雨が地面を打つ。時が経つにつれ、それは豪雨と化していき、まるで私の内面を表しているかのように、穏やかさから段々と遠ざかっていった。
ガラス窓の向こうに見える景色から、私は目を離す事ができない。否、正面を見られないと言った方が正しいだろうか。

前回までのあらすじ。
Nとの接触事故をチェレンに目撃されてしまったポケモンニートのレイコは、何を言っても言い訳がましくなってしまい、人間砲弾の疲れからか、不幸にも黒塗りのチェレンをポケセンのカフェに誘ってしまう。何故か浮気を問い詰められているかのような状態の私に言い渡された示談の条件とは…。

真夏の夜でもないのに緊迫した空気に包まれ、私は沈黙していた。頼んだコーヒーに手をつける事さえできず、時間と両手を持て余す。
心の傷を負ったその足で向かったポケモンセンターには、タイミングの悪い事に、チェレンがいた。そしてチェレンに私が犯罪に遭う現場を見られ、本当だったら私は涙ながらに被害を訴えてチェレンに慰めてもらえるはずだったのだが、どうしてか彼はすこぶる不機嫌であったのだ。動揺に次ぐ動揺でどうしたらいいかわからず、とりあえずカフェへと入っているのが現状である。雨の中立ち往生するわけにもいかないからな。まぁディオにズキュウウウンされたエリナみたいに泥水で口を漱いでから入ってもよかったかもしれんが。

淑女ではない私にそこまでの気概はなかったため、ぬくぬくとポケセンの中でチェレンと向かい合っている。刺さるような視線から逃れたい一心で窓の外を見やり、一体どうしてこうなってしまったのか、考えても考えてもわからなかった。

いや本当なに?なんでこんな通夜みたいな空気なの?
もしかしてここで誰か死んだのか?と辺りを見回すも、センター内は至って普通の賑わいである。コナンも金田一もいない。明らかに我々の半径1メートルだけが異常だった。日常の中の非日常に足を突っ込んでいる私は、理由もわからずただ気まずいという地獄みたいな状況に晒されている。

マジに何だってんだこの空気は。まるで浮気を咎められているかのような状態なんですけど。
若い女と一度きりの過ち、妻にはない純真さを秘めていた彼女に惹かれ、満たされた気持ちで振り返ると、そこには化粧する間もなく忙しない日々に追われている妻の憎悪に満ちた姿が…的な背景が見え、私は左右に首を振る。
いやいやいや…何を考えているんだ。疲労のあまり幻覚まで見え始めている自分を危惧しながら、追いつかない思考で必死に考える。
相手が別の誰かだったらこんなにびびっちゃいなかっただろうが、よりにもよってチェレンなのだ。彼の前では強く正しく清い私でいたい…!と無理なことを願うあまり、下手に強気に出られない。俺は…俺は弱い…!

とりあえず、何か言おう。
そりゃ…そうだよな。チェレンもあんな犯罪現場を見て何と声をかけたらいいのかわからないところもあるんだろう。犯罪被害者への寄り添い方は…非常にデリケートで難しい。ただでさえ傷付いた相手をさらに傷付けやしないか心配するあまり何も言えない、そういう気持ちなんだね?
気まずい空気を打破するため、私は軽く咳払いをした。大丈夫だよ、と気丈に振る舞おうと微笑みを浮かべ、気を遣わなくていい、そう言おうとした。だって不審者には慣れてるからね。慣れたくて慣れてねーよ。闇だよこの世は。

「…チェレン」
「レイコさんって…」

すると、同じタイミングで口を開いてしまい、私は思わず言葉を飲み込んだ。というよりは、口を開けなくなったと言った方が正しい。
視線を合わせたチェレンの瞳は、いつぞやの冷凍コンテナを彷彿とさせるほど、キンキンに冷えているように私には見えた。眼鏡の奥で氷点下を観測し、そしてその口からも、冷たい声色が響いてくるのである。

「軽いですよね」

言葉の冷凍ビームが、私を氷漬けにした。
状態異常のSEが鳴り、凍ってしまって動けない私は、第二の被害で静かにご臨終する。傷付いた心は崩壊し、正直路チューよりこっちが堪えたと胸を押さえた。
ようやくチェレンの態度が冷え切っていた理由を知り、私は息を切らしながら、蚊の鳴くような声で弁解する。いや弁解じゃねぇよ、これは事実なんだよ!

