フキヨセジムの前に立っていたのは、お待たせしましたストーカー奴、Nであった。
もう勘弁して…と雨なのか涙なのかわからない水滴を拭っていると、近付いてきたNに傘を差し出され、ナチュラルに相合傘のスタイルが完成する。風水〜頼む〜今すぐフキヨセを相性のいい方角にしてよ〜。
どう考えても鬼門な状態で、私とNは向かい合うはめになった。次から次へとやってくる不運に、もう心は挫けそうだ。

何でこんなところにいるんだよこいつ…!いや私を待ち伏せしてたんだろうけども!なんで?なにゆえですか!?私の何があなたをそうさせる!?犯罪者の思考などわかるはずもないので、雨に当たらないギリギリの位置まで距離を取り、相手の出方を窺った。
確かに、私は傘がなくて困っていた。困ってはいたけど、でもお前とこの絶妙な距離感を保つくらいだったら走って行くぜ!?覚悟して来てる人だから私!見くびらないでよ!
とはいえ雨に打たれたいはずもないから、限界まで傘に居座るレイコだった。意思弱。

「…分かり合うためと言い、トレーナーは勝負で争い、ポケモンを傷付け合う」

そんでまた語り出すしな。マジで何?金取ってもいいか?私はキャバクラじゃねぇんだよ。

「僕だけなのかな、それがとても苦しいのは」

こうなるともはや何を言っても語りを止めないので、私は早々に諦めた。もういいわ。人間砲弾で私の頭もぶっ飛んでるからよ。冷静になんてなれるわけがなかった。
こいつが喋ってる間に雨止んだらいいな…くらいの気持ちで構えていると、Nは歩き出したため、瞬時に雨に打たれた私は、慌てて傘に入りに行く。お前自分から入れたくせに置いていくなよ!何なんだよマジで!行動原理が紐解けねぇわ!
もうストレスが半端じゃない。Nの足がポケモンセンターの方へ向かっていなかったら、私はきっと彼を殴って傘を奪い逃亡していた事でしょう。方角が一緒なうちは野蛮な自分を封印し、やけに遅い歩幅に合わせた。女児なみの股下かお前は。

伏し目がちに呟いたNは、それ以降しばらく黙っており、私もようやく息をつく。
いつもいきなりとは言え、ポケモンが傷付く姿に胸を痛めていると思われる発言から、もしや私のジム戦を覗いていたのではと想像し、立ちくらみがした。人間砲弾で傷付いてる私にも胸を痛めてほしい限りであった。

まぁぶっ飛んだジムは置いといて、だ。それだとまるで世のトレーナーが心苦しく思ってないみたいな言い草だけど…そんなわけないだろ。水たまりを飛び越えながら、私は隣のNを睨むように見つめる。
別に嫌々戦わせてるわけじゃないし…戦いが嫌いなポケモンに無理強いする奴も中にはいるかもしれないけど、でもトレーナーもポケモンも勝負を楽しんでるのがほとんどだろうよ。これまで出会った戦闘狂共を脳裏に浮かべながら、懐かしい記憶に苦笑する。
とはいえ、どんなに楽しくても肉体にダメージを負うのはポケモンだけだ。トレーナーは高みの見物と思う部分もあるかもしれないが、でも何つーか…トレーナーの思いに応えたいっていうポケモンの…そういうあれがさぁ!あるじゃん!?傷付いてもいい、骨が折れてもいい、歩けなくなってもいい、やっと掴んだチャンスなんだ…!いいからテーピングだ!って吠えるゴリのような気持ちを尊重してやりたい湘北バスケ部の思いもわかるっしょ?わからないなら今すぐスラムダンクを読め。私がKindleで買ってやる。

本体持ってるか?と尋ねようとしたところで、Nが突然足を止めたものだから、私はまた傘からはみ出てしまった。二回目!とさすがに相手の肩を叩いたけど、Nはひるむ事なくマイペースさを貫いて、私を静かに見下ろす。半分諦めたような、でも何かを求めているような視線だった。

