土井先生が急に来なくなったため、私は仕事にも身が入らず、どうにもつまらない日々を過ごしている。
このところ夜間演習でバイトに入れない日もあったから、もしかしたらたまたま会えていないだけかもしれない。忍術学園の方でも土井先生とエンカウントしてないから、本人に聞く時間もなく、かと言ってわざわざ聞きに行くのも不自然なので、もやもやした気持ちが晴れなかった。

どうしちゃったんだろ。私のセクハラからの淫行教師罵倒で心折れちゃったのかな。それならそれでいいけど、そんな事で仕事を放棄するアホの忍者はいないと思うので、恐らく理由があるんだろうな。
皿を洗いながら、ちょうど通りがかった同僚に、不在中の様子を尋ねてみた。

「あのさ、私の事よく指名してた背の高い奴…あの人最近来た?」
「ああ…あの微妙に男前な?」

微妙って言うな。ただの男前だろ。

「来てないけど、そういや結構前に他の客と揉めてたよ」
「え?」

土井先生が?揉め事?
同僚の言葉に驚き、私は思わず手を止めた。意外すぎる展開に皿洗いどころではなくなり、身を乗り出して続きを促す。

「なんか店の前で説教してたみたい。年を誤魔化してとかどうのこうのって」

得られた情報はそれだけだったが、しばらく考えているうちに、私は一を聞いて十を把握した。そんな馬鹿なと思ったけれど、今まで自分が盛大な勘違いをしていた事を、受け入れざるを得なかった。

…え?もしかして、本当にここに通い詰めてる忍たまがいたのか?
私以外の、客として足を運んでいた奴を探してたわけ?

拍子抜けのあまり脱力して、今までのやり取りは何だったのかと呆然とした。
マジかよ。私はてっきり、こんなやばい店でバイトしてる生徒を案じて山本シナ先生が土井先生を派遣してきたと思ってたけど、ガチでここに通い詰めている異常性癖の生徒を連れ戻しに来ていただけだったのか。まさかすぎる展開にたまらず天を仰いだ。

わかった、読めたぞ。いくら先生といえども、異常性癖を止める権利などない…それでもコン茶屋に通うのをやめさせる理由があるとしたら、それは年齢制限だ。
ここは十五歳未満利用禁止の茶屋である。つまり五年生以下の忍たまが年を誤魔化して通っていたのだ。罵倒という快感に脳を支配され、抜け出せなくなった生徒を、真っ当な道に引き戻そうとしていただけなんだ。

じゃあ私これからも普通に働けるじゃん。無駄に気を揉んで損したな。ていうか通い詰めてたの誰だったんだよ、私も気付いてないくらいだから変装して通っていたに違いない。そこまでして罵倒されたいという異常欲求、性癖とは恐ろしいものだ。早く辞めたいこんなところ。
結局土井先生にはバレていないのか、それともバレてたけどこの店で働いてることを内緒にしてくれてるのか、真相はわからないけれど、もう先生が来ないという事実だけが残り、本気でやる気を失う私なのであった。


「先生もう罵倒されるのやめたんですか?」

授業で使う火薬を借りるため、土井先生に焔硝蔵まで付き添ってもらった時の事だ。久しぶりに会ったし、ちょうど誰もいなかったので尋ねてみると、シャイニングフィンガーでも喰らわせる勢いで口を塞がれ、危うく火薬壺を粉々にしてしまいそうになる。

「誤解を招く言い方をするな!」
「別に誰も聞いていませんよ…」

過剰な反応に引きながら、先生の口から事の顛末を聞きたいと思い、静かに返答を待つ。罵倒しなくていい安らぎの時間を失った私は、忙しなく豚を罵る日々に疲れ果てていたので、聞く権利くらいあるだろうと思ったのだ。

「仕事も終わったからな、もう行く必要がないんだ」
「そうですか…」

はっきりと必要ないと言われてしまい、露骨に落ち込んだ。先生がもう二度と来ないのかと思うと、とにかく残念で残念で残念でならない。
あのひりつくような日々ももう終わりか。つまんない仕事になっちゃったな。私を見つけて手を振ってくれる土井先生はもうこの世にはいないんや。あんなメロい日々を味わっておいて用が済んだらすぐ切り捨てられる土井先生のドライさに信じられない気持ちになるも、先生は私ほど楽しくなかったのかと思うと、より落ち込んでしまう。
こんな事ならもっと罵ってやればよかった…と脳内で舌打ちをしていると、先生は私を怪訝そうな顔で見つめ、恐ろしい事を言い出す。