「ご…誤解だ!」

思わず机を叩き、必死の形相で訴えた。ますます浮気の言い訳っぽい雰囲気になってしまったが、言い訳も何も私とチェレン、そしてNの間には何もないので、こんな状況になっていること自体おかしいのである。

マジで何?今…なんて言ったの?清純な私は彼の言葉が信じられず、紐を引っ張ると振動する玩具の如く震えた。
か、軽い?軽…軽い…ですって?それつまり…チャラいってこと?
あまりのショックに、私の脳天には雷が落ちたような衝撃が走る。そこにあるのは、絶望。文春砲をかまされ、もう一生陽の光を浴びられないほどのスキャンダルに見舞われた気分に、私は生気を失っていく。

う、嘘だ。チェレンが…あれを合意の上のロマンチックな路チューと誤解したなんて…そんなの嘘だ!
悲しすぎて涙さえ零れそうである。強く気高い私を慕ってくれていたはずのチェレンが…こんな…私をあのような電波に簡単に靡く女だと思ってしまった事が…今はただつらい…!悪夢だよ…!体裁を守り切れなかった自分への不甲斐なさで、私は拳を震わせる。
通報するって言ってたのに、所詮はイケメンに堕ちたんですね、そう告げる彼の眼差しは、軽蔑に満ちていた。バキバキに折れた心でそれを受け止め、しかし私は、己の名誉、そしてチェレンの信仰心のために、再び立ち上がる。

「誤解なんだ…」

地を這うような重い声で、私は再度言い放った。身の潔白を何としてでも証明したかったのだ。
確かに、不審者だと知りながら迂闊に傘に入った私にも落ち度はあったかもしれない…いやないね!いつの時代も被害者に落ち度なんてねぇよ!合意なく相手に接触しない、これが人間としての最低限のルールだから!つまりあいつは人間じゃねぇ!タケシもそう言うよ!オフホワイトなんて生温いものじゃない、私はセラミックホワイト、ジンクホワイト、チタニウムホワイト、パーマネントホワイト…アイボリーなんて到底太刀打ちできない、純白の無罪なのだから!

「あれは…向こうが勝手にやってきた事で…つまり私は今とてもショックを受けているんだよ、わかる?」
「そのわりには親しげでしたけど」

どっから見てたんだテメーは。助けろや。あの人痴漢ですよ!
どうも日頃の行いのせいで全く信じてくれてないみたいだ。狼少年の気持ちってこういうこと…?いや誰が虚言癖だよ。ニートしか隠してないっての!それが一番大事。

クソ!と夜神月のように頭を抱え、どうしたらチェレンの中の私のチャラいイメージを払拭できるのか、本当に悩んだ。実際チャラくないから今回ばかりは必死だ。加えて事件の唯一の目撃者である。ここで協力を得られなければ、証言台に立ってもらえないかもしれない。勝ちたいんだよこの裁判に!執行猶予なんてつけてやらないからな!
何としても懲役を食らわせたくて、露骨に傷付いた顔などを作ってみる。大体なんでチェレンに責められなきゃならないんだ?関係ないじゃん!お前は私の伴侶かよ!?
籍を入れた覚えなどないため、この理不尽な逆ギレに、私も段々と強気になってきた。

別に良くない?私が電波とキスしようが添い寝しようが相合傘しようが観覧車に乗ろうがチェレンにはまるで無関係、こんな風に問い詰められる謂れはないし、こうやって並べ立てた事により、Nと結構なイベントをこなしていることを知ってしまった私は、やっぱこっちに落ち度あったかもな…と悲しみに暮れる。

つら。確かにこれだけいろいろやってたら気があると思われても仕方ないわ…でも私夢主だからさぁ…そういうのよくあるんだって…許してくれよ…悲しき宿命を背負った私は途方に暮れ、もはや全ての気力を失いかけたが、それでもやはりこのままで終わりたくはないと心が叫びたがっている。
たとえ私が魔性でも、うっかり路チューを食らうドジっ子でも、そしてやはり同情心から通報ができない駄目な奴でも、それでもこれだけは確かなんだ。
私は完全に、被害者であるという事だけは!たった一つの真実!

「信じてほしい」

絞り出すようにそう言い、冷や汗で全身の水分が消えた私は、即座にコーヒーを口にした。染み渡るアメリカンの酸味が脳を活性化させ、動揺していた気持ちを徐々に落ち着けていく。すっかり冷たくなっていたが、カラカラに渇いた心身には大いなる癒しであった。コーヒーがなければ死んでたな。
さすがに私の真剣な訴えを受け、感じるものがあったのか、チェレンは俯いて黙り込む。被害者である私を糾弾した自分を責めているのかもしれない。私が図太い女だったからよかったものの、繊細な人間だったら君からの失望を受けて自ら人間砲弾になりにいってたかもしれないよ。反省してくれ。第二被害は日本でもかなり問題視されてるんだからな。
社会問題を提唱しながら、私もちゃんといい加減な人格を改めなければ…と再認識させられる。路チューはもう忘れるとして、チェレンに疑われるような人間であるという事実が本当に耐えられない。レイコさんはあんな電波に靡いたりしない人だよな、そう確信されていたいってのに…どうして…。目頭を押さえる私に、チェレンはついに声をかけた。

「…レイコさん」

少しばかり角が取れた声色に、私は顔を上げる。わかってくれたか、と感動しかけるも、相手はまだ本調子とは言えそうにない表情をしていた。アホ毛もいつもより角度が下がり、今度は怒りというより、寂しさでも感じているかのような眼差しで、私を見つめている。
そして言ったのだ。関智一の下ネタなみの問題発言を。

