拍子抜けするほどの早さで帰ってきてしまった。
出張に向かった私だったが、身内の裏切りの証拠を恐ろしいスピードで得てしまったので、ほぼとんぼ返りでその情報を持ち帰る事になった。しかも忍術学園も全く無関係とは言えない状況だったため、また学園長に会いに行かなくてはならない。
土井先生に会うかどうかは、迷っている。何故なら会いたくないと思うほどの寂しさは味わっていないからだ。すぐ帰ってきたし。
しかし私は忘れていた。いま学園はまさに夏休みに突入するところだということを。
「土井先生もう帰っちゃいました」
門前で会ったきり丸にそう言われ、まず素朴な疑問を口にする。
「…きり丸は?」
確か土井先生は休みの間、きり丸を家に泊めていると聞いた。何故一緒に帰らず学園に残っているんだろう。まぁ用があると言われたらそれまでだけど。そういえばアルバイトをしてるとか言ってたな、私も自室の掃除とかお願いしようかな…などと考えていれば、意外と子供らしい答えが返ってきて、もはや思い出せもしない一年生の時代を微笑ましく思う。
「俺たち、しんべヱの家でお泊まり会なんすよ」
「いいね。私も混ぜてもらおうかな」
冗談を返しながら福富屋の豪邸を思い浮かべる。となるとあの長屋で先生は一人きりなわけか、賑やかさから一変して今日は静かな夜だな。
大豪邸への羨望を置き去りにして土井先生の事ばかり考えてしまう己を自嘲し、さらにきり丸からキツイ言葉を投げかけられ、情けない事この上なかった。
「レイコさん…暇なんすか?」
失礼な。重大任務を終えてようやく帰ってきたところなんだよこっちは。内部抗争なんてこの先間違いなくバタバタだよ。人生なんて波乱しかないよ。
「暇なら土井先生のドブ掃除手伝ってあげてくださいよ、俺行けないから」
「ドブ掃除?」
「当番なんです。明日」
急にそんな事を頼まれ、私はいつ如何なる時も冷静であるべき忍者なことも忘れ、動揺した。これが一年は組の突拍子のなさなのか、と驚き、先生の苦労を少しだけ感じる事ができた。
こいつよく数回会っただけの得体の知れない卒業生にそんなこと頼めるな…しかも喜んでやる奴はいないであろうドブ掃除なんてものを…。大胆すぎる少年に衝撃を受けつつも、私は下心を人質に取られているので、掃除と土井先生を天秤にかけた結果、承諾する以外に答えはなかった。
「…わかった」
食堂のおばちゃんに夕食用のお弁当を二人分もらい、浮き足立つのを抑えながら、ゆっくりと先生の家へ向かった。
当然先生の反応は、想像した通りのものである。
「…レイコ!?」
玄関前で叫ばれ、私は思い描いていた通りの景色に苦笑する。最後に会った日、今生の別れみたいな気分だったというのに、こうもあっさり再会してしまうと、あの気持ちは何だったんだろうと遠い昔のように思う。
「どうしてここに…というか、出張は?」
かくかくしかじかで…と玄関先で説明し、夕暮れに照らされた先生を見つめた。驚きから真剣な表情に変わり、途中で仕事の話になったので、そこでようやく家に入れてもらった。
近々、うちの城は荒れる。そこに付け入る勢力もいるし、謀反人の計画の阻止と処分の事まで考えると、もちろん良い気分ではいられない。忍者学園にも協力してもらわねばならず、今後も土井先生とは長い付き合いになりそうだと痛感して、私の心は逆に落ち着きを取り戻していた。
私情でいざという時に動きにくくなってしまっては本末転倒。私もだが土井先生にまで迷惑をかけることになる。今後のことを考えたら、やはり余計な事をしない方がいいんだろう。頭ではわかっているんだから、感情に流されなければ大丈夫だ。道中そう言い聞かせて、今日明日しかない平穏な時間を噛み締める。
「全く…きり丸の奴…」
ドブ掃除を頼まれたからここに来たという事をしっかり主張した私は、土井先生の家で晩御飯の弁当をつつき、冷めても美味しいおばちゃんのご飯に感動した。このところ美味くも不味くもないものを食べながら走って帰ったりしていたので、久しぶりにまともに箸を使った。こうしてると、平穏の有り難み的なものをひしひし感じる。
入っていた蒲鉾を土井先生から自然に乗せられた私は、何も言わずにそれを口に運んだ。
「明日なんですよね?ドブ掃除」
「いいよ、手伝わなくて」
困ったように笑い、先生はまだきり丸への文句を言っている。私は全然構わないのだが、申し訳ないと思う先生の気持ちもよくわかる。私だって家のドブ掃除なんて先生にやらせるわけにいかないし。
今度は乗せられたさつま揚げを半分に割りながら、すっかり暗くなった外を見て、元々決めていた事を切り出した。
「まぁどちらにせよ…今日は泊めてくださいね」
「え!?」
私の爆弾発言に先生は箸を落として、こちらまで転がってきたそれを手渡した。自分でも滅茶苦茶だとは思うが、宙に浮いた状態の告白をそのままにしておくつもりはなかったので、今日全てをリセットする。真っ平にする。なかった事にするか、かつてあった事にする。
「だってもう夜だし」
「関係ないでしょ…」
ないのか?わりとあるんじゃないか?