「お前まさか通ってるんじゃ…」
「違います」

嘘だ、全然通ってる。従業員としてほぼ毎日通ってるんだよ。先生は仕事が終わっておさらばできてよかったかもしれないけど、私の冒険はこれからだって感じよ。
違うと言ったのに疑われているのか、先生は溜息をつきながらコン茶屋に言及して、私へ助言を授けてきた。

「ああいう店には気をつけた方がいいぞ。客にとって都合のいい事しか言わないんだ、真に受けないように」

全くもってその通りすぎる。弁えすぎている先生に苦笑し、こういう客ばかりならいいのに…と思うも、そもそもこういう男はあんなところには行かないので、現実はままならないのであった。
罵倒プレイはしても、本当の罵倒はしない…何故なら図星を指せばそれは娯楽ではなくなるからだ。いくら罵られたいっつってもハゲに向かってハゲとは言えないだろ。そういうこと。
それがわからずに騙された哀れな忍たまがいたというわけか。私の客じゃないよな?と思っていると、先生は苦笑して謎フォローをする。

「まぁ、勉強にはなるかもな」

私もそう思ってコン茶屋バイトをやっているけど、先生の話は従業員として聞き捨てならない部分があり、思わず指摘した。

「土井先生は?」
「え?」
「いつも話してる人は…都合のいい事ばかり言ってたんですか?」

わりと普通に傷付いた私は、あんなに良くしてやったのに…と不貞腐れた。罵倒茶屋に来ておきながら罵倒を望まないクソ客に付き合ってやったのに、その言い草はどないやねん。世間話してる時も、心の中では冷めた態度でいたわけかよ。私は楽しかったのに。これじゃどっちが客だかわかんないけど。
こんな事で気を悪くするようではまだまだ勉強不足だな、と己をすぐ戒めたところで、先生は私の問いを否定した。思い返すように顎に手を当て、走馬灯が巡っていそうな顔をする。

「いや…」

言葉が止まり、その後ようやく見つけた語彙に、私はまた不貞腐れる。

「あの人だけ…変だった」

変て。言い方。もっと的確な言葉があるだろ。

「騙されてるじゃないですか…」
「違う違う!本当に変だったんだ!」

そんなに必死に変人を主張するな。あの人だけいい人だった…ってんならまだしも、変て。変じゃねーよ。一番まともなんだよ私が。
この分だと良い言葉は出てこないだろう。諦めて火薬を受け取り、そのまま帰ろうとした。土井先生はまともな先生だから、生徒の時の私には当たり障りのない事しか言わないだろう。面白くないけど、仕方ない。今後はずっとこうなんだから折り合いつけないと。
礼を言って去ろうとした時、先生は思い出したように私へ声をかけた。

「レイコ。そういえばお前…まだ続けてるのか?アルバイト」
「はい…皿洗いを…」

バイト内容を強調し、何食わぬ顔で答えた。
先生はもう来てないから知らないと思いますが、私は今もほぼ毎日労働をしています。人を罵り、精神をすり減らして戦っていますけど、何か?と言いたかったが、もちろん言えるはずもないのでそれ以上は黙った。土井先生も特に追及などする事もなく、そうか、と相槌を打って少し微笑んだ。

「あんまり無理はするなよ」

その言葉はコン茶屋を思い浮かべてのものだったのか、それとも皿洗いだったのかは定かではないけど、そんな風に言われると心臓が高鳴ってしまい、ますますバイトが憂鬱になるだけだった。だって先生もう来ないんだし。いっそ辞めちゃおうかな。
なんて思い始めていた矢先の事である。


「あら…先生、お久しぶりですね…」

その日の放課後、やる気のないキャッチをしていた私の目に、土井先生の姿が飛び込んできた。先程もう行かないと言っていたはずなのに、秒で掌を返され、さすがの私も動揺で口が上手く回らない。

どこからどう見ても土井先生だ。何しに来たんだ?もう用ないんだよな?必要ないってはっきりしっかり仰ったと思うんだが?
不思議な光景に怯んだけれど、今の私は闇遊戯…罵倒コンセプト茶屋のアルバイト店員である。素知らぬ顔をして平静を装わなくてはならない。
とりあえず接客をしようと店に促し、空席状況を把握する。

