、色々と気を遣わせて申し訳ないなぁと感じながらも、涙を止められなかった。
あんなに無様な炎が、煉獄の目には朝陽に映ったのだ。記憶に焼きつく色になった。それが心から誇らしく、そして悲しい。


陽が昇るたび、煉獄が来てくれたような気がしてしまう。あの澄んだ山吹色が、私には炎に見えるようになってしまった。もう来ないとわかっているのに、夜が明けたのだと知っているのに。
あんなに待ち望んだ朝が来る事が、今は少しだけ悲しいのだ。

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