「まぁいい…またキミのポケモンと話をさせてもらうよ」
「は?」

そう言うと、Nは私に手を差し出した。わけがわからず硬直し、道の真ん中で立ち往生する相合傘を、通行人が怪訝そうな目で見ている。
話をさせてもらうよ、じゃねーよ。させてくださいだろうが電波野郎。生まれた時から上から目線のNに憤り、微動だにせず手を出し続ける相手へ、私は拳を振り上げそうになる。
なんだその無言の圧力は…!モンスターボール出せって事ですか!?話すから貸せって!?じゃそう言えや!何をすまし顔で待ってんだ!ベルを鳴らしたら何も言わずとも清涼飲料水が運ばれてくるとかそういう頭のおかしい金持ちみたいな生活でもしてるのかよ!あまりの腹立たしさに手が震えたが、私が暴力を振るえば逮捕は免れない…ここは一発ガツンと言ってくれ!とポケットからカビゴンのボールを取り出し、勢いよくNの手の上へ置いた。

上等じゃねーか。話したいなら好きなだけ話せよ。しかし今回の相手は付き合いの長いカビゴン…イケメン好きのカイリューみたいに楽しくお喋りできると思わないでちょうだい!
勝負、飯、睡眠の三択でしか生きていないカビゴンを託し、それでも余計なこと言わないでねと必死に祈りを捧げる。
頼むぞ…罵詈雑言でNをめちゃくちゃに罵ってくれ…それが無理ならせめてニートの事だけは黙っておいてほしい…切実に…!
素直にボールを出した私に満足したのか、Nは穏やかな表情で生い立ちのヒントを語り、私と視線を合わせた。

「僕は生まれた頃よりポケモンと暮らし育ったからね。人と話すより楽なんだ」

そんなもののけ姫みたいな。パヤオに映画化されそうな人生を軽く語ったNに、私は呆然としながらも適当な相槌を打った。
へー。なんか変だと思ってたけどこいつ、野生児に分類されるデリケート案件なのか?今さらながら本当に適切な治療が必要なタイプなのではないかと危惧し、動揺する。
でもそのわりに言語能力はあるし…まぁ社会性は欠如しているが、ギリ会話はできるので、そう深刻な話でもないのかもしれない。親は共働きで帰るのが遅く、飯はもっぱらポケモンが作ってくれてた…的な感じか。そして私をアシタカだと思ってるわけね。美しくねーよそなたは。
勝手に生い立ちを妄想する私に、Nは何とも耳の痛い一言を付け加える。

「だってポケモンは絶対に嘘をつかない」

真っ直ぐ見つめられ、私は肩をびくつかせた。略歴を詐称している事がバレたかと思い、動悸が大変なことになっている。
なんだその目は。私が職歴をごまかしているとでも言うのか?冗談じゃないよとせせら笑い、動揺を隠すよう首を振る。
確かに?私の気持ち的には?トレーナー3、ニート7っていう割合ですけども。でもトレーナーカード持ってるから一応トレーナーである事は間違いないし、ニートだとも言ってないが、ニートじゃないとも言ってないので、誰にも嘘はついていない事になるわな。だからそんな目で見るのはやめろ。私だって早く嘘偽りないニートになりたいんだからね!
いつまでこんな生活を続けなきゃならないんだ…と心で泣いている間に、Nとカビゴンの対話は進行していた。互いに自己紹介を済ませ、核心に迫ろうとする。

「カビゴンだね…レイコはどんなトレーナーか教えてよ?」

私の話かよ!やめろよ!聞くな!カビゴンが正直に答えたらどうしてくれんだよ!?
やはり詐称している私はNの背中を数回叩き、私の話はどうでもいいじゃないですか!と話をそらさせようとする。
私に聞けよ私の事はさぁ!もう嘘偽りなく答えてやるから!ニートなのも全部教えてやるから!お前を怪電波発生装置だと思っている事も正直に打ち明けるから!だからオブラートに包めなさそうなカビゴンに聞くのはやめてよ!卑怯だぞ!
何でもかんでも正直に言っていたら人間社会は成立しないので、嘘をつかない事が良い事だとは私は思わない。その辺がわからないお前はやはり社会性に欠けてると指摘し、野生児用の教育プログラムを受けるべきだと結論付けた。

