「俺は部屋を取ってありますけど、君はどうするんです?」
だからそれはここを出てから決める感じの空気だったでしょ、と言いかけて、私の記憶は彼方へと消えた。顔を上げた途端に今まで浮かんでいた情景が吹っ飛び、目が合った人物に首を傾げる。
「どうするんでしょう…」
「こっちが聞いてるんですけどね…」
呆れたみたいに溜息をついた人物を、私はもちろん知っていた。スパイクジムの元ジムリーダー、ネズさんだ。
なんでネズさんがここに?と疑問を抱きつつも、確かにさっきまで悪タイプ使いの人間と一緒にいた覚えがあるので、何もおかしくはないのかもしれない。それよりもおかしいのは、私の記憶が微妙に飛んでいる事だった。
いやそもそも、ここはどこなんだよ?
私は辺りを見回し、全く知らない場所にいる事を不審に思う他ない。レストランと思わしき光景であったが、こんな高級そうなところにニートがいるなんて場違いすぎるし、大体ネズさんと私とレストランという三者三様の取り合わせも、かなりのカオスを生み出していた。
似合わなすぎる。無職と奇抜なシンガーが格調高いレストランで向かい合うって何?事故か?
何だか不可解かつ壮大な力が働いている気がする…。珍しく勘を冴え渡らせながら全てを疑い、しかしムシャーナの強力な催眠術が、私の思考力を停滞させた。
まぁよくわからないけど…相手はネズさんだし、別にいいか。見た目はやばいが面倒見がよく常識的なネズである。彼と一緒ならそうおかしな状況でもないだろう。残念ながらいつもおかしな状況になっていることを忘れるレイコであった。
雰囲気的に食事は終わった様子で、白い皿が複数枚置かれている。無造作に並んだフォークとナイフを見下ろしながら、状況から見て、このあとどうする?って話だろうか…と考えを巡らせ、私は唸った。
そもそもここがどこかわかんないからどうするもこうするもないんだよな…。ネズの口振りからして、少なくともスパイクタウンではないらしい。わざわざ部屋取ってあるっぽいからさ。
ベトナムとかでないなら適当にやり過ごせるとは思うが…どうなんだろう。
夜も深まる時刻、お開きの気配に言い渋っていると、ネズの方から進言があった。
「満室みたいですから、君が泊まるなら譲るよ」
「…え!?」
突然の優しさを見せつけられ、私はいろいろと困惑した。
優しくされ慣れていない事への戸惑いや、ネズみたいな見た目の奴が実は優しいというギャップ、そして優しくされる謂れがなさすぎるニートの自分…などが渦巻き、私は首を左右に振る。
いや…譲るって何?部屋を?お前が取った部屋をか?そんなん普通に泊まりなよ自分で。
確かに謎に記憶喪失なこの状況で、宿があるのとないのとでは不安度が全く違うだろう。ぼんやりした意識に戸惑いながら、見知らぬ土地で立ち往生する危険は私にも理解できる。
でもネズさんみたいな目立ちまくりのアーティストがこんな夜更けにホテルを捨てて歩いてたら、ファンです!サインください!って声かけられまくっちゃうでしょうが。厄介な信者に絡まれたらどうする?ぱるるみたいな塩対応がお前にできるのか?
