Non-REM stage W

「僕の気持ちは知っているよね」

目の前に座る男は、端正な顔立ちから罪深い台詞を吐いた。はぁ、と曖昧な返事をし、そもそも私は状況を理解するのに時間が掛かって、ひとまず見慣れた人物の名前を確認する。

「プラターヌ博士…?」

なんかやけに雰囲気ある奴がいるな…と思ったら、プラターヌ博士だ。カロスが生んだ最高傑作と名高い、顔面芸術史を揺るがすイケメンのプラターヌ博士。まぁそう呼んでるのは私だけだが。

何故こんなところに…ていうか私がまず何してるんだ?
話の脈絡がわからないどころか、自分が置かれている立場が謎で、何だか記憶がすっぽり抜け落ちているような気がしてくる。

マジで何?何だっけ。
辺りを見回すと、何やら高そうなレストランにいる事は把握した。夜景の美しさがプラターヌ博士に引けを取らないレベルだから、かなり高級な気配がする。

私のようなニートが、博士のように全てを持っている人間とどうしてこんな場違いなところにいるんだろう。無職なんてせいぜいガストがお似合いだってのに…。すかいらーくに謝れ。

まぁでも何かがあったような気はしてきた。私は記憶がないなりにも謎の説得力を感じ、全てに甘んじた方が良いと本能が囁くのを聞いて、数秒目を閉じる。

なんかこう…不可抗力に近い状況だった感じがする。こうなる運命だった的な…大いなる陰謀によってお膳立てされたみたいな、そういう抗えない何かの中にいるんだ。
夢と気付かないながらも何かを悟った私は、とりあえず流れに身を任せ、博士の話に耳を傾ける事にした。
すると、これが愚策だったみたいで、どんどんわけのわからない状況に陥っていき、傾げた首がなかなか真っ直ぐに戻らなくなってしまう。

「来てくれたってことは…いい返事を期待しちゃうよ」

マジで何の話だろう。借金の連帯保証人になる話…とか?
それならいい返事などできるわけがないので、私は慎重な態度を取る。有能なプラターヌが借金まみれになるとは考えにくいが、人間いつどこで破滅するかわからないしな…。とうとうパチンカスにでもなっちまったかよ?と憐んでいる私だったけれど、博士はエリート街道から外れる事なく、順調に潤沢な道を歩んでいるようだった。

その証拠に呆ける私へ、プラターヌは鍵を差し出しながら、予想だにしない言葉を告げる。

「…部屋を取ってあるんだ」
「え?」

部屋?

一瞬何のことかわからず、というか普段の鈍感夢主力がカンストしている私なら最後まで気付かなかっただろうが、今日は異様に冴え渡っていた。まるで人ならざる力でも発動しているかの如く、私の脳にその意味を伝達させる。

渡されたルームキーを見た途端、情景が浮かび上がった。
ガラス張りの部屋、シャンパンボトル、ジャグジー付きの風呂、ダブルベッド、ムーディな音楽、オレンジ色の照明…。
これら全てがあわさった時、点と点は一直線に繋がっていった。

「…え!?」

まさか、そういう系の話なの!?

いい返事ってそっちですか!?と私は博士を五度見した。借金の保証人の方がまだ現実味がある気がし、一瞬夢と気付きかけたが、強力な催眠術は、何としても私に恋愛体験をさせようと正気を奪っていく。

なんだろう、何かがすごく引っかかるけど、でも深く考えてはいけないような、そういう不可解な気分になっていく…!
これは一体…?と頭を抱えている間に、博士の話は進んでいった。とりあえず私は今、めぞん一刻の響子と三鷹のようなシチュエーションに陥っているらしく、これまでの人生でとことん無縁だった雰囲気に戸惑いが止まらない。

なんで博士が私などを…。そりゃ最強有能美人トレーナーの私に惹かれるのは自然な事かもしれないが、でも無職なんでねこっちは。博士みたいに神話級なイケメンエリートと釣り合うわけがないんだから、こんなの絶対おかしいでしょ。身の程を知りなさいよ。
そう冷静に考える私とは裏腹に、博士は盲目的な状況みたいで、嬉々として部屋の様子を話し始めた。