もう本当にやめてほしい…ここでカビゴンをチョイスした自分の愚かさが怖いよ。幼少期から共にあったカビゴンは、私の堕落中の堕落を知り尽くしているので、何を暴露されてもやばいという、石原真理子のような危険さを持ち合わせていた。頼むから当たり障りのない情報にとどめてくれ…!と祈る私の耳に、しかしながら残念なお知らせが舞い込んでくるのである。

「…そうか、レイコはヤマブキシティで生まれ育ち、両親と暮らしているんだ。父親は研究者だね」

プライバシーポリシー!
叫びたい気持ちを堪え、私は雨音の中で唸った。
住所!家族構成!職業!みんな喋りやがった!この短期間で!
またしても身内から裏切り者が出たショックで、私はいっそ雨に打たれたくなってくる。嘘をつかないどころか喋り過ぎなポケモン達に、育て方を間違えた…と深く反省した。もう何もかもがつらかった。

「図鑑作成を頼まれて各地を旅していると…」

一から九くらいまでは喋り尽くされてしまい、あと一歩で気絶しそうである。
おい。お願いだからもうやめてくれんか?何故しゃべる?こいつ、個人情報喋ってもよさそうな人に見えるか?私には見えない。何も教えてはならない人だと思う。
しかし、不幸中の幸いというべきか、私のアイデンティティであり最も暴露してはならないニートの部分はNの口から出なかったので、おそらくそこだけは死守しているのだろう。まだ生きていける、と感じ、空気が読めるんだか読めないんだかわからないカビゴンに溜息をついた。

よかった…いやよくねぇけどよかったわ。ギリセーフという事にしておいてやる。
職業は自宅警備か…とNが呟かない事に安堵する私は、不意に微笑んだ彼の一挙一動にびびり、もはや冷静でいられそうにない。元々冷静じゃなかったけどな。テンパりすぎだろ。
なに笑ってんだ…と引いていたら、Nはボールを返しながら、それを目で追い言った。

「それにしてもこのカビゴン、何故だかキミを信じている…いいね…!」

いいね…!じゃねーよ。フェイスブックか。
私は押さねーぞと固い意思を示し、ボールをポケットにしまった。何がいいね!なのかわからないが、信じていると言われ、ちょっと心がざわついてしまう。

「全ての人とポケモンがキミ達のように向き合うなら、人に利用されるだけのポケモンを解き放たずに、ポケモン達と人の行く末を見守る事ができるのに」

再び歩き出したNの横に並び、早口で言った彼の言葉を理解するまで、少し時間がかかった。ようやく飲み込むと、まさかの褒め言葉だった事に気付いて閉口する。

え?私…知らぬ間に認めていただいてた?N様に?模範トレーナーとして?
衝撃の事実に五度見して、何だかくすぐったくなってしまう。問答無用で解放を訴えていたNが、まともなトレーナーとポケモンばかりなら見守ることもやぶさかではないと判断するまでに至った事が信じられず、奇跡みたいな展開にまだ驚きが止まらない。

頭のおかしな奴ばっかじゃないって気付いたのか。トレーナーとポケモンが互いに納得し合って共にいる事を、ようやくわかったのかお前!マジ?卍?信じられない。何があったの?私が人間砲弾やって体張ってる姿を見て感じるものがあったのかな?ねぇよ。さっさと取り壊せあのジム。
突然の心変わりには動揺しかなかったが、同時に希望も見出していた。解放一神教が崩れた事は、かなりでかいと見ていい。何かをやらかす前にこいつを止められるかもしれないと思ったら、どうにも胸が熱かった。

