エーテルパラダイス

波の音が聞こえる。

アローラにいて波の音が聞こえない方が稀だが、波の音しか聞こえないのも稀なので、私は暗闇の中、呆然と立ち尽くしていた。

…え?ここ、どこ?

夜なのか何なのか、暗くて広い場所で一人っきりの私はレイコ。なんでこんなところにいるかわからないヒキニートだ。

…いやマジでどうした?本当にどこ?何故私はこんなところで突っ立ってんだ?
白いコンクリートの上で、私は自分の置かれている状況がわからず、一人で狼狽えていた。確かコンビニに行こうとしてたような気もするが…そうじゃなかった気もするし…何してたんだっけ…?

混濁する記憶に戸惑い、辺りを見回しながら頭を抱える。マジで記憶がない事に、段々と脈が加速していって、何だかとてつもなくやばい雰囲気を感じた。
え…?どうなってんだ?いや落ち着け、よく考えてみろ。そもそも私はどこで何をしてた?コンビニに…行こうとしてたんじゃなかったっけ?違うか?

何とか深呼吸し、自分の置かれた状況を整理しようとする。しかし、どれだけ考えても記憶が戻る事はなく、空っぽの脳みそに焦りばかりが募った。

ええ…?本当に思い出せない。何だっけ、いま何やってるんだ私?アローラにいた事だけはかろうじてわかるっていうか…そんな気がするんだけど…。
そもそもここがまずどこなんだよ、とわずかに光が射す方を振り返れば、ライトアップされた白い建物が見えた。やけに広くて何もないところから察するに、見知った場所と気付いて、ほんの少しだけ安堵する。

ここあれか、エーテルパラダイスか。

遠くにあるでかい施設は、パラダイスと言うにはデンジャラスすぎた曰く付きの建物だった。やはり夜みたいで、人の気配はなく、人工島独特の不気味さが際立っている。

なんでエーテルパラダイスなんかに…?絶対こんなところにコンビニないだろ。ウルトラボールしか売ってねぇぞ。
もしかして夢遊病か…?と突然の発症に絶望しながらも、夜中にこんな場所で立ち往生していたら怪しいので、ひとまず財団に保護してもらおうと歩みを進めた。代表も職員も知らない仲じゃないし、とりあえずは何とかなるだろうと楽観的に構え、マイナス思考を打ち消す努力をする。

まぁアローラっていろいろ不思議なところあるし…またウルトラホールだとかビーストだとかに巻き込まれて記憶が曖昧になってる可能性はあるよな。
トラブル慣れしすぎてテンパりもしない自分が悲しかったが、泣いてたって仕方がないのも事実である。ひとまず助けを求めようと、いつもより遠い気がするエーテルパラダイスへ向かおうとした。

しかしその時、後方から光と共にエンジン音が近付いてくるのを感じて、私の足は停止する。車か?と振り返り、ライトの眩しさに目を細めれば、バスのように長いリムジンが横に停まって、なんとドアを開けたではないか。まるで招いているような状況に困惑し、後ずさりながら硬直した。

え…?だ、誰だ。まさかルザミーネさん?
エーテル財団代表ともなればリムジンを乗りこなしていてもおかしくはないが…いやでもどう考えても夜中だぞ、あの若さと美貌を保っている人間が果たして夜更かしなどするだろうか?

どうでもいい考察を展開していると、おもむろに運転手が車から降りてきた。顔は暗くて見えないが中肉中背の男で、黒い服に身を包んでいる。

何故に黒服…?財団の人間なら普通は白服だよな?オフなのか?いや服とかこの際どうでもいいだろ。
見知らぬ男が降りてきた事に警戒しながら後ずされば、相手は自動で開いたドアをさらに開き、私に乗るように促しているみたいだった。何が何だかわからないまま、それでもやっぱりルザミーネさんが乗ってんのかな?と思った私は、中を覗き込んで衝撃を受ける。

「サ…っ」

ルザミーネどころの話ではなかった。
車内灯に照らされた人物の顔は、会いたくない奴ランキング十位入賞は確実のやばい男で、目が合った瞬間の絶望感はかなり深く、名前を呼ぼうとした喉が一瞬塞がった。
なんでこんなところに、と思ったその時、私は運転手に背中を押され、なんとリムジンにスライディング乗車させられてしまったのだ。とんでもない展開の連続にはさすがにテンパって、ドアが閉まる音に血の気が引いていく。そしてようやく、対峙する男の名を口に出せるのだった。