「夜景が綺麗でねー!」
「そ、そうですか」

戸惑いすぎてろくな返事ができないニートにも、博士は愛想を尽かす事なく微笑んだ。鍵を受け取れない私の手に、そっと指を重ね、大人の力を見せつけてくる。

「これで隣に君がいてくれたら最高なんだな」

正気なのか?イケメンの隣に立たせないでほしいという感情しかないんだけど。

いつになくマジな表情で見つめられ、私は本当に参ってしまった。なんというか、真実味を感じてしまったのだ。博士が私をホテルに誘っているという有り得ないシチュエーションが、紛れもない現実なのだと確信し、心臓が妙な音を立てて騒ぎ出す。

こんな…こんなことってあるか?絶対ないと思うんだけど。でもプラターヌ博士は私をじっと見つめているし、私と過ごすために夜景の綺麗な部屋を取って、その鍵をここに置いている。全ての判断を委ねられ、私もすぐ断ればいいものを、何故だか拒絶の言葉が思いつかなかった。とにかくテンパっていた。

情緒のない事を言うけど…夜景を見て…どうするんだろう。夜景を見るだけじゃないよな?二人で夜景を見ることで生まれる何かがあるんだよな?
リアリストニートは、ロマンチストプラターヌが果たして私と同じ想像をしているか心配になり、軽めのジャブを入れてみる事にした。これで朝までUNOでもしようよ!とか言われた日には絶句だからな。有り得そうなところが怖ぇよ。もはや逆にやりてぇわUNOを。

「…二人で見る夜景って…何か違うんですか」
「うん」

落ち着ける時間がほしくて雑な会話をしようとすれば、博士は思いがけず即答したため、私の思考は何が何でもストップするようにできているらしい。
恋人といる時の雪が特別なものに感じられるあれと同じか…と納得して、こうもストレートに告げられると、さすがに段々照れてきた。あのプラターヌ博士が私と夜景を見たいなんて健気な事を言っているのだ、何も感じないはずがないだろう。

そうか…電力会社が頑張っているだけの街の灯りも、二人だと違うものに見えるわけか。夜景を見る私の横顔も、いつもの五億倍美しく見えてくると、そう言ってるんだね。言ってねぇよ。

ふーん…と動揺を隠せず相槌を打ち、握られた手をじっと見つめる。
しかし私は、拒絶しないわりに、鍵を受け取るビジョンも見えなくて、しばらくその場で沈黙した。
博士の事はイケメンだと思うし、いい人だし、優しいし、正直心臓もやべぇけど、でも同じ部屋で夜景を見るのは、何だか違う気がしてしまうのだ。この景色に打ち震えるだけの感情を持ち合わせていないと思う。
私にとって心揺さぶられる瞬間っていうのは、無職になったり、ニートになったり、プー太郎になった時なのであって、ちょっと素敵な大人の男性に誘われた時ではないのであった。

そんな私を見透かしたのか、博士はそっと手を離した。重ねた時より優しい所作に、何故だか寂しさを感じてしまう。

「君も誰かを好きになったら、きっとわかる」

おかしな言い方に、私はたまらず眉を下げた。
何かその口振りだと、まるで博士が私を好きみたいじゃん。
いやまぁそうなんだろうけども。え?そうなのか?そうだったらやべぇし、そうじゃないのに誘うのもやべぇな。博士が私のせいでただのやべぇ奴になっちまった。ニートが他人の人生にまで影響を与えてしまう恐怖を知り、私は背筋を凍らせる。

すまないプラターヌ…私がニートだったばっかりに、女の趣味悪男にさせちまって…。申し訳なさがピークに達し、しかしどことなく拭えない違和感が、私の正気を保っていた。博士からさらに意味深な言葉をもらっても、それは変わらないままだった。

「その相手が僕だと嬉しいんだけどねー」

ストレートな言い方のわりに哀愁のある笑顔を浮かべ、プラターヌは椅子に背を預けた。まるでそうはならないと知ってるみたいな表情に、さすがのニートも胸を打たれる。
恋に破れる男とは何と儚いものだろう。一句読めそうな情緒に、思わず鍵を握ってしまう。

いや諦めんなよ!結構押しに弱いところあるから私!今までいろいろやらされてきたのも、全ては押しの弱さが原因だからな!?ノーと言えない日本人の典型だから!押された先に何かがあるかもしれないから!ガイアが囁き始めてる気がするから!だから行け!お前の恋路を突き進め!

