「これは受け取れない」
机の上に、キーが置かれる。ルームナンバーが書いてあるから、きっとホテルの鍵だろう。
私はこの光景に見覚えがある気がしたので、何の気なしに顔を上げた。まだこの話続いてんの?くらいの気持ちだったが、見上げた先にいたのは、想像もしていなかった人物であった。
「レイコ」
真剣な目で私を見つめるのは、白髪まじりの男性である。見覚えのある三白眼が、今日はやけに暗い。
「え?か…カブさん…?」
あれ?私…カブさんと喋ってたっけ?
向かいの席に座るのは、ジムチャレンジの登竜門、エンジンジムのシャツインリーダー、カブさんであった。
穏やかな松岡修造と話題の彼は、情熱を秘めた初老の紳士で、ストイックな印象がとても強く、こんな夜景の見えるレストランにいるイメージが全く沸かないのだが、一体何が起きてこういう状況に陥っているのだろう。
私は周囲を見渡し、拭い切れない違和感に首を傾げた。
ていうか何で私はレストランにいるんだ?いや、いたような気もするけど、相手が違う気がする。もっとこう…顔面芸術史が新たな時代を迎えるような…そういう白衣のハンサムと同席してたのではなかっただろうか。
でも目の前にいるのカブさんだしなぁ…と机に置かれた鍵を見て、それでこれは何なんだよと一つ一つ疑問を抱いていった。
何これ。マジで何もわからん。でも鍵の話は確かにしてた覚えあるし、状況から見て突き返されたっぽい事も把握できる。しかしどこの鍵よ?私がかつて強奪した三億円をしまっている金庫の鍵とかだろうか。そんな事実はねぇよ。
昭和の未解決事件に気を取られている間に、現状を把握できていない私へ、カブさんはどんどん話を進めていった。
「君はまだ若いし、新たなチャンピオンに皆が夢中だ」
え〜?本当に何の話〜?
わかんね〜!と頭を抱える私だったが、それでも話を聞くうちに、ヒントは舞い込んでくる。お洒落なレストランに似つかわしくないお通夜みたいなこの空気が、どうにも哀愁を感じさせ、私の敏感夢主力を活性化させた。
わずかに震えたカブの指、切なげな表情、そして返された鍵から、脳裏に一つのシチュエーションが浮かぶ。実際はムシャーナからの伝達であったが、さも自身の閃きのように感じて固唾を飲んだ。
この感じ…まるで別れ話みたいなんだが…まさか、そんなわけないよな?
私は、カブさんに別れを切り出される覚えがないというか、そもそも交際事実がない気がして、しかしそれが現実か勘違いかわからないという不可解な思考に、混乱を極めていく。
え?何マジで。私達ってどういう関係だった?いまだに何でここにいるのかも理解できてないし、やっぱさっきまで違う相手といたような錯覚が抜けないんだけど、何もかもがどういうこと?
それもこれもカブさんに振られたショックで気が動転してるという事なんだろうか…。次第に自分の感情がわからなくなり、カブの悲しげな瞳を見ていると、さらにシチュエーションに飲まれていく。
「君と過ごした時間は、確かにかけがえのないものだったよ」
まさに記憶にございません状態だわ。
政治家より真実味のある記憶喪失は、私の動揺を誘った。かけがえのない時間…?いつそんなものを…?と額を押さえ、戸惑いがピークに達した。
忙しなくジムチャレンジをこなしてチャンピオンになったばかりの私に、どこでそんな暇があったんだ?そりゃカブさんには優しく接してもらってるし、熱い勝負を繰り広げたけど、でもそんな…二人だけの特別な何かは別に…なかったと思うんだが…。
するとその時、突然私の脳内に記憶がよみがえってきた。もちろんムシャーナの催眠術によって改竄された記憶だが、夢の世界の住人と化した私は気付くはずもない。
いや待て、と目を閉じ、何だかロマンスに満ちた日々があったような気がして、頭に浮かんだ光景に思いを馳せた。
そう言われると、カブさんと過ごした幸福な毎日が確かに存在した…かもしれない。
雪のフィールドで凍える私に、そっとコートをかけてくれた優しいカブさん…私がホウエンを旅した事を知ると、故郷の話をしてくれたよね…まだ紅茶の良し悪しがわからないと悩む味音痴の私を、穴場のカフェに連れて行ってくれたり、公園から別方向に帰る時、せーので後ろ向こうって決めたのにカブさんはずっと私の方を見てて、それに気付いた私がずっち〜なぁ!って言った日々などが、いま鮮明によみがえってくるよ。
さりげなく東京ラブストーリーが混ざった気がするが、私にとってカブさんは織田裕二よりもずっと思い入れのある人で、そしてカブさんにとって私も、鈴木保奈美より美しく愛おしい存在だったに違いない。
そういえばそうだったかもな、と偽の記憶を受け入れ、だとすれば、あんなに幸せだったのに通夜モードになる意味がわからないし、そしてこの鍵が私の一大決心の証である事も、想像に難くなかった。
月曜の夜に街からOLが消えるようなラブストーリーを展開したはずなのに…何故…突き返されてしまったというの?鈴木保奈美のように若く美しい私が、親子以上に歳の離れたカブさんへホテルの鍵を渡す勇気、察してくれない人ではないはずだ。
しかし、察してくれる人であったがために、カブは私を突き放したのだと、直後に知る羽目になる。
「だからこそ、君の明るい未来を奪いたくないんだ」
完全に別れ話だな。別れ話の空気とかじゃなくて間違いなく別れ話。常套句を使われ、行き場を失った悲しき鍵を見つめながら、やっぱり何かがおかしい…と私は目を細めた。
よくわかんないけど私…振られてるんだよな?しかも振る理由が有りがちな感じだよな?