「サカキ…」

どうしてリムジンなんかに…チャンピオンの私だって乗った事ねぇぞ。

妬んでいる場合ではない。広い車内で優雅にくつろいでいたのは、まさかのサカキであった。カントーでは名の知れた反社会的組織ロケット団のボス、いや元ボスのあのサカキ様である。

何でこんなところでリムジン乗り回してんだ?当てつけかよ?
かつて解散に追い込んだ組織のボスにいきなり拉致され、身の危険を感じないはずもなく、私はドアを開けようと奮闘した。しかしロックにより扉は固く閉ざされ、逃亡の道も固く閉ざされ、そして私の心も固く閉ざされ、一瞬で絶望的な気分に陥った。もはや何もかもが鬱であった。

どういう事なんだ、何この状況。一体何が目的なの?思えば私の記憶が曖昧な点からおかしいし、サカキがアローラなんて陽気な地方にいるのも絶対おかしい…。何かが起きてる…何か…七周年的な企画が…きっと…。
思い出そうとすると意識が朦朧とし、私は頭を押さえながらサカキを警戒した。そうこうしてる間に車は走り出して、エーテルパラダイスの方へ向かっていく。どう考えても良い印象を抱かれてはいない相手だ、加えて犯罪者ともなれば、神経を張り詰めずにはいられない。
そんな私に、サカキ様から有り難いお言葉がかけられる。

「そう緊張するな」

いやするだろ。よくそんな事が言えるなお前。馬鹿にしてんのか?
無理にも程がある事を言われ、私は相手をただ睨んだ。逃げるチャンスを窺いつつ、一瞬たりとも油断できない状況に身を固め、極力サカキから離れる。
するとドアに張り付く私が滑稽だったのか、相手は不敵に笑うと、何やら奇妙なことを口走った。

「新生ロケット団初の任務だ、硬くなる理由もわかるが…」
「は?」

何やら情報が入り乱れ、カオスすぎる現状を、私はなかなか受け入れられなかった。何を言ってるんだ?と首を傾げるも、しかし大真面目なサカキを見たら、自分の感覚を信じられなくなってくる。

何の話してんだこいつ。新生ロケット団…?初任務…?

また性懲りも無く復活したのか?とキレる暇もないくらい、いろいろと衝撃的だった。敵対しているはずのサカキが、まるで仲間に声をかけているみたいに私をなだめ、ほくそ笑んでいる。いよいよ記憶喪失が深刻なものと化してきた事に、ますます緊張が募った。

待ってくれ。何を言ってるんだこのおっさんは。新生ロケット団ってなんだ、お前らはとっくに死滅ロケット団だろ、再三復活してんじゃねーよ。
また解散総選挙させなきゃなの…?と頭を抱えながら、しかしそんな簡単な話でなさそうな事には、さすがの私も気付いている。やけに友好的なサカキの態度と、自身の記憶喪失が絡み合い、実に嫌な想像を掻き立てた。

まさか私…記憶失ってる間にロケット団に入ったとかじゃないよな?
さすがに有り得ないだろ、と鼻で笑い、いつだって正義の使者であった自分を思い出して、何とか現実から目を背けようとする。

いや無いね、絶対に無い。いくらツンデレくんの親父だからってそんな事で絆されたりしねぇから。
私を惑わせて何かを企んでるんだろうか?警戒を強めていると、サカキはわずかに距離を詰め、伸ばした手をこちらの肩に置いた。危うく悲鳴を上げそうになったけれど、それ以上の接触はなかったため、汚い絶叫が轟く事は避けられたのだった。

「君はもっと…怖いもの知らずな子供だっただろう、レイコ」

いつの話をしてるんだ、と私はサカキの手を振り払った。今も正直怖いもの知らずなところあるけど、でもあの当時に比べたら、心身ともに成長したものである。

「私もう…子供じゃないから…」

ご覧の通り清く美しい女性になっているだろうが。そう主張しかけた時、車は結構な勢いで急停車した。振り乱れた体はサカキの方によろめき、肩を支えられた私は、奇声と共に態勢を戻そうとする。しかしそれを制すよう押さえつけられ、心臓が跳ね上がったのも束の間、いきなり作風が激変する台詞を発せられたものだから、態勢どころの話ではなくなってしまった。

「あそこに立っている警備員を始末しろ」
「え!?」

し、始末!?
全年齢ゲームとは思えない発言に、私はたまらず二度見した。サカキが目を向けている方を注視すると、確かにそこにはエーテルパラダイスを警備する職員がいて、抹殺を命じられた私は震え上がる他ない。

いや物騒すぎでしょ!始末!?始末って…あの始末か!?
するわけないだろ!と当然怒鳴り散らそうとした。いくら私が数々のトレーナーやポケモンをぶっ飛ばしてきたとはいえ、殺しだけは一度たりともした事はない。当たり前だけどな。
それをいきなり…始末!?するわけがねぇよ。するわけがねぇのに…私が従うと信じてやまないサカキのこの眼差しは…何!?