何故か他人事のように博士を応援する私は、直後に自分の事だったと思い出し、ハッと顔を上げた。
さっきからどうにもおかしい。現実味を強く感じたと思えば、実感が薄れまくったり、まるで朦朧とする意識の中を彷徨っているみたいである。

どうなってんだ一体…やっぱおかしいよなこれ…博士が私を誘っているなどと…何かの間違いに思えてならない。
でももし本当だとしたら、どうしよう。私は多少の好奇心と、多大な疑いの心を抱き、プラターヌを見つめた。からかっているようには感じなかった。

九割五分信じてないけど…この真剣な表情の理由を確かめたい気持ちは私にもある。博士が本気なのか、そして本気だったら私はどうするのか、知らねばならないという思いに駆られた。この時ムシャーナの催眠術は、瞬間最大風速を叩き出していた。

「…試してみますか?」
「え?」

私は鍵を持ち上げ、意を決して強く握りしめる。

「一人で見る夜景と違うかどうか…」

自分の言葉に驚くと共に、こうなる運命だったとも感じて、私は博士の誘いを受けた。我々は夜景を見るのではない、夜景を通してその先にあるものを見るのだとガイアが囁き、正常な判断を奪っていく。

やっぱり何かがおかしいんだ。私がこんなに敏感夢主なのもおかしいし、博士が私をガチめに口説くのも絶対に変。チャラターヌだとしても、高級ホテルの部屋まで取っているなんて有り得ないだろ。チャラスがそんなに気合い入れるかよ。
何かの疾患、もしくは幻覚に惑わされている可能性を導き出し、私は答えを得るために部屋へ行く覚悟を決めた。まぁ別に何とかなるでしょ、という安易な気持ちを抱くニートとは裏腹に、博士は今夜に懸ける意気込みが全く違ったらしい。何やら思慮深い顔をして、鍵を持つ私の手を握りしめた。長い指に覆われると、別に幻覚じゃなくてもいいかな…と少し思ってしまう。その感覚がすでに幻覚である事を、レイコは知らないのだった。

「同じに見えない事を祈るよ」

そう言いながら博士は、指の隙間を抜けて、私から鍵を奪い去った。そして自分から渡したくせに、今度は真逆の行動を取って、私をさらなる混乱の渦へと叩き落とす。

「でも、今日はやめておこう」

なんでやねん。情緒不安か?

「同じに見えたら僕が悲しいし…」

切なげに笑った博士は眉を下げ、冷静と情熱の間で揺れている事を、私に知らしめるのだった。

「それに、たとえ同じ景色に見えても…君を帰せる自信がないんだよ」

最初から諦めているような事ばかり言うプラターヌに、私は何も告げられなかった。そんなの試してみなきゃわからないのに…と慰めつつ、でも多分私はどこで誰と見ようともやっぱ夜景はただの夜景としか思えないんだろうな、という事実も、ひしひしと感じてしまうわけだ。

優しいよな、プラターヌ博士…。いきなりホテルに誘うぶっ飛んだところはあるけど自制心もあってさ…私が普通の夢主だったら絶対に鍵を離さなかった事だろうよ。

でも私…ニートなんだよね。
私は己のしょうもなさを痛感し、別に何も悪いことはしてないはずなのに申し訳なさを覚える。

博士の言う通りだ。カモメはカモメだと研ナオコが言ってるように、夜景は夜景、ニートはニート、孔雀や鳩やましてや女にはなれないって話よ。
もし夜景に胸打たれる時が来るとしたら、それはきっと、親父の金で泊まった高級ホテルから街を見下ろした時に違いない。残業中の会社のフロアを眺めながら、労働もせずほくそ笑む瞬間だけが、私の至福なのであった。

そんな人間をホテルに連れ込む方がやばいだろ。博士にはまともな人であってほしい私は、賢明です、と頷き、目を閉じる。
いつか博士が、私以外の立派に労働をしている誰かと夜景を見られますように…と願い、しかしそれはそれで物悲しさを感じてしまう、身勝手な私なのだった。