倉庫の鍵を借りに行ったら、土井先生が使ったまま返してないと言うので、職員室に取りに行くはめになった。行ったり来たりで面倒臭いなと露骨に苛立ち、わざとでかい音を立てて廊下を歩く。
全く…使ったらさっさと返せよな。土井先生が罵倒茶屋に来てから世界に光が満ちたってんのに、また荒野に逆戻りで苛立ってんだよこっちは。憂いを帯びたブルーなんだよ。世の果てでは客と豚が交じってんだよ。
大きな溜息をつきながら部屋の前で声をかけ、散らかった室内の真ん中にいる土井先生に、さっさと本題を切り出した。
「先生、倉庫の鍵お持ちですよね。お借りしたいのですが」
「あ」
いま思い出したという顔をした土井先生は、私を見ても普通の態度で接している。やっぱバレてなかったのかな。あれからそんなに会ってはいないが、用件以外を話す事もないし、当然コン茶屋の話題など上がるわけもないので、私も一般生徒の気持ちに戻りつつある。というか戻らないといけないな、と思っている方が正しい。
雑然とした中からようやく鍵を見つけた先生は、言い訳しながら机越しに手を伸ばし、私にそれを差し出した。
「すまんすまん、なかなか戻る時間がなくて…」
この散らかり様を見れば忙しいのはよくわかったため、別に責めもせず礼を述べた。やっぱり学校の先生って大変だな…と労働の過酷さを痛感し、豚の世話の方が余程楽だわと罵倒慣れしてきた自分を悲しく思った。汚れちまったよ、俗世にな。
「それと、もう一つ」
鍵を握りしめて立ち上がろうとした時、先生がまた何かを取り出したので、私はもう一度手を開いた。鍵の上に乗せられたものは高い音を立て、冷たい感触を味わわせる。一瞬触れた先生の手がやけに熱かった事はすぐに忘れた。全身から血の気が引いたからだ。
驚愕に目を見開いた私は、西川きよしなみに眼球が飛び出ていた事だろう。体中から血液が消え失せたみたいだ。掌を凝視し、そんな馬鹿な、と息を飲んだ。
簪だ。桜の飾りがついた、あの時の簪であった。
「…こっちなら使えるって事だろ?」
バレてたのか。やっぱり先生知ってたんだ。私と知ってて通っていたのか。
いやそれ普通にアウトじゃない?と気色悪がりながら、シラを切るかどうか悩んでいる間に、先生はさらに言葉を続ける。
「最初から疑ってはいたんだが…」
腕を組んで頭を捻る先生に私は釘付けとなり、返答次第では印象が変わるぞ、という念を送った。しかし、本当に最初から気付いていたとしたら、先生はあんな風に笑ったりはしないとわかっていたので、別に聞くまでもなかった。
「最後に、私の名前を呼んだだろう」
このとき私は自らの失態に気付いて、さすがに観念した。そうだった、とすぐに思い出したのだ。
本当だわ。土井先生って言っちゃった。動揺のあまり口走ってた。だってヨックモックのシガールじゃなくて簪だったから仕方ないじゃん。急に男出してくるから仕方ないじゃん。
三禁とはよく言ったものだな…と六年生になってようやく痛感し、情けなさのあまり深い溜息が出てしまう。
「気を付けてたんですが…」
「詰めが甘い」
「精進します…」
項垂れながら再び溜息をついて、様々な方面からやってくる羞恥心をどうにか振り払った。
平気な顔してるけど、土井先生もたぶん私に会うのめちゃくちゃ気まずかっただろうな。ようやく羞恥が吹っ切れて渡してきたわけか。知らん顔してればよかっただろうに、余程私に一泡吹かせたかったと見える。まんまと西川師匠の顔を晒してしまった事が悔しくて、唸りながら天を仰いだ。
マジかー…最後の最後にやっちまったんだ。あー恥ずかしい。白々しい芝居をしてたの本当恥ずかしい。バレてるかバレてないかわからないシュレディンガーの猫状態だったからやって来れたけど、バレちまったらもうまともに生活できないよ。唐突に思い出して風呂場で絶叫する日々不可避だよ。
しかし先生に比べたら私の傷など浅いものだろうと持ち直して、なんとか正気を保った。
マジでこいつよくこれ渡してこれたな。黒歴史やん。生徒とは知らず毎日楽しくお喋りしながら団子食ってたの一生消えない恥じゃん。普通仕事辞めるだろ。メンタル強。やっぱ学校の先生ってやばい奴しかいないんだな。
土井先生が開き直っているというのなら、私もそうさせてもらおう。恥も外聞も捨て、この際だから聞きたい事を尋ねる事にした。もはや失うものは何もなかった。
「茶屋に入り浸ってたのって誰だったんですか?」
「そんなの言えない」
「私の客だったかどうかだけでも教えてください」
そこは聞いておかないと本当に死活問題だったので、私はいつになく真顔になった。土井先生にバレたのはこの際もういいけど、もし私の客の中に忍たまがいて、私の罵倒で悦に浸っていたらと考えると、恐ろしすぎて夜も眠れない。お互いのためにも絶対バレないようにしなきゃならん。風俗行ったら息子の友達の母親が出てきたくらいの気まずさあるだろ。
