あー胸糞悪い。胸糞悪いってこういう気分の時に使うんだな。レイコは賢さが1上がった。
ライモンのジムリーダーがきれいな姉ちゃんだった事には大変満足だったが、Nとの観覧車事件を思い出すたびにもやもやが募るばかりの私、ポケモンニートのレイコは、カミツレさんの美しさをもってしても異次元すぎた観覧車地獄の記憶を消せそうになく、こうなったら上書きをはかろうと一人奮起していた。
二人でなくては乗れないという喪女殺しシステムは絶許って感じだけど、今回ばかりは光明が差している。つまり一緒に乗ってくれる相手の見当がついているという話だ。山男のナツミじゃねーよ。

電波王と雑なバトルを終えたあと、私はすぐにジムへ挑戦していた。とにかく気分を変えたかったのだ。
しかし、ジェットコースターで風を浴びても爽快感は得られず、ジム戦もぼーっとしてる間に終わっていたという全体的に失礼極まりない事態だったので、なんかもう散々だった。
ボルトバッジの説明とか何にも聞いてなかったわ。もういっそレベル100までの電波が私の言う事を聞くバッジくれよ。ご主人様ぺろぺろって感じのやつだよ。いややっぱりいいわ、妙なこと言ってすまなかったな。

寝ても覚めてもNへの憤りが覚めない私は、因縁の観覧車を見上げ、どうか取り壊しになりますように…と念を送る。
あいつのせいでプラズマ団は逃がすし、観覧車はトラウマになるし、入ろうと思ったレストランは混雑してるし、肌も荒れるし、原付のガソリンはなくなるし…完全に大事故ですよ。おのれディケイド状態。後半は微塵も関係ないが、とにかく箸が転んでもNが憎い年頃なのだった。そして思い至ったのである。記憶を消そうと。上書き保存でなかった事にするしかねぇんだよ。
その相手に選ばれたのは、綾鷹、ではなく。

「すみません、遅くなりました」

観覧車近くのベンチに座って、そよ風を受けながら図鑑を見つめる美しい私に声を掛ける少年が一人。彼の名はそう、今作の癒し、ガリ勉メガネのチェレンである。
私は立ち上がり、軽く手をあげながら図鑑を閉じた。

「こっちこそ悪かったね、いきなり呼び出して」
「いえ…ちょうどジム戦も終わったし」

低姿勢で声を掛ければ、チェレンはさっき私も貰った4つ目のバッジを見せてくれて、ボルトバッジってそんな形してたんだ…と今さらになって思うほど、自分がどれほど廃人状態に陥っていたかを悟った。こんな無反応のキョンシー相手にもテンション高々に戦ってくれたカミツレ氏、マジでプロだったんだな。クラクラしちゃう。今さら遅い。

今回のジム攻略は私の方が早かったな、と子供相手にマジで張り合うおとなげない自分はさておいて、本題に移るべく私はチェレンに向かって一つ咳払いをし、わざとらしく観覧車に視線を向けた。
そう、ライモンに来た時から必ず成し遂げようと思っていた事が私には一つだけある。それはざっくり言うと遊び倒す事だ。遊園地で。ぼっちではない状況で。そして若い男児と同伴という条件で。来るなよアグネス。
私のようなクソニートは日々引きこもっているし、親も引きこもりみたいなもんだし、幼い頃からろくに遊びに連れて行ってもらった覚えもなければ、自らどこかへ行きたいと思った事もない、とにかく出不精の自宅警備だ。しかしこのライモンシティの都会っぷり、遊園地の盛況っぷりを見せつけられて黙って立ち去れるほどね、私の青春は枯れちゃいねぇんだよ。別にチェレンの事をトラウマ消しゴムだなんて思ってないから。君と親睦を深めたかった、それだけは信じてほしい。嘘松。

ただお遊びに付き合ってもらうためだけに呼び出されたチェレンからしてみれば迷惑な話かもしれないけど、先輩の言う事には逆らわない方が身のためだぞという恐喝の視線を送り、私は強気な態度に出た。
お前…わかってるよな?私…元チャンピオンだからな?四大陸制覇の。何気なく喋ってるけど相当すごいぞ。あのワタルも、あのダイゴも、あのシロナさえ私には屈したんだ。逆らったらどうなるか…わかるよね?定年退職まで…何事もなく過ごしたいよね?
脅迫がガチすぎるので口には出さなかったが、断られたら悲しいので、私は何か深い事でも考えていそうな顔を作り、チェレンを観覧車の前まで連れて行く。折り入って話がある…みたいな私の表情には、彼も黙って従っていた。何もないけど。すまん。
本当のことを言って断られるくらいだったら…N同様、いっそ無理矢理相手を乗車させる作戦でいきたいくらいだよ。心の弱い私は、自らが受けたトラウマを別の相手に強いるというクズっぷりを披露したが、さすがに挙動不審な様子に気付かないチェレンではなく、目を細めてこちらを一瞥したあと、怪訝そうな顔で観覧車を見上げた。やめろやそのあからさまに引いてる顔。結構傷付く。