「好きなんですか」
「ん?」
「…Nのこと」

危なかった。今コーヒーを口に含んでいたら、間違いなく吹き出していた。
耳を疑う発言に、私は高速五度見を展開する。というか疑うのはお前の耳だよ。人の話聞いてた?私の渾身の記者会見、目の前で開かれてたけど、見えませんでしたか?
身に覚えもなければ発想すらなかった事を指摘され、私はショックを通り越し、何を言っているのかわからないという域にまで達する。眼鏡が曇りまくっているチェレンは、私を真剣に見つめていたけど、何だか他人事のように思えて眉を下げた。

「いや…全く好きじゃないけど…」

あまりに予想外な言葉だったので、私はボケる事もできず、つい普通の事を言ってしまった。驚きすぎると咄嗟に嘘もつけなくなるあの現象だ。
正気なのか、チェレン。本当に正気でそんな事を言ってるのか?年頃の男児の気持ちがわからない私は、いっそ恐怖に震えて身を引いてしまう。まるで別の生き物のようだよ。どの辺にそれを見出したの?全くわからん。何一つわからん。それとも私が気付いていないだけでいろいろ思わせぶりなのか?でもそれは夢主だから仕方ないんだって…!振り出しに戻る。

そりゃあまぁ…Nの事は好きではないけど…虫ケラとかコケラクズとかゴミカスとか、そこまでは思っちゃいないよ私だって。どっちかというと私の方がカスだしな。生き恥だし死んでも恥、歩く二酸化炭素排出器よ。自分で言って傷付きながら、同じように色んな事に傷付いているであろうNを思い、私はコーヒーに映る自分を見つめた。

「でも何か…」

呟くと、水面に映る私は、苦しんでいるかのように瞳を揺らしていた。言葉にできない感覚を、Nと戦い、電波をキャッチする事で、徐々に取り戻しているような気がしていた。

「何かが…ある気がして…」

そして伝説のポケモンを記録できる気もして…。一石二鳥なNに、これで不審者でさえなければ…と心底思う。いやまぁ不審者じゃなかったら本当に恋に落ちてたかもしれないから逆によかったけど…。ストライクゾーンの幅が広い自分に嫌気が差しているところで、また重い沈黙が訪れる。
自分の中の歪んだ何かが、真っ直ぐなNに触れる事で変わっていってるように感じた。かなり癪だが、他の誰でもなく、奴でなくてはならない理由がそこにはあって、私はそれを手放せないから、ここまで通報せずに来てしまったのだろう。早く全てを解決して逮捕してもらわなくちゃ…とコーヒーを飲み干す私に、皮肉にもチェレンは、いま考えたばかりの事を問いかけるのだった。

「…僕にはないですか?」

さっきまでの冷凍ビームが嘘のような熱視線を浴びせられ、私は正直に沈黙してしまった。
もちろん、なくはない。チェレンとの出会いだって、このイッシュに来て一番の神展開ってくらいには親しみや可愛さを覚えているし、多少は大人としての責任みたいなのも負う気になった。君がいなかったら挫けていた局面もたくさんあったよ、トラウマ観覧車とか。いやお前もトラウマ案件だったわ。Nの次にチェレンに会うと地獄を見る事になるっていうのもいい収穫だったな。避けられないところが地雷だけど。無情。
意味のない出会いなんてないよ、Nとは種類が違うだけで、と慌てて付け足そうとしたが、その前にチェレンが口を開いたので、大事なことは言えずじまいで終わってしまう。

「レイコさん」

決意に満ちた眼差しが、この後の展開を物語っていた。このパターンあれだな…と察した時には、私はもう伝票を取っていた。
彼は眼鏡だけど、半分は脳筋である。それを知ったのも収穫だ。

「…僕と勝負してください」

やはりな、と自嘲気味に笑ったところで、まさに神タイミングと言うべきか、天が空気を読み、雨が止んだ。さっきまでの土砂降りが嘘みたいに晴れ、世界がチェレンに味方していると感じる。私とはずっと敵対してるようだけど。雨のせいで悲劇が起きたからな、二度と感謝しねぇよ天の恵みには。
流れていく雲を睨みつけながら私は立ち上がり、チェレンを見下ろす。不思議な事に空も晴れると私の気持ちも多少は晴れ、Nのあとにチェレンに会うと地獄を見るけど、そのあとに待っているのは悪い事ばかりではないのだと、不覚にも思い知らされるのであった。

「…いいよ」

私はレジで二人分のコーヒー代を出し、払いますと言ったチェレンを押しのけ、数百円のコーヒーを奢った。若干申し訳なさそうにするチェレンだったが、私にはこのあと勝負に勝って賞金を支払ってもらうビジョンが見えているので、こっちの方が余程申し訳ない気分になるのであった。

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