そう、やらかしたあとでは遅いのだ。私は過去の犯罪組織を思い返し、警察の聴取に何度も赴いた日々に心で泣いた。
いつかはやると思ってたんですよ、とワイドショーのインタビューに答え、ラジオ塔の備品を壊したのは相手のポケモンなのか私のカビゴンなのかで揉め、現場検証をし、マスコミに素性がバレたらやばいからと警察署の窓から逃げるように帰った悲しい過去が、今でも鮮明に蘇る。
未然に防ごう。罪を犯してからじゃ遅いんだよ。今ならまだ私へのストーカー規制法に触れているのみ…いや余罪もあるかもしれないが、大事件を起こす前に止める、それが唯一私が面倒事を避けれる道なのだ。

変わり始めているNに、犯罪抑止を目論む私は、彼が私をストーカーしながらこの旅で何を得たのか、地味に気になり始めていた。人に利用されているポケモンばかりではないと気付いたのは、やっぱそういう人たちを何度も見たって事になるのかな。
そんなの、普通に生活してたら当たり前にわかる事なのに、でもそうじゃなかったという事は、Nの普通は私たちのそれと異なっていたのかもしれない。本当にもののけ姫だったりしてな…。冗談で言ったこの言葉がまさか本当になるなど、この時のレイコは知る由もなかった。

しばらく黙って歩き、Nは私とポケモン達の何をもってして向き合っていると判断したのか、聞きたいけど聞けずにいれば、突然話が回転して、その自由すぎる生き様にいっそ惚れ惚れしそうだ。いいよな、社会性に欠く人間は失うものが何もなくてよ。私も世間体を気にせず生きてみたいよ。

「ゲーチスはプラズマ団を使い、特別な石を探している」
「医師?」
「その名もライトストーンとダークストーン」

石の方か。お前の頭を治す有能な医者を探してるのかと思ったわ。
急に石の話をされ、ツワブキダイゴも驚く脈絡のなさに、私は死んだ目をして相槌を打つばかりだ。左様ですか、と興味なさげに呟くも、石というアイテムはこれまでも重要な何かである事が多かったため、聞き流さずに胸にとどめておく。

「伝説のポケモンはその肉体が滅ぶと、石となって眠りながら英雄の誕生を待つ…その石から伝説のドラゴンポケモンをよみがえらせトモダチになり、僕が英雄である事を世界に認めさせ、従わせる…」

めちゃくちゃストーリーに関係ある話じゃねぇか。一気に事情が変わったわ。
即座に私は食いつき、ゆっくりしゃべれよ!とNにクレームをぶつける。大事な話聞き逃したらどうしてくれんだ!読み聞かせのように語って!
やはり伝説のポケモンに関わる石だった…と頭を整理し、その重要性を噛みしめる。紅色の玉と藍色の玉みたいなもんか。あれはゲンシカイキに必要なものだったけど、今回はその石自体がポケモンなんだ。
生態と野望をまとめて語られ、私は雨音をBGMに、ゆっくり考えていく。
つまりライトストーンとダークストーンっていうのは伝説のポケモンで、何かをすると石からポケモンが蘇ってくるっていう話でいいのか?この時、私は大変な事に気付いてしまい、顔を上げた。

え?ライトとダークがあるって事は、伝説のポケモン二匹もいんの?
マジかよと項垂れ、より面倒な事態になってしまった事に、私のテンションは露骨に下がった。
マー?正気?いやまぁ伝説ポケモンには対となる存在がいるパターン多いけど、今回もそれなのかよ。パッケージ違いの罠にかかってしまった私は、最悪の場合ストーンを探さなくてはならないかもしれないと気付いて、ますます鬱が加速する。
ストーンとかその辺に置いといてくれよ、カーリングみたいにさ。でもゲーチスが探してるっていうなら、私もそのおこぼれにあやかれる可能性はあるというわけで、つまりまだ希望はある。見つけてくれるなら敵でも味方でも何でもいいよ…私は記録できればいいからさぁ…危機管理能力のないニートはそう思い、どうにか記録を成し遂げたいとそればかりを考える。
しかし今回の伝説はドラゴンポケモンか…。やたら強そうだし厨二心をくすぐる点からいって、プラズマ団の手に渡れば相当な脅威だというのはわかる。でも、私のお気楽ニート化のためにはそれも必要悪…なんですよね。Nを事前に止めて更生プログラムを受けさせるつもりだったが、やはり伝説のポケモンを記録するまでは悪の親玉でいてほしい、そう願います。レイコはどこに出しても恥ずかしいクズであった。許せ。