「…もしかして、呼び出したのってあれに乗るため?」

完全に想定外といった声色だ。まさか忙しいこの僕をこんなものに乗せるつもりじゃありませんよね?って感じの。うるせぇ!黙って乗れ!お前に拒否されたらもう山男のナツミしか相手がいねぇんだよ!Nの思い出を上書きできるならもはや何だっていい、クソミソだって阿部高和だっていい、乗らないか、この一言だけあればいいんだ!
バレちまったらしょうがねぇな…とチェレンの肩に手を置き、トラウマイレイザーの件は隠して、私は素直に肯定した。

「まぁたまには息抜きも必要という事で…一回だけ一緒に乗ってくれたら解放するから」
「あ、いや…別に乗りたくないわけじゃ…」

いい大人が観覧車に乗りたがるという事がどれだけの恥であるか察してくれたチェレンは、そう言って私を気遣った。そしてきっと同情もされたと思う。憐れむようなチェレンの眼差しに居たたまれなくなり、同情するなら乗ってくれ、と背中を押した。私がもう二度と、エヴァに乗らなくて済むように。頼んだよチェレ波。

何にしても、乗りたくないわけではないという返答はもらえたのだ、となれば早速思い出の上書きである。
二度目の搭乗を果たし、ちゃんと今度は教科書通りに向かい合って座った。これが正しい観覧車の乗り方だからね。隣に座るだなんて…もしかしてNは…乗り方を知らなかった可能性が微レ存…?どう考えても最初に隣に座ったのは私の方であったのに記憶の改竄が行われているから、早々に消しゴムの成果が出始めていると感じる。このまま一気に忘れよう。忘れられるなら何発か頭を殴ってくれてもいいし。これ以上馬鹿になってどうするつもりかな?
見事目的を果たせた私であったが、ここですぐに大きな壁にぶち当たる事となり、遠ざかる景色を見ながら、軽く絶望の気配を感じている。

意気込んだはいいけど、正直ないよね、会話が。
しくじった…。自らがコミュ障である事をすっかり忘れていた私は、この何とも言えない気まずい空気に、これはこれでトラウマを覚えそうで戦慄している。
何故後先考えずに乗った?こんな事なら逆に山男のナツミの方がよかったような気もするんだけど。逃れようのない密室、先程Nと乗り込んだ時と全く同じ状況に、もはや自らトラウマを作りに行ってるとしか思えなくなって私は閉口した。言葉もねぇわ。
所詮、吾輩はニートである。人生経験も友達も少ない、日々ネットに匿名で書き込む事しかできないどうしようもないクズだ。もう社会のゴミだし、塵だし、空気の無駄。生きる価値なしの無職である。
しかし自ら誘った手前、ここは私から話題を提供するのが筋というものだろう。それが大人の責任。ニートだからって、いつまでも逃げてちゃ駄目なんだ!威厳を保つためにも!
ネタを探さなくては…と私は窓の外に広がる景色に必死で目を凝らす。

当たり前の事なのだが、Nと乗った時と全く同じ景色しか見えなかった事に、微妙な心境はより複雑化していく。頂上に近付くにつれ、握られた手の感触などが蘇ってくる。やっぱ葉月珪じゃないと心の傷は癒えないんだろうか…と途方に暮れてしまい、ぽつりと口を開いた。

「…この観覧車って二人じゃないと乗れないんだってさ」
「そうなんですか?」
「リア充仕様だよね…」

爆発すればいいのに…。鼻で笑い、様々な感情が混在している私は、結局景色を見る以外のすべてを諦めた。
無理だ。世間話の一つや二つ華麗にこなしたいところだけど、何をやってもNへの腹立たしさも憎たらしさも変わらない気がするし、奴がプラズマ団の王様だっていう謎の事実も変わらねぇ。もう駄目だ私は…すまんチェレン…重い沈黙に耐えられるような強い大人になってくれ…私からは以上だ。
自分で誘ったくせに無言を貫き通すという暴挙に出る私を、優しいチェレンは責めもせず、共に流れていく景色に視線を向けていた。やがて頂上に差し掛かり、王様宣言を思い出しかけた私を、絶妙なタイミングで呼ぶ。