私は心配した。そしてホテルが満室になるようなこの土地は一体どこなんだと思わずにはいられない。東京五輪だったりしないよね?残念ながら夢の中である事にレイコは気付かない。
「いや…それは悪いですよ」
当然のように恐縮し、私は首を振った。するとネズも首を振り、責任感を滲ませる。
「チャンピオンを放り出すのも後味悪いんですよ」
単純にいい奴だな。その罪悪感が人間性の良さを表してる事を世界中に教えてやりてぇよ。
兄属性ゆえか、私を夜の街に置いていく事に抵抗があるらしいネズを、素直に有り難いと思った。優しさってきっとネズさんの姿をしてるんだろうな…なんて詩的な事を思い、しかし親しい人を心配する心ならば、私も持ち合わせている。
ただでさえネズさんにはお世話になったんだ、いやなってる気がするんだ、好意に甘えるばかりではいけないだろう。ニートの中にも真っ当な人間がいる事を示すためにも、私はしっかりノーを突きつける。
「私なら全然その辺でキャンプしますし」
「寒いのに?」
そう言われた時、ネズの肩越しに光るガラスが、白い何かを映し出した。遠くの景色に雪山が見え、その辺りに降り注ぐ小さな粒の正体に、私はようやく気付く。
雪だ。この地方で雪が降る場所は決まってる。あの辺に積雪があり、この都会的な夜景が見える位置ということは…。
シュートシティか、ここ。
つまり街を一歩出たら、粉雪粒雪綿雪ザラメ雪である。
津軽には七つの雪が降るって新沼謙治が言ってたけど、シュートシティの外も似たようなものなので、私は意図せず津軽恋女と化してしまう。いくらワイルドエリア徘徊ニートとはいえ、雪の積もる中でテントを張るのは躊躇われた。
マジかよ〜普通に怠いわ外出るの。確かにここがシュートシティなら、有名選手の試合があるためにホテルが満室になってしまう事は有り得る。ポケモンセンターもまた然りだろうな。
それは確かに困った…と私は腕を組み、時間ばかり経過していく事に焦りを募らせた。
そうか…シュートシティの高級レストランにいるのか私達…ますます意味がわからないぜ…。わからないけど嘆いていても始まらないので、どうするべきか思考を巡らせる。
別にタクシー使ってもいいけど…夜は料金高いんだよな…。雪山野宿だってシロガネ山に比べたらマシだし、全然できるんだが、でも何故か…何故か心が渋ってしまう…!まるで大きな力に野宿を禁じられているような…そんな気がして…!
不可解な感情に悩む私だったが、ネズの心は決まっているみたいで、彼は躊躇いなく私に鍵を差し出した。
「どうぞ」
「いやいやいや…」
あなたがいい人なのはわかったから。むしろいい人であればあるほど私も胸が痛むからやめてよ。
建前でも何でもなく本当に部屋を譲ろうとするネズへ、私はもちろん抵抗した。そんな図々しい真似はできないし、そもそもちゃんと部屋を取ってなかった私が悪いんだからネズさんが気にする事じゃないんだよ。お互いに大人、肩書きや立場など関係なく、自分の責任は自分で取るべきだと私は思うね。優しくされると急にまともな事を言うレイコであった。
というわけで結構です、と私は鍵をネズの方へ押し返した。何とかするから大丈夫だし、ぶっちゃけネズさんの方が放り出したらやばい気がするじゃん。どっちが雪道でも平気そうですか?と渋谷区の若者百人にアンケートを取ったら、全員が私の方がマシだと言うと思うよ。それはそれで腹立つな。
情緒不安に陥りながらも、意志は変わらないので鍵を返せば、ネズもまた同じように鍵を動かした。しばらく押しつけ合い、とうとう痺れを切らしたのか、相手は私の手を握って、鍵を真ん中で立ち往生させる。意味深な沈黙が、私に緊張感を与えていた。
「…あんまり言いたくないんですがね」
手を重ねたまま、ネズは渋々といった様子でそう切り出した。一体何事かと身構え、真剣な顔を向けながら次の言葉を待つ。
「君は絶対気付かないだろうから言いますよ」
わかったからはよ言えや。
「俺もキャンプは嫌です」
無駄に溜めが長いネズに眉をひそめていると、周知の事実を告げられて、だろうな、と適当な相槌を打った。そんな事は誰でも知ってんだよって感じだった。
いやわかってるんですよねそれは。だからこういうやり取りになってんだろ?雪山キャンプは嫌だという共通認識があるからこそ、我々は互いに探り合い、譲り合い、気を遣い合って生きている。それが人間だからだ。
それを何故わざわざ強調したの?と首を傾げていると、さらにわかり切った事をネズは続ける。
「君を放り出すのも嫌です」
だからそれも聞いたっつってんだろ。そして私も同じ気持ちだよ!哀愁のネズを放り出して遭難のネズにしたくない、その一心でこのやり取りが生まれてんじゃん!