直接的な言い方は避けているカブに、情緒も空気も読まない私は、はっきりさせたくて首を傾げる。
「…歳の差の話?」
年齢を理由に振られてんの私?この私が?そんな…まともな事情で?
「そうだよ」
そして断言され、混乱が極まった。それ以上の問題がいろいろある身としては、そこなの?と呆然としてしまうわけである。
歳の差がありすぎるし、若くて希望に満ちた未来が待ってる私に、老体を付き合わせたくないと、そう言ってるって事ですよね?私を思っての拒絶なんだな?
優しいカブに感動すると共に、そんな価値のない私はただ恐縮した。
いや私無職なんでね。そんな気遣ってもらえるような人生じゃねぇんだわ。
私はてっきり、やっぱり安定した職に就いてからこういう事はするべきだよ、的な話かと思ってびくついてたんだけど。違うのかよ。
真面目なカブである、ニートなんて向上心のない人間は言語道断、互いのためにも一度距離を置くべきなんじゃないか、的なノリの別れかと思ったら、そっちの事情かい!やめてくれ心苦しいから!あなたにそんな顔をさせてしまうほど私は真っ当な人間じゃないからね!歳の差とか気にしてもらえるレベルじゃないの!人間力の差がまず違いすぎるのよ!
カブさんが私のことを心から案じて決断したのだと思ったら、罪悪感に包まれて頭がどうにかなりそうだった。
まぁそもそもカブさんみたいに生涯現役のストイックマンとヤマブキが生んだクソニートが釣り合うはずないんで、別れは素直に受け入れるとしても、カブさんに心苦しさは感じてほしくないからな、何のわだかまりもなくこの会話を終えたいと思う。その一心で、私は大きく首を振った。
「若いと言っても私もう大人だし…そんなの関係ないですよ」
実際歳の差に関しては、本当にそこまで気にする事ではないと感じていたので、ありのままの気持ちをカブに告げた。お互いに大人である、分別を弁えた上での交流なのだから、何の問題もないはずだ。
そりゃカブさんが地位と権力とキャリアを盾に、若く経験の浅い女を食い物にするタイプのクズなら話は違ってくるけど、どう考えても人より五億倍は真面目だからな。どっちかというとこの場合クズは私なんでね。
ろくに働きもせずだらだらと生きてる私が、カブさんの限りある余生を圧迫したこと…あまりにも罪深いでしょう。謝って済むレベルじゃねーぞ。
微妙に失礼なことを考えていると、私の反論に、カブさんは動じる事なくさらに反論を被せた。逆に私の方が動揺してしまうほどだった。
「前にもそう言ってたね」
は〜?マジで記憶にございません。あなたの認知症か私の若年性アルツハイマーかって感じになってきたじゃねーかよ。
残念ながら疾患ではなく夢であることに気付かない私は、ますます頭を抱える事になり、でも確かにそんな会話を交わしたかも…と偽の記憶に惑わされる一方である。
「僕には関係あるんだよ」
「そうですか…」
適当な相槌を打ちながら、一体私はどうしてしまったのかと本当に困り果てる。
何なんだこれは…マジに病気か?記憶にないかと思えば蘇ってきたり、カブさんと何もないはずなのに何かあったような気がしてきたり…。
多大な違和感に、ついに大いなる力の存在を疑い始めたが、それもカブさんの顔を見たら、すぐに消し飛んでしまった。あのいつでもストイックなスポーツマンの彼が、わずかに眉根を寄せ、唇を固く結んでいる。まるで相反する心と言葉に抗うかのような姿は、私の胸を大きく打った。そしてたまらず口を開いてしまう。
「でも…」
そんな顔しないでカブさん…という思いが、体裁を上回った瞬間だった。
「明るい未来って言いますけど…私無職だし…どっちかと言うとお先真っ暗っていうか…」
「…え?無職?」
チャンピオンじゃないっけ?と言いたげに聞き返したカブをスルーして、私は言葉を続けた。正直そこにはあまり触れてほしくないので、シリアスな雰囲気をゴリ押し、大真面目な表情を作る。
