Non-REM stage V

「あーあ…砂嵐になったりしねぇかな」

雪降ってんだからなるわけないだろ、とマジレスしかけた私は、正面を見て言葉を詰まらせた。やけに座高が高い男の姿に、あれ?と大きく首を傾げる。
さっきまで猫背のミュージシャンと一緒だった記憶があるのだが、それは気のせいだったんだろうか。そういやなんか気のせいのような気がしてきた。めっちゃ気のせいな気もしてきた。絶対気のせいだな。確かにエヴァンゲリオン級の長身の男と一緒にいたわ。時が経つほどにそう確信し、ムシャーナに記憶を改竄されている私は、現状に疑問を抱かなくなっていく。

「そしたら帰れなくなるだろ?」

どうやら帰りたくないらしい彼は、ナックルシティのジムリーダー、キバナさんだ。子供のような無茶を言う彼と、一体どうしてこんなところにいるのかわからず、そもそもここがどこかも思い出せないから、そんなに帰りたくない場所なのか?と眉をひそめる。もしかして…ユニバーサルスタジオジャパン…?
しかし、見た感じ普通の高級レストランである。ジョーズ一匹見当たらない空間で、なんで私みたいなクソニートがスーパーキバナ様と一緒なんだろう。この新型コロナで自粛ムードなご時世に…。微塵もわからないけど、自然な流れでそうなった気もし、深く考えるのはやめにしておいた。
まぁ…たまにはそういう日もあるだろ。疲れからか、ムシャーナも段々とただ強めの幻覚を見せるだけになりつつあった。真面目にやれ。

私は快晴の夜空を見ながら、砂嵐どころか風さえ吹きそうにない爽やかな景色に苦笑する。別に帰りたくないなら帰らなきゃいいだけの事なのに、不可抗力に頼りたくなる理由がわからず、そして帰りたいならどんな悪天候でも帰る派の私は、帰宅への執着の違いを見せつけ、全ての決定権は天気ではなく己にあるのだという事をキバナに知らしめた。

「別に砂嵐でも帰れますよ」
「じゃあすごい砂嵐」

どうやら何としても悪天候を理由にしたいらしい。そもそもなんで帰りたくないのかがわからない。見たところ食事も終わった雰囲気だし、長居したくなるような場所ではなかった。だって場違いすぎるだろどう考えても。ニートだぞこっちは。
まぁキバナクラスになれば高級レストランも庭同然かもしれないが…と身分の違いを痛感する私は、庭ならばいつでも来れるじゃんと無邪気に考え、それを口にした。

「また来ればいいじゃないですか」

言ったあとで、でもキバナさん忙しいから無理なのか…と思い至る。有名人だし、こんな場所に頻繁に出没するわけにもいかないって事だろう。チャンピオンになったというのに特に生活を変えていない私は、彼の忙しさを想像できず、失言した事を申し訳なく思った。
だからって飯食い終わったあとにだらだら過ごすには適さないだろここは。一秒も寛げねぇよ。早く帰らせてくれんか?
どこにいようといつでも帰りたい私は、今回も例に漏れず帰りたいので、支払いの行方に思いを馳せた。キバナさんの奢りなら何も気にする事はないけど、割り勘なら普通にやばいぜ。クレカの残高さえ怪しいニートだからなこっちは。
すでに帰宅一色となっている私だったが、キバナはまだ諦めていないらしい。微笑んで身を乗り出したかと思うと、すぐ真顔になってぎょっとした。どんな顔もイケメンだから眼福だけど、はっきり物を言われたら、それはそれで怯む。でかいし。

「嫌だ」

シンプルな拒否に、私は面食らった。さっきまでのはかなりオブラートに包んだ帰宅拒否だったと気付かされ、そんな彼に全日本早く帰りたい協会員である事をアピールし続けていた事に苦笑する他ない。
すまん。常に帰りたくて申し訳ない。だってニートだからしょうがないでしょ!家にいても帰りたい時あるしね!なんでだよ。
何がしょうがないかは知らないが、公園から帰りたがらない子供のように頑ななキバナに反応できず、私は黙って首を傾げる。すると彼は呆れを含んだ表情で微笑み、こちらを真っ直ぐ見据えた。