先生は少し迷うような素振りを見せたが、私の真剣な姿を見て、心が変わったらしかった。安心させるような声色に、私は何だか気恥ずかしくなる。
「…お前じゃないよ。零番の人に入れ込んでたらしい」
零番さんか、渋いな。確かに独特のオーラでカリスマ性がある。まさにクロロ・ルシルフルって感じに他人の罵声語彙を盗んで己のものとするプロだった。数多の豚共に罵倒の鎮魂歌を聞かせて地獄なのか天国なのかへ叩き落としていたので、ウボォーさんもご満悦な事だろう。
私の客じゃないならよかった…とホッとし、露骨に安堵していると、残念ながら私の客だった男が呆れたように口を開いた。
「どうしてあんなところでアルバイトなんて…」
「給料がいいので…つい…」
きり丸みたいな言い分に先生は眉をひそめていたが、すぐに苦笑を浮かべてふざけた事をぬかした。
「まぁ向いてるみたいだったしな…」
「どういう意味ですか」
「バリバリ財布で十分だろなんて言われた日にはなぁ…」
「やめてくださいよ…!」
普通に黒歴史を抉ってくる先生を危うく簪で刺しそうになり、私は衝動を抑え込んだ自分を盛大に褒め称えた。危なかった。完全に脳天に突き刺すビジョンが見えてたわ。命拾いしたな。
羞恥で暴れ出したい気持ちを堪えつつ、冷静に店のクリーンさを訴えようと、心にもない事を言うしかなかった。
「罵倒以外は普通の茶屋です」
「普通じゃないだろう。距離が近すぎる」
先生が半ギレでそう言った時、私は何の事だかわからなくて、一瞬ポカンとしてしまった。
机を挟んで座ってるから、懸念するほど客と近付く事はない。もちろんお触りも禁止だ。指一本でも嬢に触れようものなら、シルヴェスター・スタローンみたいな黒服につまみ出される、そういう行き届いた店である。
そんなガチ恋距離で揶揄ってあげるのは先生くらいだから安心してくださいよ、と半笑いで言おうとしたのだが、何故かマジな言葉に変換されてしまい、私は自分がいま闇遊戯なのか表遊戯なのかわからなくなって混乱した。
「先生以外に…あんなことしませんよ」
言ったあとで、信じられないくらい赤面した。気でも狂ったのか?と自問自答し、また余計な事を口走る。
「そんな事もわからないでよく忍者やってますね」
照れるあまりナチュラルに罵倒してしまった。もう終わりだ。体に染み付いた罵倒の語彙が消えないんだよ。
「すみません、忘れてください」
「努力はする…」
呆れ果てた先生を見られずに俯くと、握りしめていた簪が目に入り、また照れた。今さらながらこんなもの貰っていいのかと冷や汗が出てしまい、本当にシガールと替えなくていいのかと問いかけた。
「…いいんですか、いただいても」
「返されると結構つらいもんだぞ」
「すみません…」
上手い言い訳もできずに突き返してしまった事を反省していたら、思いがけない速度で豪速球が飛んできて、私の心の審判が勝手にストライク判定を出すのであった。
「お前のために買ったんだから」
心臓飛び出るかと思った。ガチ恋距離やめろよ。お前もう教師辞めて女装デカ男茶屋やれ。向いてるぞ。
「誰にも言うなよ」
言えるわけがないので秒で頷いた。罵倒茶屋の接客の礼に簪をもらったなどと言える奴がいるなら是非お目にかかりたい。その鋼メンタル分けてほしいよ。
私は照れを隠せないまま簪を見つめ、浮かれている自分にさらに恥ずかしくなるも、もはや生きていること自体恥と化していたから、素直に礼を述べる事にも何ら抵抗はなかった。どう考えても茶屋の女に突き返された簪を生徒に横流しする先生の方が恥だからだ。
「ありがとうございます…嬉しいです」
ようやく土井先生の方を見られた時、向こうはすでに私を凝視していたため、そのあまりの遠慮のなさに危うく簪を折りそうになった。びっくりしてちょっと浮いた。舞空術会得したわ。
「な、なんですか…」
「いや…やっぱり別人に見えるから…」
自分で正体を暴いたというのに、今度は違う意味で疑ってくる先生に、私は思わず眉を顰めた。ああいう店は都合のいい事しか言わないから気をつけろと忠告した先生が、都合のいいように捉えようとしている姿には、哀れな気持ちになる他ない。
散々似てるって言ったくせに…今さら別人に見えるとはどういう了見だよ。やっぱ人間って見たいようにしか見ないんだな。確かに闇遊戯の時はシェーディングを入れまくって骨格から誤魔化してるよ、表遊戯のきゅるるんとした目を吊り上げて罵倒の限りを尽くしてるけど、でも私はたった一人の武藤遊戯だからね。大体別人に見えたら何なんだよ、その方がいいのか?表遊戯と闇遊戯が別人の方が都合がいいのか?私が忍術学園の生徒だったら何か問題あるのかよ?
