「遠慮せず何でも頼みなよ」
私は差し出されたメニュー表を受け取り、値段が書いていない事にまず戦慄した。絶対に高いことを瞬時に理解し、遠慮するに決まってんだろ!と心の中で悪態をつく。
こんな高級レストランで何でも頼めるほど…私は図太くないしリッチでもないんですよ。しかも横文字でよくわかんねぇしさぁ…。
そっちが先に頼んでくんない?と顔を上げれば、向かいに座っていた相手が予想外の人物で、私は思わず五度見を決めた。そもそもここはどこだ!?と今さら気付き、困惑に顔を歪めた。
「あ…?え?クチナシさん…?」
…え!?なに!?どういう状況!?
顔を上げたらクチナシがいた事に、私は驚くどころの話ではなかった。なんでいきなりダウナー系島キングのクチナシさんが現れたのかも謎だが、そんな事より自分の記憶がかなり飛んでいる事に気付いたからである。
見覚えがあるようなないようなって感じの景色を見回し、謎に包まれた現状を整理できず、私は一人狼狽えた。
え〜!?マジで何?私こんなところで何してんの!?
さっきまでどうしていたかも思い出せず、メニュー表を見下ろしながら、消えた記憶に混乱した。それでもぼんやりと残る光景が発狂を抑え、何とか冷静に席につく。
ど、どういう事だ…?ここはどこ…?私は無職…?あなたは警官…?
動じる事なくメニューを見ているクチナシは、特にこの状況を疑問に思っていないようで、私はますます混乱した。
えー…?なんだっけ、どういう状況だったんだ?確か…フジドリームエアラインズがどうとか言ってた気がするんだけど…。
微妙にオカルトな事態もあったと思うが、はっきりと思い出す事ができない。そして、別に深く考える必要がないような感覚に陥り、私は再びメニューに視線を落とした。
食事…しに来たんだっけ、高級レストランに。
そういえばなんかずっとここにいる気がしてきたわ。夜景を見ながらテンパり続けた過去が突如として蘇ってきたけれど、向かいに座る相手がクチナシだったかどうかは最後まで思い出せず、不可解な状況に首を傾げた。
でもクチナシさんがいるって事はそりゃずっとクチナシさんと一緒だったんだろうよ。だって…なぁ?いきなり相手が変わるわけないし、向こうも涼しい顔してんだから、今日は優雅に高級ディナーの約束してたって事でしょ。そんな気がしてきた。
私はそう結論付け、徐々にムシャーナの催眠術に惑わされながら、現状に疑問を抱かなくなっていく。
しかし何でよりによってこんな高そうなレストランなんだろう。私は無職、あっちは公務員なのに。
私はクチナシを見つめながら、お互い場違いだな…と心底感じずにはいられない。
だってクチナシさん…高給取りじゃないっしょ?島キングは収入不明だし、交番勤務の人間がこんなところにフラットに来れるとは思えない。しかもあんまり趣味じゃなさそうだ。
懐石よく食ってたもんなぁ…と謎に食の好みを把握しながら、私も私で困っていた。口振りからして、彼の奢りっぽいからである。
マジで…どうする?そりゃ相手がハイパー金持ちだったら私もローストビーフヨークシャープディング添えとか頼んだと思うよ、跡部様のようにね。
でもクチナシさんでしょ〜?めっちゃ気ィ遣うわ。サッポロ一番とかでいいんですけど。
微妙に失礼なことを考えながら、私は眉をひそめ、相手の出方を窺った。
「何でもと言われても…何を頼んだらいいのか…」
「それがおじさんもよくわかんなくてね…」
じゃあなんでここ選んだんだよ。ガストでも全然構わんぜ私は。
ドリンクバーだけで五時間潰せる安上がりニートは、何故不慣れな人間同士で高級レストランにいるのかさっぱりわからず苦笑した。たまの贅沢だったのか…?と考察し、結局何を頼むべきか判断できないため、クチナシが口を開くのを待つ他ない。
すると彼はおもむろにメニューを閉じ、それをテーブルの端に置いた。もはや全てを諦めてシェフのおすすめで行くのか?と思いきや、諦めのレベルが私の遥か上を行っていたようで、予想だにしない発言がクチナシから飛ぶ。
やけに真剣な表情で私を見るので、思わず身構えたのだが、彼から出たのは構えるほどの言葉ではなかった。
「…気に入らないってんなら、部屋でルームサービスでも頼むかい?」
「いや…そういうわけじゃ…」
そんなわけねぇだろ。気に入りすぎて恐縮してんだよ。
斜め上の発想には、さすがのニートも苦笑した。どういう事なんだよ。恥ずかしくて帰れねーだろ普通に。
見るからに貧乏人の我々が、何も注文せずに帰ったらいい笑い者である。お金ないのに無理しちゃって…とその辺のマダムにひそひそされるに違いないよ。大体どこの部屋の何のルームサービスの話なんだ、ポケセンでジョーイさんに茶でも運んでもらうのか?