「…僕の夢は争う事なく世界を変えること…力で世界を変えようとすれば、逆らう人も出るだろう」

世論を展開し、政治的な話になると不利な私は、馬鹿がバレないよう必死に真顔を作った。力で世界を変えまくった私には何とも耳の痛い話である。
悪かったな脳筋で。でも圧倒的な力だってなぁ、人を動かせるんだよ。勝てそうだなって思われる程度の力じゃねーぞ。勝てるわけがない、そう諦めた時、人は逆らう気力を失っていくんだ。北斗の拳を見たらわかる。見てないならそれもKindleで買ってやるってば。

「そのとき傷付くのは、愚かなトレーナーに利用されてしまう無関係のポケモン達だから」

Nはそう言ったが、暴力で抑えつけるのも、洗脳まがいの事をしてイッシュ中の人間を信者にするのも、正しい事だとは思えなかった。ポケモンがいなきゃ人間同士で争うまでの事なので、引き離せばいいなんて簡単な問題じゃない気がする。
お前がポケモンが傷付いて胸を痛めるように、ポケモンだって人間が傷付いたら胸を痛めるだろう。それくらい長い間、人とポケモンは一緒にいたんじゃないんだろうか。

「そう…ポケモンは人に使われるような小さな存在じゃないんだよ…!」

使われてるだけじゃない、と言えるほどの時間を、私だって過ごしたはずなのだ。ポケモンと…カビゴンとカイリューとメタグロスとルカリオと、時に笑い、時に泣き、愚痴を聞き、同じ釜の飯を食い、寝相の悪さにブチギレ、美空ひばりのモノマネなら私の方が似てる、と言い張り、そうやって過ごした川の流れのように緩やかな時間があったのに。
どうして信じられなくなったんだろう。ポケモンは嘘をつかないのに。

「その結果…キミ達のようにお互い向き合っているポケモンとトレーナーを引き裂く事になるのは、少し胸が痛むけどね」

口調は全然痛んでなさそうだったが、Nも嘘をつかない人間だという事を、私は知っていた。呆然と足を止め、先行くNを追わずに雨を浴びた。地面を叩く音が消えたのは、Nが戻ってきたからだろう。差し出された傘の中で、私は彼を真っ直ぐ見つめる。

「…なんて言ってんの?」

尋ねると、Nは少し首を傾げた。何を聞かれたのかわかっていない表情だったが、まるで理解しようとするみたいに見つめ返されると、胸が熱くなってしまう。雨を浴びて冷えたのに。

「私のポケモン、なんて言ったの?」

真剣に問いかけたら、彼はわずかに目を見開いた。
正味な話、他人が自分をどう思ってるかなんて、あんまり知りたくないだろうと思う。自分が相手をめちゃくちゃに好きだったら、余計にそうだ。だってもし嫌われてたら嫌だし。絶望に沈んで二度と浮き上がれないかもしれないくらい、恐ろしいわけだ。
でもNは、私とポケモンが向き合っていると言ってくれた。引き裂くのは胸が痛むとまで言ったのだ。長年の憂いが消えていくかもしれないと思ったら、居ても立ってもいられなかった。
しかし、そんな私のドシリアスを、見事に打ち砕いていくのがこの電波、Nである。

狭い傘の中で、Nは顔を近付けると、私の頬に指を添えた。耳打ちでもして教えてくれんのかな、とのん気に考える私は、唇に当たった温い感触に、リアクションが渋滞してしまう。
その一瞬だけ、雨の音が消えた。無音の世界で私は立ち尽くし、徐々に感覚がよみがえると、雨音に混ざった心音がジャイアンリサイタルを始める。その爆音で我に返って、全身の毛を逆立たせながら目を見開いた。

なんだこの状況。
なんだ、この、状況!