「だから…」
今さらな事ばかり言うネズが、何を言い渋っているのかさっぱりわからず、私はキョトンとするばかりだ。こんなに回りくどい性格の人ではなかったはずなのに、どうしてさっさと言い捨てないんだ?私が鈍感夢主なの把握してるよな?
把握されてる事もそれはそれで微妙だが、人は急に敏感になれないので、察しの悪い顔で相手を見つめる他ない。するとネズは何故か参ったように溜息をつき、頭を掻いて俯く。
「そういう顔をされると本当に…」
どういう顔やねん。社会経験のない顔か?
「まぁ…察してもらおうっていうのも虫がいい話ですけど」
だから何なんだよ!はよ言え!こっちは生粋の短気だぞ!ムスカより待てない人間だという事を思い知らせてやろうか!?
焦らしを展開するネズに、私のモヤモヤはピークであった。キレ散らかしそうになる寸前でとどまり、待てをされた犬の表情で真っ直ぐネズを凝視する。
そんなに言いづらいなら逆に言わなくてもいいですけど?的な態度さえ取り始めた私であったが、それはムシャーナが許さなかった。トップギアに入った催眠術は私に強めの幻覚を見せ、とうとうネズに確信的な言葉を喋らせる。
「俺が来た時はまだいくつか空きがありましたよ」
「そうなの?」
「でも一部屋しか取らなかった」
そこは気を利かせてくれよ、と図々しい発言をしかけたところで、夢小説展開が私に牙を剥いた。ネズさんは徐々に詰めてきていたみたいだが、私は天下の鈍感夢主である、気付いているはずもないので、全てを突然に感じてしまうのだった。
「君を誘おうと思ったからですよ」
「どこに?」
間髪入れず尋ねた私に、ネズは顔をしかめた。これだから鈍感夢主は…みたいな顔で沈黙され、質問に答えず白い目を向ける。自分だけ理解が及んでいない状況に、私は一人冷や汗をかいた。
え?ど、どこに…!?
再び疑問を投げかけ、私は頭を抱えた。呆れ気味のネズはどう見ても教えてくれる気配がなく、自分で考えろと言わんばかりの態度だから、完全に詰みゲーの気配がする。
え〜?どういうこと?一回整理していいか?
私は古畑任三郎のポーズで真顔になり、話の脈絡を意識して考えた。
まずお互いにキャンプは嫌でしょ、だからネズさんはあらかじめ部屋を取っていた…。私の分も取ってくれたらよかったのにそうしなかったのは、私をどこかへ誘うつもりがあったかららしい。
いやどこなんだよそれは。ヒントがなさすぎるわ。鈍感夢主なめてんのかよ?