それなら恥をしのんで一番安い品を聞いた方がまだマシ…とドリンクメニューに目を通していたら、何故かクチナシは溜息をついて、もどかしそうに頭を掻いた。
「…一応、今のは誘い文句だったんだけどね」
「え?」
謎の言葉に、私は聞き返しながら首を傾げる。一字一句意味がわからず、いくら私が鈍感夢主といえども、クチナシの説明不足感は否めなかった。
しかし、説明されるとそれはそれで気まずいことになったので、私は一人追い込まれていくのであった。
「これ」
キョトンとしている間に、クチナシさんはどこからかルームキーのようなものを取り出し、それを私の前に置いた。部屋番号が書いてあるから、ホテルか何かの鍵だろう。
瞬間、仕事のできるムシャーナによって、私の属性は敏感夢主へと変化した。誘い文句、と言ったクチナシの言葉の真意を、一瞬で理解できてしまったのだ。
真犯人がわかったコナンのような顔で、私は冴え渡る推理が脳内で展開していくのを止められない。
そ、そうか!ルームサービスってのは、クチナシさんが取ってるホテルの部屋の話だったのか!
そしてそこに私を誘ったという事は…!動機は一つしかない!
まほろば○△…だな!?
ポルノグラフィティのようなワンナイトを想像し、いや厳密には想像できなかったが、私は十二分に動揺した。まさかあのクチナシにそういう類のことを求められるとは思わなかったからだ。
にわかには信じられず、私は探るような目つきで悪徳警官を見つめた。確かに真面目な公務員には見えないけど…でもニートのクソ女を高級レストランに誘い、挙句ホテルを取ってるなんて、いくら何でもおかしいでしょと冷静に思う。
重ね重ね言うが、何なら別のシチュエーションでもう十回以上言った気さえするけど、私はニートである。気怠げな警官以上に社会的にやばいわけ。
曲がりなりにも国家試験を受けたクチナシさんが、労働の義務を放棄している社会人の風上にも置けない人間をホテルに連れ込むなんて…アローラ警察の威信に関わると言っても過言ではないわ。しかも島キングだし!カプの怒りに触れたらどうすんのよ。
果たしてニートは神の鉄槌が下るほどの罪なのか?という点はさておき、遊ぶにしても他の人にしなされ、と私は真顔を作った。本気にしてもニートはやめとけって感じ。まぁガチなわけがないだろうが…。それはそれでややギレ案件だけどな。
私ほどの最強チャンピオンを遊び相手に選ぶか普通?と卑下と過信を繰り返していると、その罰が当たったのか、クチナシは私の過信に拍車をかける台詞を放った。
微妙に照れたような彼の表情を、もしかしたら初めて見たかもしれない。
「…おじさんも人生最後と思って、勇気出しちゃったよ」
ガチの方かも、と思い至ってしまい、私も照れてテンパった発言をする。
「別に最後って歳でもないでしょ…」
まぁ年齢知らんけど、と付け加え、こう見えて92歳とかでもない限り、クチナシは自分で言うほど老体には見えなかった。ジローラモのように精力的でもさすがに問題だが、まだまだ人並みに経験可能な域だと思うので、勇気を出すのは早すぎるぞとマジレスしかける。
この先何があるかわかんないんだし、最後なんて言うのは止しなよ。少なくともニートで妥協すな。もっと素晴らしい相手との運命的な出会いが待ってるかもしんないじゃん。そのとき私との関係が汚点になったらクチナシさんも困るでしょうが。
誰が汚点だよ、と自分で言っておきながらキレる私に、クチナシは尚も畳みかけた。実は歳の話が本質ではないという事を、この時初めて認識する。
「最後だよ」
頑なだなぁ…と眉をひそめたら、向こうも似たような事を思っていたらしいと知った。
「ねえちゃんを最後の相手にしたいってまで言わないと、伝わらないか?」
その衝撃発言に、私は目を見開いた。まさかそう来るとは思ってなかったので、完全に思考が停止する。
ガチガチのガチじゃん、と思い知らされたら、私のキャパシティは一瞬でオーバーしてしまったのだ。
「伝わってないねぇ…」