私が忍者でなければ、普通に泊めてくれたか、どこかに宿を用意してくれたか、自分が出ていくかのどれかだっただろう。しかし残念ながら私は忍者である。夜だろうと人目につかず走って帰れる忍者である。追い出される以外の選択肢はなさそうだ。それでも粘り強く食い下がり、腰を上げないつもりで交渉する。
「端の方で寝ますから。忍者たるものいつでもどこでも眠れなきゃね」
「お前は潮江文次郎か…」
呆れる先生を横目に食べ終わった弁当を片付け、もしかして危機感を覚えていらっしゃるのか?と思った私は、何もしませんよ、と言いかけて、やめた。露骨すぎる。土井先生にどこまでの感情があると思われているのか未知数だから、そんなあからさまな事は言えなかった。
どうにもできずに黙っていれば、先生の方から口を開き、訝しげな顔で私を見た。
「…開き直ってる?」
「何がですか?」
「…何でもない」
その言葉で、さすがに私の好意に気付いた事はわかった。滞りなく夕食が済んだから、忘れているか気付かなかったか無かったことにしたかのどれかだと思っていたけれど、この状況ではしらを切るのも困難と受け取ったようだ。
しばらく見つめ合い、初めて見た時よりも随分丸くなった瞳に心が揺れる。今では私の方が、ずっと殺気立った目をしているだろう。
土井先生が好きだ。四年の頃から、変わらず好きだ。授業で遭難した時に助けに来てくれた。足の怪我を処置してくれて、歩けると言ったのに背負ってくれたし、私が同級生を庇って崖から落ちた事を怒ったし、着地の上手さは褒めてくれた。火薬を扱う時も信用してくれた。就職の相談も乗ってくれた。初めて軽口を叩いた時は真っ赤になって怒ってた。私が先生以外にそんな口をきかない事など、本当は気付いていただろうに。
思い出だけでも生きていけると再確認した私は、より確固たる意思で今日ここに泊まる事を決意した。追い出されても侵入してやる。出て行っても追跡してやる。付き纏い忍者をなめるなよ。
そんな私の気迫に観念したのか、先生は巨大すぎる溜息をつくと、きり丸の布団を貸してくれた。隣同士に布団が敷かれていくのを見つめながら、どうしてそれはありなんだ?距離を取れよ、と指摘したくなるのをグッと堪えた。どこかずれている。端の方でもいいとわざわざ言ったのに。
緊張感が走る中布団に入り、灯りの消えた室内で、すぐそばに感じる気配に安堵を覚える。今にも醒めそうな夢の中にいるみたいだ。ずっと。
「明日だけど…」
「はい」
「本当に手伝わなくていいからな。というか…明け方には帰ってくれ…近所の人に見られたら何を言われるか…」
ぶつぶつと呟きながら、近所の目を気にする先生に、私は適当な相槌を打つ。
「別に本当のこと言えばいいでしょ、元教え子に付き纏われてるって」
「言えるか!」
ごもっともすぎる怒声を無視して、私は目を瞑った。眠れるわけもない中、何か起きるはずもなく、薄汚れた天井を見つめる。夜目が利くから、振り向いたら先生の表情もきっと見える。決して見たくはないけれど。私にだって立ち直れなくなる瞬間とかはあるはずだから。
「土井先生」
意を決して口を開き、不意に、久しぶりに会った先生から、全然変わらないと言われた事を思い出した。変わらない方がいい事だってあるんだよな。土井先生なんてその最たるものではないか。
「先生が迷惑だとおっしゃるなら…もう仕事以外で忍術学園には行きません」
目を閉じていても、先生がこっちを向いた事がわかった。
「でもそうじゃないなら…また団子奢ってもらったり…練り物代わりに食べたりしようかな…」
冗談混じりに言いながら、私は何も変わらない事の価値を噛み締めて、己と先生にそれを強いる。寂しさすら忘れるほどの別れは選べないけれど、そして暗号を書く事もできないけれど、永遠に変わらないものもないけれど、四年の頃から変わらない茶番を演じ続ける事はできるはずだ。どこにでもいる軽薄な、若い教師を揶揄う生徒の一人。
「それ以外の答えは、いりません」
先生が思い悩んで妙に深刻な事を考え出す前に、先手を打った。私が望むのは学園と協力関係にある優秀な忍者である事か、学園と協力関係にある調子のいい元生徒兼優秀な忍者である事のどちらかなのだと言い切った。そして優しい土井先生なら、私をただの卒業生でいさせてくれる事は知っていた。
「…わかったよ」
泣きそうになるくらい穏やかな声で受け止められ、今日だけだと思い、腕を伸ばして手を握った。さすがに険しい顔をされたが、振り払われる事はなかった。
「…先生って…誰にでもこんな事してるんですか?」
「いや…さすがにそれは…」
お人好し通り越して危機感が終わっていそうな先生を心配すると、返ってきた言葉はそれだけだった。否定も肯定もまずいと気付いたようで、黙って寝た振りをされる。先生には悪いけど今夜はお互い眠れないだろう。夏休み初日という事で許されたい。
「でも…」
狸寝入りを突然やめた先生が口を開いた。天井を見つめたまま、日常に溶けていくような声で囁いた。
「学園には、いつでもおいで」
本当に先生は全然変わらない。だから私の初恋も、時が止まったまま動かない。
「練り物も食べてもらいたいしな」
照れ笑いをする先生に微笑み返し、私は目を閉じた。自ら望んだ事とはいえ、今まで通りに生きていくという事は、会えない寂しさよりもずっと寂しい気がした。でもそれでいいんだ。答えを出さなくても、私の胸を離れない浮ついた何かは、確かに一つの結末を迎えたのだ。
握った手の熱さだけが、今までと違う。
違うけど、違わないことにして生きていく。