「カブさんと一緒の未来の方が明るいんじゃないかな」
私はどこか他人事のように告げ、老いらくの恋から身を引こうとするカブを励ました。むしろカブさんのように向上心しかない大人といた方が、私も真っ当な未来を歩めるに違いないだろう。
だから年齢を理由に遠ざけないでほしい。私も無職を理由に身を引いたりしないのだから…。そこは引けよ。
「それに…何歳になっても成長し続けたいってカブさんが言ったじゃないですか」
途中から段々と我が身に降りかかっている事を忘れ、単純にカブさんのような素晴らしい人が、老いという誰しもに訪れる理由で何かを諦めてほしくない的な気持ちになり、それをそのままぶつけていた。
「もう一回言いますけど、歳なんてどうでもいいよ」
関係あるのはそう、真っ当な社会性、経済能力、納税の有無などだから。つまり私はカブさんどころか働いてる全人類に相応しくないニートってわけ。悔い改めろ本当に。どんな面の皮してたら鍵なんか渡せるんだよ。
厚かましい自分にドン引きし、そもそも何でカブさんとこんな関係になってんだ?と今さら真理に気付いた。前提がおかしすぎて何が正しいのか判断できなくなっていたが、最初から何もかもが間違っていた事に、突然思い至る。
いややっぱおかしいよなぁ?何に熱くなってるんだ私は?必死にカブさんを説得してるけど、これ私の話ですよね?未来も何もねぇよ我々に。だってそうでしょ?私はニート以外の何者でもないし、カブさんもこんなニートを愛するとは到底思えない。つまり何?これは…一体…?強めの幻覚…?
混沌の中にいる私とは裏腹に、カブさんはこちらの説得に心動かされてしまったようで、一人納得の声を上げていた。
「…そうか」
本当に大切な事に気付いた…的な声色に、いや私がニートな事に気付いてない時点で何も解決してないんだが、とマジレスしそうになるレイコであった。
「君がチャンピオンになった理由…よくわかった」
どこで?チャンピオンにでもならないと無職のままお先真っ暗だったところ?
NOWでお先真っ暗な私に、尚も彼は畳み掛けた。もうやめて!と言いたくなるほど、邪念のない彼の真っ直ぐな言葉が痛かった。
「今を精一杯生きているんだね」
無職だからな!先の事なんか考えてられるわけねぇだろ!
これ以上傷を抉らないでくれる!?私はカブからの賛辞を素直に受け取ることができずに苦悩した。今を精一杯なんて言うと聞こえはいいが、元も子もない言い方をすれば、その日暮らしである。
父親の経済力に頼っているだけのクズ…それがこのレイコだ。カブさんが思っているような人間じゃないし、あなたに釣り合う人種には永遠になれない生き物なわけだ。今カブさんに言ったことは本心だけれど、それはカブさんほどの人が年齢のことで自分を卑下しないでって言いたいだけで、私の未来に付き合えって意味じゃないからな。そんなこと言えるわけないだろうよ。捨てろ私のことは。そもそも捨てられるような関係でもないはずだし!
はっきりと異常を認識し、私の意識は夢から現実へと寄り始めていた。
しかしカブが、突き返したはずの鍵を再び引き寄せた時、私の意識も夢の方へ引っ張られてしまう。
照れたように眉を下げるカブさんは、年齢を感じさせない微笑みを浮かべ、それが大層私の胸を打った。もしかしたらこの世界では本当に、二人の明るい未来が待っているのかもしれないと、一瞬本気で絆される。
「僕も少し…あやかってみようかな」
思いがけず説得が成功してしまい、自らの首を絞めた私だったけれど、それはそれでいいような気がした。そしてそんな事を考える自分の異常性からも、やはり目を背けられない。
鍵を握り締めたカブを見つめながら、キーに彫られた番号を確認する。きっとこの部屋に行く事はないと、痛いほど理解している自分が、何だか物悲しいのであった。