私は自らの勘の悪さを棚に上げ、謎かけをしてくるネズっちに唸る。
はー?わからん。ホテルの部屋の代わりってことは…寝泊まりできる場所に誘おうとしてたってことか?それはつまりホテルなんじゃないか?ホテルの代わりにホテル…私の部屋の代わりに別の部屋…空いてたのに取ったのは一部屋だけ…ここから導き出される事とは…一体…。
そこまで考えた瞬間、私は覚醒した。正確には催眠術で意識を操作されたに過ぎないが、それでも革命が起きるには充分すぎる力であった。
突然敏感夢主レイコとしての人格が目覚めた私は、信じ難い事態を咀嚼できなくて、思わず大きな声で尋ねてしまう。
「どこに!?部屋に!?」
お前の部屋にってこと!?と二度見をした私は、ネズが、まさか!と首を振るのを待った。
冗談じゃないです、なんて言いながら溜息をつく姿が想像でき、私も自分で言いながら、さすがに有り得ねぇわ、と自嘲する。
いや無いな。いくらチャンピオンといえど調子に乗るなよクソニート。確かに私は今をときめくニューチャンプだが、だからってネズさんに部屋に誘われるようなビッグスターではないのでね。彼ほどのまともさがあったら、ビッグニートなんて地雷女と一つ屋根の下で過ごすリスクは絶対に避けたいところだろう。普通に居座られてヒモと化しそうだし。うるせぇな。
ヤドカリ寄生ニートの迷推理は、当然ハズレだと私は選択肢から除外した。なら一体何が正解なんだ…と再び考え直す私だったが、不意に手をきつく握られ、ネズの瞳を真っ直ぐ受け止める。この時、そういえば彼は否定しなかった、と思い出して、まさかの展開があるかもしれないと息を飲んだ。
「選んでもらえますか」
…え?マジなの?
真剣なネズの眼差しに、私は面食らった。手を引っ込めようと思った時には遅く、指がルームキーの形を覚えてしまいそうなほど、強くネズに覆われる。
なんだか熱い。めっちゃ体温低そうなのに。
「…君がキャンプしますか?俺がキャンプしますか?」
究極の二択を迫られ、私は心臓が爆音を奏でていくのを感じた。ネズさんは耳がいいから聞こえてるかもしれないと思ったら、羞恥心でどうにかなりそうになる。面倒見の良い人だなぁと思っていた相手を意識させられるのは、異様な緊張感があった。
な、何この感情…。さっきから妙に焦らしてくるネズの意図をようやく察した私は、地獄の二択の裏に迫るもう一択を悟っているので、どちらも選ぶ事ができない。むしろキャンプする意思がどんどん薄れていき、どっちも嫌だな…と強烈に感じる始末だった。
ど、どういう事なんだ…。さっきまでは、まぁ野宿には慣れてるしシロガネ山でキャンプした私に死角はないでしょ、くらいの気持ちだったというのに、ネズの誘いを受けた瞬間からなんか…冷たい床で寝たくない感情がでかくなっている…!何故…!まるで私がネズさんと柔らかなベッドで眠りたいみたいな…大いなる力にそう思わされているみたいな…そんな錯覚を覚えるんだけど…!
何かがおかしい…と思いつつ、敏感夢主と化した私にネズは容赦なく熱視線を送ってきて、気持ちがさらに傾いた。三択目に頷いたら気まずくてマリィと顔合わせられねぇよ、と思うのに、私の手は熱くなる一方である。
そしてとうとうキャンプ以外を示唆され、私は握りしめた鍵をどうするか、決めなくてはならないところに立たされるのだった。
「それとも…」
この時、一つ誤算があった。先の展開を決定するのは自分だと思っていたけれど、ネズから鍵を素直に受け取らなかった時点で、私の退路は断たれていたのだということに。
選択権を与えているように見えて、ネズが手を離す気配はなかった。そもそも、このあとどうするか聞いてきた時から、彼の中では未来が決まっていたのかもしれない。たまらず息を飲んで、私は右手に視線を落とした。
「…手を離してから…決めてもいいですか?」
苦笑まじりに尋ねると、逆にネズはさらに強く手を押さえた。悪タイプらしい慈悲のなさだった。
「ネズにはアンコールはないですからね」
身を乗り出して顔を近づけたネズは、はいを選ぶまで話が進まないドラゴンクエストのような迫力で私に言い放つ。普通にいい人だと思っていたけれど、そういえばアンコールはないんだった。歌も、技も、ポケモンも、そして部屋を譲るのも、一度きりなのだった。
「二回も誘うような真似はしねぇんですよ」
どうやら、もう今日はテントを張る事はないらしい。それを後押しするように、雪は激しさを増していくのであった。