「レイコさん」

静かな声に振り返り、目を合わせれば、何だか勘ぐったような顔でチェレンはこちらを見つめていた。そして核心的な言葉を放ち、私を狼狽えさせるのであった。

「何かあったんですか?」

そのアホ毛はトラウマ感知レーダーなのかな?
しっかり言い当てられてしまい、私は露骨に驚いて震える。そりゃあいい歳した女が観覧車に乗りたいの…なんて言ってきたら普通に勘繰るわな。私だってアララギ博士に誘われたら結構びびると思うし。まぁ…と適当に答え、何から説明したらいいのか、というか説明していいのかもわからず頭を抱えた。
何かあったのかと聞かれれば、もちろんいろいろある。観覧車トラウマ騒動からのNとのバトル、アララギとNの打ち合わせしたかのような言葉、異国に飛ばされたストレス、ニートロス、その他諸々のせいで私の精神は相当やさぐれつつあったので、これまでの事を振り返るとどんどん気分は落ち込んでいった。それこそ、いたいけな少年につい愚痴ってしまうくらいには。

「…何かよくわかんないんだけど、どこに行ってもいろんな事に巻き込まれてる気がするんだよね。今回のNにしてもそうだし、結構プラズマ団にも出くわすし…」

主人公だからしょうがないんだけど…と生まれの不幸を呪いながら、大きな溜息をついた。
ベテラントレーナーの私から愚痴など聞きたくなかったかもしれないが、大人になるってこういう事なんだよ、チェレン。何も知らない子供の頃は、どれだけ周りが気を遣ってくださっていたか…今になって痛感するね。その点私を見てよ。子供相手に愚痴を吐き出す無様な姿を。逆に気遣わせてんじゃねーか。
不甲斐なさに目頭を熱くさせている私は、記憶の上書きどころかこれからトラウマの上塗りをされてしまう事に、まだ気付いていなかった。

「それは…レイコさんが強いからですよ」

真顔で言い放ったチェレンに、私はゆっくりと首を傾げた。そんなの当たり前でしょ、とでも言いたげな声色に、心臓が凄まじい音を立て始める。

強い…から…とは?

確かに…私は強い。せやな、と相槌を打ち、しかしそれがどうして不審者と絡み合う事と関係あるのか、私には全く理解できない。
おっしゃる通り私は強いよ。私はっていうか私のポケモンが強い。大体初期から強いんだ。だからみんなが思ってるような方法で強さを手に入れたわけじゃないんだ。
シロガネ山で雪にまみれながら野生のポケモンとレスリングしたわけでもなければ、亀の甲羅背負ってクリリンと大岩を動かしたりもしてないし、ヘルクライムピラー登ってシーザーに助けられたりもしていない。普通に、ただただ普通に生きていたら、自然にいつの間にかこうなった。それだけである。つまり実力と認識にギャップがあるんだろうな。私は平凡なクソニートのつもりだが、周りはそうは思ってくれないので、悪目立ちして騒動が寄ってきちゃうんだ。
でもさぁ〜!と駄々をこねたい私は、強い奴に何でもかんでも押し付けるのは良くないですよね!?とチェレンに同意を求めようとする。しかし想像していた以上に、強さが絡むとチェレン少年はシビアになる事が発覚してしまった。
言い放たれた台詞には、Nに王様宣言された時よりも、深く刺さるものがあった。

「強さを持ってるからには、それを使う義務がある」

その言葉に、私の中の後ろめたさは急速に跳ね上がる。
ふええ…と内心で全私が怯え始め、動揺で肩が震えたから、冷静になるべく深呼吸をした。瞬間、トラウマを上書きして消そうだなんて馬鹿な事を考えた自分を、本当に殴りたい衝動に駆られた。こっちの方が余程怖いじゃねーか。

前々から思っていたがチェレン、君は恐ろしい子だな!無いタマがヒュンするレベルだよ!
何の迷いもなく言い捨てられた言葉に、労働の義務を放棄している私は目も開けられない。不二先輩の顔でクローズドアイするばかりだ。
なんて事を言うんだこの子は。思った以上にこじらせていたらしいチェレンに、私は正直に恐怖を抱く。
強さとはこういうもの、勝者はこうあるべき、私はボランティアで図鑑を収集している立派な大人であるべき…みたいな、そういうイメージがあるの!?やめてよ!真逆なんだから!信じがたいプレッシャーに、私は今にも押し潰されそうである。
まぁそれも最もな事かもしれないけど、強さを役立てそこに喜びを見出す…っていう人間になれたらきっと幸せだと思う。でも私は違う!神様が振り分けを間違えたの!カビゴンの努力値を素早さに全振りしちゃったみたいな致命的なミスなの!ニートに強さを与えてしまった、神が私をそう作った!触れるもの皆壊れていく!私が欲しかったのはこんな力じゃない!そういう状態!だから困る!そんな事を言われたら!
強いなら力を使って当たり前、と思っているチェレンが、私に良くしてくれるのは、きっと私がボランティア精神に満ち満ちた人だと誤解しているからに違いない。もし人格クソ野郎だって知ってたら、最初から軽蔑の眼差しを向けていたはずだ。いよいよ背水の陣って感じで、私は窮地に立たされる。
やばい。ニートだってバレたら…やばいぞ。怯える私は様子見も兼ねて、チェレンに軽いジャブを打ってみる事にした。てめぇのそのふざけた幻想をぶち壊す!くらいの勢いがない事は察してほしい。