「お前ふらっとどっかに行っちまいそうだしな」

一瞬ニートバレしたかと思って、私は石化した。今すぐにでもカントーに帰りたがっている事を悟った…?とキバナの観察眼に慄いたが、そういうわけでもなかったらしい。

「今夜しかねぇ」

謎に決意めいた様子を見て、私は息を飲む。この時、帰りたくないというよりは、私を帰したくないと言ってるように思えて、そんな自分を叱責した。
なに勘違いしてんだ喪女ニートよ?キバナさんみたいな陽キャが私のような陰キャと朝までスマブラしたがるわけないだろ。この時間がいつまでも続けばいい…的な青春の日々を共に過ごした友達じゃあるまいし、ぶっちゃけ親しくもねぇ。そんな相手と何故高級レストランでディナーなんだ?何かがおかしいんじゃないか?
疑問を抱き始めた瞬間、ムシャーナの催眠術はさらに強さを増し、過激な展開を演出した。ぼーっとしている間にキバナから鍵を差し出され、ルームキーだと気付いた時には、誤魔化せないラインまで来てしまった事を察する。

「受け取れよ、レイコ」

飴をくれる大阪のおばちゃんくらいのノリで渡されたが、どう考えてもそんなに軽い代物ではない。だって部屋の鍵だぞ、ホテルの部屋の鍵だ。いつもの私なら、これが何を意味するのかさっぱりわからず、キバナさんがホテル代払ってくれたんだラッキー、とか言って一人で部屋に泊まろうとしたに違いない。
しかし今日の私は冴えていた。もちろん催眠術のせいだとは気付かないままである。

帰りたくないキバナ、今夜しかないと言ったキバナ、何だか私を帰したくない様子のキバナ…そんな彼が鍵を渡してきたという事は、今夜私を帰さず朝まで一緒に部屋にいたいと直訳して差し支えないだろう。
ホテルで大人の男女が二人きり…する事はわかっている。

大乱闘スマッシュブラザーズ…ですね?
なんて言うわけないだろ。今だけ敏感夢主だぞ!

「受け取ったら…どうなるんですか?」

しかし一応保険のため、意思確認はしっかりしておこうと相手に尋ねた。勘違いしてたら恥ずかしいからな、敏感夢主っていうか自意識過剰夢主になってしまうし、ジムチャレンジ最大の刺客であるキバナ相手に失態は犯したくない。世間体を気にするニートであった。
息を飲みながら返事を待っていると、意外にもキバナは笑顔を見せ、緊張感に支配される私を驚かせた。もしかして本当に、朝まで麻雀に決まってんだろ!的な展開なんだろうか…と硬直が解かれる。
でもこのご時世に雀荘はまずいですよキバナさん!と元気よく指摘する準備を整えたところで、相手から動きがあった。さすがにそんな辞任不可避な真似をするほど冒険者ではなかったみたいだが、濃厚接触という目的は変わらないらしい。
鍵を私の方へ追いやりながら、それでも受け取らずにいると、強く手を握られる。突然のことに驚いてしまって、一切反応できなかった。そのまま腕を引っ張ったキバナは、強引に鍵を持たせた上に、ソーシャルディスタンスガン無視で距離を詰めてくる。どの角度から見てもイケメンだなぁ、などと思う余裕はなかった。いつもの私なら思ってただろうけど、今日は私もキバナも、いつもと全然違うのであった。

「キスしちゃうかもな!」

露骨なアプローチに、私はマジで面食らった。予想してなさすぎて赤面すらしてしまい、握られた手が熱くなるのを感じる。全然麻雀もスマブラも関係なかったわ。本当にそういう意味だと知らしめられ、近すぎる距離が現実味を生む。

…え、いや…マジか?本気で言ってんのか?ジャニーズ事務所だったら退所案件だぞ。自粛ムード漂う中で私のようなニートをホテルに誘うなんて、コロナじゃなく別のウイルスに頭をやられてしまったのでは?
私はキバナの正気を疑い、そして秒で拒絶できなかった自分の正気も疑った。そんなの駄目ですよ、と言えないまま彼が、冗談だよ、と言ってくれるのを待つ。
だって有り得ないでしょ。何もかもが有り得ないな。有り得なさすぎて大いなる力が働いているような気がしてきたし。
真実に辿り着きそうになった時、催眠術は勢いを増すものである。さすがに手を払おうとしたところで、私の体は動かなくなった。キバナの体温が上がっていくのを感じると、私も何だか熱くなり、つい鍵を強く握りしめる。