呆れた言い方にも反論できず、なんと答えたらいいかわからなくて詰みである。
まだ当分は続く彼の人生の終点に立つ事を求められてしまった私は、その重さと熱量に動揺を隠せない。
ええ…?マジ?陰気な警官かと思ってたら…意外とやる時はやるんだなおじさん…。秘められた情熱に後ずさりし、それでもやっぱり、最後にすることないじゃん…とマジレスしそうになる。
だって私だぞ。終局特異点がニートでいいと思うか?私は思わない。何故ならあなたは公務員、しかも警察官なので。無職を口説くなど最もしてはならない職業でしょうよ。
警官を何だと思ってるのかよくわからないレイコは、置かれた鍵を呆然と見つめ、時間ばかりが過ぎていく事に焦りを募らせる。とりあえず何か言わなくては、と拳を握り、しかしここに来て応じるか突っぱねるかを迷い始めて、そんな自分に一番驚いた。
いや何を迷う事があるんだよ、NO一択でしょ普通に。私がなりたいのは最後の女でも最後のジェダイでもない、最後の無職なんだからさぁ。
ラストニートの私が水ならば、安定職の公務員は油である。決して交わる事はない運命…結ばれてはいけない組み合わせなんだよね。たとえ私がクチナシさんを心から愛していたとしても、公務員である限りこの鍵は受け取らなかっただろう。それくらい、二人の職種の間には壁があるのだ。
意を決し、私は鍵をクチナシの方へ追いやろうと手を伸ばした。最後の恋にはなれない…と神妙な面持ちで頭を下げかけた時、私の体に異変が起こり、突如として硬直した。そう、ムシャーナの催眠術である。
無職とか公務員とか何言ってんだこいつ…とドン引きしながらもムシャーナは技を繰り出し、レイコに鍵を受け取らせようと誘導した。そんな事など知らない私は、いやでもクチナシさんがここまで言ってくださってるんだし…と心動かされ、それが催眠術の力だとも気付かずに鍵を握る。
ど、どうしよう…自分に一貫性がない…!なんだこの感情は!?狂っちまったのか!?
元々狂ったニートである事はさておき、鍵を取ろうかやめようか悩み果て、何度も怪しく宙を掴んだ。奇妙な私の動きにも、クチナシは愛想を尽かさず慈愛に満ちた目で見つめてくる。熱い眼差しは、私の心を乱すには充分すぎるものだった。
「すいません、こういうの…よくわからなくて…」
どうしたらいいのか…と机に手を置くと、その上にクチナシは手を重ねた。普段アローラニャースを撫で回している掌は、私の想像よりずっと熱くて驚いてしまう。
びっくりした…手錠かけられるかと思ったわ、美しすぎる罪で。
寝ぼけた事をほざいていれば、決めかねて焦っている私へ、クチナシは優しく声をかける。メニューも選べない優柔不断なニートのペースに付き合ってくれるいい人を、一体何様の分際で袖にしようとしてるんだろうな…と冷静に思い、それ以上アクションを起こす事なく見守る相手を、私も真っ直ぐ見つめた。
「どうせ最後だ、気長に待つさ」
動かないニートに呆れる事もなくそう言ったクチナシに、私は心動かされた。私の決断を待ってたら寿命尽きますよって感じだったが、余裕ありげな様子に真実味を感じてしまい、最後と決意した人間の本気を思い知る。
クチナシさん…マジ…なのかな…。マジに私とまほろば○△でラストスパートを駆け抜ける気かよ?
いまだに半信半疑だが、リアルすぎる手の温度が、私に現実を突きつける。そして、何も注文しないまま時間ばかりが過ぎている事をやっと思い出して、勢いのまま鍵を握り締めた。
「で、出ましょうか…」
メニューを閉じた私は、大事なことを忘れていたとこの瞬間気付く。それは、レストランの営業時間であった。
クチナシさんは気長に待てるかもしれないけど、レストランはそうじゃないからな。食べずにだらだらしてたら確実に怒られるだろ。
長くなるんだったらもう出ようぜ、という気持ちで、私は立ち上がる。ただ何の他意もないかと聞かれると、それは素直に頷けなかったりする。
「お店の迷惑になるし…」
言い訳みたいに付け足した私を見て、クチナシは参ったように笑うのだった。