「私…君が思ってるような人間じゃないかもしれないよ」

ていうか、確実にそうだ。無職だ。

「そんな事ありません」
「何故」
「レイコさんが僕の期待を裏切るとは思えないから」

瞬間、零号機が投げたロンギヌスの槍が大気圏を通過するくらいのスピードで、私の胸に言葉という凶器が突き刺さった。
思わず胸を押さえて呻き、月の軌道に乗ってしまった槍へと思いを馳せる。
今のは…今のは刺さった…刺さったぞ…!軽い呼吸困難に陥って、杉下右京なみに震えが止まらない。何の疑いもなく言い切ったチェレンをまともに見る事ができず、私は戦慄した。
な…何を言ってるんだこの子は…?僕の期待を裏切るとは思えない、とは?そ、それは一体どういう意味で…?どんな私でも理解してくれる的な意味なのか、それとも僕の尊敬するトレーナーがニートなわけがない的な意味なのか。考えるまでもなく確実に後者なので、今にも卒倒しそうである。

怖い!冗談だろ!?私は口元を押さえ、ついに後ろめたさが頂点に達するのを感じた。
本当にやめてよ!あなたのそれは!無意識に私を追い詰めているってこと!理解した方がいいよ!マジで!まさかここまで重症だったとは…と冷や汗が止まらなくなり、早く地上についてくれ、と既視感を覚える祈りを捧げた。トラウマが渋滞しちゃってるよ。

この間会ったばかりの私に、ここまで信頼の念を置いている彼の心情がわからず、何と返事をしたらいいか悩みに悩んだ。
まぁ憧れの相手に理想の姿を求める気持ち、私にだってわからんでもない。わからんでもないが、あまりにも君の理想と私の実態がかけ離れすぎているから、つらいどころの話じゃなかった。とてもつらい。死にそうなほどつらい。
そして失望されたくないゲージが私の中でマックスとなり、何としてもニートとバレずにカントーに帰らねばならないと固く決意させるには、充分すぎる展開であった。

精神的ショックが大きすぎる…マジでどうしよう…ニートだって知ったら闇堕ちしちゃわないかな…ニコニコ大百科に闇堕ちしかけたけど立ち直った人として名が連ねられているチェレンである。何だか責任重大な気がして、胃に穴が開きそうだ。己の心の弱さを嘆く他ない。

こんな子供相手にさえニートである事を告白できないなんて…この精神力で果たしてこの先やっていけるのか?と私はさらに落ち込んでいく。
ニートとは…世間体も社会的地位もない、底辺中の底辺である。近所からは冷たい目で見られ、それまで培ってきた信頼を一度に失う、そういう生き物なのだ。チェレンの目を気にしているこんな未熟な心で、本当にニートになんてなれるのか。顔を上げて私は自らに誓う。
精神を鍛えるしかない。このイッシュで、私は決してひるまない精神力を築き上げる。もうこれしかない。失望されても構わないというほどに強い、強い精神を。心の強さを。意思の固さを持たなきゃならないんだ。
まさかこんな形で精神修行を開始するとは思わなかった私は、依然として頭を抱えたままだったけれど、目の前の少年は決して落ち着かせてなどくれない、非情な田舎者なのであった。

「レイコさん」

死ぬほど怯えている私は、チェレンの声にびくつきながら顔を上げる。唯一の救いは、観覧車がもうじき地上へ辿り着く事だった。
気まずい時間が終わって嬉しいはずなのに、何故か胸がざわついたのは、チェレンの目があまりにも真剣だったからかもしれない。

「僕と勝負してくれませんか」

来た、と私は息を飲んだ。
ついに来た。
いつか言われるんじゃないかと思っていたけど、まさか。今かよお前。すごい揺さぶりかけられて精神的に参ってる今ですか?本当に恐ろしいのは電波ではなく眼鏡の方であった可能性に、人選ミスを素直に認めた。私が愚かだった。謝るからもう許してほしい。
一瞬ブルって返答に迷ったけど、観覧車を降りるまでもう一刻の猶予もなかったので、私はほとんど反射的に口を開いてしまうのであった。

「…いいよ」

断る理由を考える気力さえなかった私は、蚊の鳴くような声で了承した。

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