「どうぞ」

ちょうど人目につかない席が空いていた。正直聞きたい事は山ほどあるので来てくれてありがたいくらいだったが、先生は何故か入店を拒否し、店の前で不動の姿勢を見せる。

「いえ…今日はレイコさんにお礼を言いにきただけなので」
「お礼?」

何の話だ。急に怖くなってきたぞ。
先の読めない展開に慄き、私は顔を強張らせる。しかしその口振りから、やっぱりもうここに来る気はないのだと察してしまって、テンションがドン底まで下がり切った。結局私は飛べない豚を罵るだけの毎日を繰り返すしかないのか。あのエモでメロな日々は完全に失われてしまったんだな。
落胆する私とは裏腹に、土井先生は笑顔で礼を述べてくるので、私も無理やり笑うしかなかった。

「いろいろとお世話になりました。不良生徒も無事見つかりまして」
「何もお世話してませんよ私。罵倒もしてあげてないし」
「しないでください…」

心底ごめんだという顔をしながら、先生は少し迷ったような雰囲気を出すと、直後に私へ何かを差し出した。

「これ、よかったら」

先生の手の中にある物を見て、私はぎょっとして目を見開いた。思わず二度見を決め込むほどの光景に、まばたき一つできず驚愕してしまう。

か…簪だ。桜の飾りがついている。意味深すぎるモチーフに冷や汗が出るも、高揚感の方が勝ってしまって、鼓動を落ち着かせるために心臓を押さえた。全てが予想外すぎて頭がおかしくなりそうだ。

何だその大人の男みたいな贈り物は。いや大人の男だったわ。頼むからドキドキさせないでくれ。自分がどっちの遊戯なのかわからなくなって混乱する。どっちの顔でどんな面して先生を見たらいいかわからなくなるだろ。

受け取れないまま、私はただまじまじと簪を見つめた。
高そ…うではないな、妥当な値段って感じだ。バレンタインのお返しのヨックモックのシガール十四本入り相当って感じだ。ちょっとしたお礼には十分な額だろう。わざわざお気遣い頂いて申し訳ございませんね、と言いながら受け取りやすい額。
とはいえ、これはシガールではなく簪である。シガールを贈るのと簪を贈るのとでは重さが違いすぎるだろう。しかも桜の飾りがついてるんだぞ。桜だとコン茶屋嬢ではなく生徒の方の私を連想させるだろ。まさかカマをかけているのか?私を試しているのか?同一人物だとやっぱり気付いているのか?

意図が読めない贈り物に困惑と警戒が止まらない私は、とりあえず一度断った。ていうか貰えるわけがない。だって私だし。別人になりきっているとはいえ私の体は一つだし。

「そんな…もらえませんよ、仕事しただけですから」
「仕事…」

遠慮する私の言葉を復唱したあと、先生は照れ笑いを浮かべたため、また心臓がドラムロールと化してしまう。

「仕事、しないでくれましたよね」

そうだった。罵倒茶屋なのに罵倒をサボらされてたんだった。その礼だとでもいうのか。そんな事で礼を言われる筋合いはない。だって私も罵倒せずに助かっていた。フェアプレーである。
かつてないほど焦り、どう言って断るべきかを必死に考えた。だって貰ったところでどうにもできない。使えるわけないし、捨てる事もできないし、どこに置いておけばいいかわからないし、これが先生に見つかったらどうしようという恐怖を抱きながら過ごすのは心臓に悪すぎる。
貰えるわけがない。貰えるわけがないけど、貰えない言い訳が思いつかない。

「土井先生…」

心底困った声で呟き、もはや取り繕えず、ただ拒否した。それしかなかったのだ。

「いただいても…使えないんです」

だって使ったらバレるから。こんなん着けて歩いてたら私だってバレちゃうから。無理だから。先生だって困るでしょ。誰のためにもならないんだよ。

「お気持ちだけ頂戴します。ありがとうございます」

丁寧にお辞儀をし、断固拒否の姿勢でご厚意を辞退した。顔を上げられないまま、後ろ髪を引かれる思いで、何とか憎まれ口だけは搾り出す。

「真に罵倒されたい方が現れた時…その方にお渡しください」
「別にされたくないんですって…!」

先生の呆れた声を聞いている時、ちょうどいいタイミングで豚から指名が入ったため、天の助けだと私はすぐさま飛びついた。
飛べない豚はただの豚だと思ってたけど、たまにはいい仕事するじゃねーか。この私が豚に助けられるとはな。今日だけは仕事に身が入るってもんだわ。
逃げるように店内に入り、最後に先生を振り返って、惜しい事をしたという思いが拭えないながらも、気持ちだけで十分と言った事は紛れもない本心だった。そしてもうこんな先生は見られないんだな、と思うと、それだけが本当に寂しい。

「さようなら」

微妙じゃない男前に別れを告げて、どっちが客だかわからない疑似恋愛は終わった。

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