「受け取るだろ?」

イケメン圧に気圧された私は、何も反応できず息を飲んだ。そうこうしている間にキバナは反対の手で私の頬をなぞり、口の端まで持っていく。少しずつ近付いてくる顔は気のせいではないみたいだ。本当に本気なんだろうか、と疑うほどに、何故か確かめたい気持ちになっていって、相手の心を推し量る。
キバナさんのような人間国宝級のグッドルッキングガイに言い寄られて、何も感じない者はいないだろう。余程の悟りを開いた神か御仏以外有り得ねぇ。もちろん私はただのニートなので、揺れる気持ちを抱えながら、どうするべきか決めあぐねる。
すると、決めかねている私に代わってキバナが勝手に決めてきたので、さらに顔が近付く事となった。

「受け取ったな」
「えっ」

どう考えても無理矢理に受け取らせたと思うのだが、キバナの解釈は違ったようだ。
手の中で熱くなっていく鍵を離すこともできず、私は俯く。受け取ってねぇよ、とは何故か言えなかった。
有無を言わさぬキバナの圧に思わず仰反ると、手を引かれて舞い戻る。顎を掴まれ、いよいよゼロ距離になっちまう!と身構えた。
受け取ったらどうなるか聞いてしまった私は、当然そういう展開になると考え、もはやテンパってもどうしようもないから、その時になったら考えようと流れに全てを任せた。何故かそうしなくてはならないような気がするんだけど…これは大いなる力が働いているからなのか…それとも私がやぶさかではない気分なのか…段々わからなくなってきたぜ。考える時間もないしもはや何でもいいわ。思考の停止に甘んじてしまうレイコであった。

きつく目を閉じて衝撃に備える私だったが、しかし想像していた感触はいつまで経っても訪れず、疑問に思って薄目を開ける。
やっぱり勘違いだったか?とわずかな安堵を含んで正面を見ると、キバナは距離を保ったまま止まっていたため、それはそれで驚いた。てっきり離れて、なに期待してんだよ!と茶化してくるかと思っていたのに、何だか表情も硬い。

どういう事だよ。結局何なの?どうなの?どうするのが正解なんだ?まさか千と千尋の神隠しみたいに、この中にお父さんとお母さんはいない…という正解が存在しないパターンだったりするのかよ?
そんなの無理ゲーですと匙を投げた私は、やっぱニートがイケメンとどうこうなるってのがそもそもおかしいよな、と真実に気付き、距離を取ろうとした。もしかして酔ってんの?と不意にグラスを見る。さっきから変なテンションなのはアルコールのせいなのかもしれない。だとしたら全てに納得がいくというのに、どう見ても中身はアルプスの山脈からやってきた清らかな水なので、ますますわけがわからなくなった。
完全に素面だ。どうしちまったんだキバナさん。喪女をからかうのはやめてくれよ。それともやはり新型コロナどころじゃない危険なウイルスにやられてるんじゃないか?
もちろん冗談だったが、病という点はわりと当たっていた。砂嵐も起きないしお開きですね、と全日本帰りたい協会員である事をアピールした私を、キバナは再び引き寄せた。これ以上惑わされてたまるか、と思うのに、今度はやけに真剣な顔つきでこちらを見つめている。わずかに赤い頬を見ていると、私まで熱くなってきた。一体どういう事なんだ。何なんだ本当に。

「…本当にしちゃうぜ?」

顔を近付けたキバナに、またからかわれてると思ったので、今度は目を開けて相手を待ち構えた。どうせ冗談だろ、と呆れすら抱いていたのだが、いつまで経ってもキバナは離れて行かないどころか、ますます距離を詰めてくる。鼻先が触れ合った時は、さすがに私の方から身を引いた。近ぇよ、と言う間もなかった。

「受け取っただろ、鍵」
「だから…これは…」

お前が手を押さえてるから返せないんだ、とクレームをつけられなかったのは、喋ると触れ合ってしまう距離だったからである。それでも手を払わない私に、自分でも困惑しつつ、また目を閉じてしまった。
完全に暗転した視界は、そのまま意識も奪っていき、結局鍵を受け取った先にどうなったのか、私は知らないままである。唯一真実を知るムシャーナは、何も語らず催眠術を繰り出して、次なる夢に私を導くのだった。