「…僕は」

少し離れたNが、静かに口を開く。それどころじゃない私は硬直して、いま何をされたのか、考えなきゃいけないけど考えたくなさすぎて、現実逃避が忙しかった。一瞬だったはずが途方もなく長く感じ、平成三十年を駆け抜けたような気分である。
ゲームボーイ発売、バブル崩壊、ドイツ統一、チェッカーズ解散、エヴァ放送開始、ポケモン赤緑発売、ポリゴンショック、ノストラダムスの大予言、タマちゃん出現、十八年振りの阪神優勝、スクエニ合併、鳥インフル発症、ホリエモン逮捕、私のお墓の前で泣かないでください、ニコニコ全盛期、地デジ化、消費税増税、シャンシャン誕生、そしてポケットモンスター22周年…!
走馬灯のように駆け巡る私に、Nもまた、平成人としての爪痕を残すのだった。

「僕も、キミの事が好きなのかもしれない」

お前の!事は!聞いてねぇから!

やっと自分を取り戻した私は、Nの肩をド突き、頭を抱えて唸りを上げる。

「はぁー!?」

カオス。この世界のすべてがカオスだ。平成を失おうとしている世は、まさに混沌を迎えている。
何!?今の何!?路上でなんか…山本モナ、仲里依紗、手越裕也、などが週刊誌に撮られたあれをした…いやされたような気がするんだが?気のせいかな!?
どう考えても気のせいではない記憶に、手の震えが止まらない。どれだけ寄ってもイケメンの解像度が変わらないからゼロ距離まで迫っている事に気付けなかった私は、代償に純情を失って、ジョーズよりもパニック映画状態だ。

なに。
もう何?言葉が出ねぇわ。もう何?しか言えない。なに?どうしちゃったの?人間砲弾といい路チューといい、私の人権なさすぎんか?

衝撃すぎて傘から飛び出した私は、そのまま後ずさり、辿り着いたポケモンセンターの壁にぶつかる。しばらく目を合わせていたNだったが、やることやって満足したのか、そのまま振り返らずに消えていった。さすがに我慢ならない私は、後ろ姿に向かって叫ぶ。

「おい!犯罪だぞ!」

ド正論がフキヨセに響き、しかしNは立ち止まらない。せめて傘置いて消えろや!と思ってしまう私は、もう狂ってしまったのだろう。一度真っ白になった頭では、思考が蘇生しないらしい。

わ…わけがわからん。殺すか?ショックがでかすぎて喪失感すらないわ。ちょっと心を開き始めていた矢先の出来事に、ATフィールドは完全に全開。もう二度と口利いてやらねぇ、と小学生みたいな事を思って、ポケセンの壁を蹴った。昨日までの私は死んだ。今日からの私はニューレイコ、プラズマを虐殺するターミネーターよ。
殺意に燃える私は怒りの形相で歩き出し、濡れた髪をかきあげながらポケモンセンターの前に立つ。
信じられねぇ。何なんだあいつは…社会性に欠くとかいう次元じゃねぇだろ。もう何が何だかわからず、それまで彼と何を話していたかも思い出せない。石の話をしたと思うが…やはりお前に必要なのは医師だ。そして私が持つべきものは通報する意思!
今日という今日は警察に被害届を出してやる、とライブキャスターに手を伸ばした時、センターのドア付近で何かが光った気がして、私は顔を上げた。
それが眼鏡のレンズだと気付いた瞬間、セカンドインパクトの襲来を察知してしまう。顔から血の気が引き、目の下に落ちたのが雨の雫か、涙なのか、私には判断がつかなかった。
透明な壁の奥に潜む瞳が、ペニーワイズよりもホラーである。

「…何やってるんですか、公衆の面前で」

チェレン。何故よりによってお前がここにいる。

頭の中で、八代亜紀が雨の慕情を情念を込めて歌い始める。私のいい人連れて来いと言いながら、一番連れてきてはならない人を、呼び込んでしまうのであった。

  / back / top