そこまで考えて、何だか自惚れそうだったから思考を停止した。代わりに現実を突きつけるべく、机から身を乗り出し、先生とガチ恋距離で視線を合わせた。
「どっちも私ですよ」
先生の顎に触れながら、もう一人の僕にターンを譲る。
「犬になりたかったらいつでも言ってください」
暗黒微笑で平成の夢主になりきったら、先生は完全に硬直した。コン茶屋嬢の時よりも生徒の時の方がこの技は効くらしい。真面目で良い子な私から恐ろしい台詞が発せられると脳がバグるみたいだ。
処理落ち状態の先生が帰って来ないので、私はわりと本気で先生の身を案じてしまう。
「目覚めないでくださいよ…」
「誰が目覚めるか!」
戻ってきた。戻ってきたついでに殴られた。
真面目な良い子だと思ってたのに…と涙を拭う先生に呆れながら、さっき先生以外にこんな事はしないと言ったのをもう忘れたのかと問いたくなる。
至って真面目だ、大真面目だ。だから一生懸命働いてるし嫌なことあっても頑張ってるし土井先生が来なくなってつまらなくてもちゃんと労働してるでしょうが。
先生以外には真面目なの。闇遊戯か表遊戯かわからなくなっちゃうのも先生の前だけだって何でわからないんだ。先生だって私に私を重ねてるからこんなもん贈ってるんだろ。
飾りの桜を揺らしながら、私は手探りで無造作に簪を差した。頭を振ると飾りも動くのがわかる。
「…似合いますか?」
わざと尋ねると、先生は意地の悪い顔で笑う。
「別にお前に買ったわけじゃないから、どうかな」
私のために買ったって言ったじゃん。ほんのさっき言ったじゃん。表遊戯も闇遊戯もどちらも武藤遊戯って言っただろうが。
一部虚偽が含まれているが、先生があまりにも堂々とシラを切るため、私も負けじと応戦した。
「でも桜に絡まった私が綺麗だったからこれにしたんでしょ?」
その瞬間、先生はかつての失言に気付いたようで、頬を染めながら顔を覆った。黒歴史を抉られる気分はどうだ?と鼻で笑い、子供みたいな言い争いを続けた。
「…綺麗だったのは桜だよ」
「私の方だったって言いましたよ」
「言ってない」
「言いましたって」
往生際の悪さに笑えてきたところで、先生が小競り合いをやめ、私を見つめながら溜息をついた。落胆したような、安堵したような、不思議な声で呟く。
「その顔はやっぱり同じなんだよなぁ…」
無邪気に笑った自分に気付き、思わず赤くなってしまった。笑いのツボでバレるの嫌すぎるな…と羞恥を抱く私とは裏腹に、先生はどこか上の空で、もう一度同じ事を呟いた。
「同じなのか…」
再び溜息をつかれた時、何を急に落ち込んでるんだと考えて、思いついた答えをつい口走ってしまった。せっかくさっき考えるのをやめたのに、こんな態度を取られたらそうとしか思えなくなって、それはそれでちょっと不貞腐れた。
「…もしかして私の事ちょっと好きでしたか?」
闇遊戯の方を…と言う前に殴られた。結構な強さの手刀を脳天に叩き込まれ、罵倒に図星は厳禁だったと初歩的な事を忘れていた私は、逃げるようにその場から退散した。捨て切れなかった恥がとうとう限界を突破したのだった。
早足で廊下を歩きながら、胸が高鳴ったり低鳴ったりという感じで忙しなく、ついでに頭も痛いから、先生のおかげで散々な体調である。
鍵を取りにきただけなのに酷い目に遭った。私だって先生のことちょっと好きだったから、自分自身に負けた気分である。意味のわからない失恋体験に困惑しながらも、コン茶屋のせいで私のメンタルも強くなったため、そこまでの落胆はなかった。
だって最後に勝ったのは表遊戯だったからね。先生もきっとそのうち気付くでしょう。都合のいい事なんてあるわけがないって。現実から目を逸らそうとも私は私である。忍術学園の真面目で良い子な生徒でしかないのである。
簪の桜を揺らしながら、先生が自分の気持ちを認めるまで、これ見よがしに着けておこうと意地の悪い事を考える私だった。
さっさと気付けよ、淫行教師。さもないと犬にしてやるからな。