混乱の中、何も言えずに私とサカキはただ見つめ合った。まさか私…本当にロケット団に入っちゃったの?ゴールデンボールブリッジでの勧誘にはしっかりノーと言ったのに…!
記憶のない状態が、こんなに心細いとは思わなかった。自分さえ信じられないのだ、不安になって当然だろう。

知らず知らずのうちに人を殺したりしたんだろうか…?にわかには信じがたいけど…そのショックで記憶が消えている可能性もなくはない。
嫌な想像ばかり繰り返す私の左手を、そっとサカキは取った。もはや振り払う元気もなく、呆然と話を聞くばかりである。

「次の指示は追って出す。通信機を渡しておこう」

口振りが完全にロケット団の一味なんですけど。マジでサカキに懐柔されちまったのか?なんで?親を人質に取られたとか?確実に見捨てるから違うだろうな。
ロケット団に下る理由もなければ意味もないのにどうして…絶対何かあるはずなんだが…。抜け落ちた記憶を何とか絞り出そうとする私を、サカキはことごとく邪魔立てした。思考を遮るような行動ばかりされるため、私のもやもやは募る一方だ。

通信機と思われる小さな機械を出したサカキは、それを私の左手の薬指に嵌め込んだ。どうやら指輪型の通信機らしい。何故よりによってそんな場所に…と引いていると、そのまま手を握って、意味深に顔を近づけてくる。
爆発しそうな心臓が、一体どういう意図で動いているかわからず、完全に情緒不安だ。
どうしちゃったんだよ私。相手はサカキだぞ。トレーナー同士目と目が合ったら勝負は必須だが、サカキと合ったら逃げるが鉄則だというのに。

何故か体が動かない私に、サカキは囁いた。何も考えられなくなるくらい、それは甘美な響きを含ませた声だった。

「お前の帰りを待っているぞ」

そう言われ、頷く間も否定する間もなく、私は車から追い出された。運転手につまみ出されると、あっという間に車は遠ざかり、また波の音だけの空間に戻る。違うのは、指に嵌められた通信機だけだ。

何だったんだ一体。ていうかどうしたらいいんだよ。私はどうなっちゃってるんだ!?
何もわからないまま取り残され、暗闇の中で指輪を見つめながら、呆然と立ち尽くし続ける。

わ、わからん…どうしよう…。今日のサカキはどこか雰囲気が違ったというか…いつもは敵対してて知らなかったが、仲間内ではあんな感じなのかもしれないと思うと、何とも不思議な感覚である。
なんか…微妙に絆されかけたけど…かと言って警備員を始末なんてできるわけがないからな。当たり前だろ。こちとら清廉潔白な夢主だぞ。

きっとエーテル財団を掌握しようだとか、またそんな事を企んでるに違いない。これ以上のトラブルはごめんだからな、一刻も早くロケット団の事をルザミーネさんに伝えよう。
私は警備員の元に駆け寄り、もちろん始末するためではなく、注意喚起目的で向かっていった。すると近付くにつれ、何だか職員の様子がおかしい事に気が付く。

ん…?暗くてよく見えないけど…でもなんか…顔が変じゃない?
顔面の美醜の話ではなく、明らかに人間とは思えない顔色をしている気がし、私は恐る恐る進んでいった。なんかナメック星人みたいなんだけど…顔が緑…?白?いや…違う、あれは…。

「黄色…?」

呟いた時、黄色の肌をした警備員と目が合った。その瞬間全てを思い出し、私はエーテルの職員、もとい、職員に扮したポケモンの名を叫んで、完全に正気を取り戻す。

お…思い出した!思い出したぞ!
確かに私はコンビニに行こうとしてた!そこで奴と出会い、催眠術をかけられてしまったんだ!ロケット団になんて入ってないし、警備員を始末する必要もない!いや個人的には始末してぇけどな!

「スリーパー!またお前かよ!」

つまりこれは…夢!
思い至ったと同時にスリーパーに振り子をかざされ、己の推理が正しかった事に安堵した私は、喜んで意識を手放した。現実じゃなかった事には泣くほど歓喜したが、こんな夢を見せやがったスリーパーへは、憎悪が募るばかりのレイコであった。
目覚めたら覚えてろよ。