使用したハイパーボール、87個。金額にして十万四千四百円。水に浮かんだボールの中央が点滅し、ランプが消えたあと私は脱力してその場で膝をついた。
レイコ投手、肩を壊した模様です。体力の限界を越え、運動能力の限界を越え、もはや山王戦の三井寿なみに腕が上がらない状態と思われます。いつもはクールな君の顔がその激痛を物語っているよと解説するのは青春学園の不二周助氏。インサイトでボールの軌道が全て見えてしまうギャラドス相手に勝機があるのかと一同固唾を飲んで見守っていましたが、ついに、ついにやり遂げました!87回裏、逆転サヨナラホームラン!

「ギャラドス…ゲットだぜ…!」

ここでBGMな。今すぐ流せめざせポケモンマスターを。この瞬間だけはポケモンマスターを目指す十歳の少年の心境だよ。半泣きになりながら地面を叩いて記念にここの土を持って帰りたいほどの死闘を繰り広げた私は、ひたすらにボールを投げ続けた結果87投目でついに通常のギャラドスより三倍早い赤い彗星の捕獲に成功し、喜びと疲れと父親への憎悪に打ち震えていた。
やっと…もう絶対無理ゲーだと思ってたけどやっと…やっと捕まった…赤いギャラドス…!もう二度と捕獲なんてしたくない。この先一生やらねぇから。私が手持ちを増やす時が来たらそれはCPUからポケモンを譲渡された時だけです。完全にトラウマを作ってしまい、歩く気力もない私はカビゴンにボールを拾いに行かせて一人項垂れる。
マジで疲れた。人間の体は87回もボールを投げて平気なようには出来てないという事を痛感したね…死んでしまうわ。よく生きてたな本当。さっきまでの私きっと誰よりも天国に近い人間だったと感じる。ニートは天国に行けないとかいうマジレスはいらないんでやめてください。クソリプですよ。
雨に打たれながら乱れた髪をかきあげて、ボールを取ってきたカビゴンと、ホステスの乾杯なみに低い位置でハイタッチを交わした。腕上がらねぇから。もはやこれをハイタッチと呼んでいいのかすら怪しい。強敵であったギャラドスを手中におさめ、複雑な心境ながらも重い腰を上げて私はポケモンセンターへ引き返そうと振り返る。もうこれ合羽着てる意味ねぇなってくらい濡れた全身を見たら薄ら笑いしか出てこなかった。ギャラドスが暴れる事によって発生する水しぶきの威力がどれほどのものかインテリクソ親父にはきっと想像もつかないんでしょうね…カビゴンのバタフライの比ではなかった。全身打撲だよこんなもん。
身も心もボロボロの状態で合羽を脱いだ私は、チョウジタウンに戻ろうと原付に向かった時、それまで誰もいなかった場所に人が立っている事に気が付いて水分で重くなった頭を上げた。野次馬は全員逃げたと思ってたんだが、と視線を向けた瞬間、突然雨が止む。

「レイコちゃん」

まさかのタイミングで名前を呼ばれて一瞬びくついた。
え、なに、誰。びっくりしていきなり捕まれそうになったハムスターみたいな動きしてしまったけど。謎の人物に声を掛けられテンパった私は雨に打たれた両目をこする。
誰だ一体。試合終わりの私を出待ちでもしていたんだろうか。ファンかよ。あまり聞き慣れない声だがもしかして知り合い?滴り落ちてくる雫のせいで視界がぼやけているため、誰がいるのか正直よく見えなかった私は首を傾げながら相手に近付いていく。
なんか聞き覚えのある声のような気がしなくもないんだが…誰だ?自慢じゃないが記憶力は良くないよ。ポケモン言えるかな?も言えないから。イマクニごめん。
ぼんやりしていた視力が段々と戻っていき、黒いマントと赤い髪がわずかに見えた時、私の脳の海馬から記憶が湧き出てきて思わず大口を開く事となった。一瞬赤いギャラドスが擬人化しやがったのかと思って焦ったけど、この厨二感溢れるキャラデザは…あの…誰だっけ、魔神英雄伝…?

「ワタル!さん!」

そうだ、ワタルだワタル。一瞬完全に呼び捨てにしようとしたけどこの人ワタルさんだ。英語版では名前がランスになってるワタルさんじゃないですか。誰かさんと被っているぞ。
意外な場所での再会に私は反射的に会釈をして合羽を小脇に抱えた。
いやーまさかこんなところで…全く親しくないどころか一回しか会ってないから距離感が掴みにくい人に出会うとは…どういう反応をしたらいいのかコミュ障には難易度が高すぎて苦笑する他ない。
えっ…ご存知、ないのですか!?彼こそがポケモンリーグ四天王厨二マント、ドラゴン使いのワタルさんです!その昔、私がリーグに挑戦した時四方にカメラを設置して迷惑をかけた人ですが?何か文句あんの?加えてたった一度の破壊光線で永遠にいじられる事になってしまった悲しい人だよ。風貌以外はまともなのにな。ちょっと未来の話をしてしまったがそんな事はどうでもいい、お約束な紹介も済んだところで、偶然の再会を果たした相手を見ながら私はカビゴンをボールにしまった。87球もキャッチしてくれてありがとよ、お前はゆっくり休め。私はこの人が来たせいで休めそうにない事態に陥っている事を一人嘆こう。何故今来たのだ。

「久しぶりだね。元気そうじゃないか」
「ええ、ワタルさんもお変わりないようで」
「君も噂を聞きつけてやってきたのかい?」
「…噂?」

いや私は別件です。ニートになるためのおつかいとは言えないのですっとぼけたように首を傾げておいた。しかしワタルの台詞に早々に嫌な予感を覚え、これから起きるであろう騒動の数々に胃を痛めながら心の中で溜息をつく。
出たよ。噂。噂って。そんな露骨なフラグあるか?完全にフラグです。強引に立ててきたフラグ。正直そんな気はしてたわ、ここに来た時からわりと。だってどう考えてもこの状況で何もないわけないでしょ。もうすでに三つのワードが出ているからね。赤いギャラドス、ワタル、そして彼の言ったとある噂、だよ。何かが起きている!っていうのが丸わかりって感じの。これで逆に何もなかったら拍子抜けって感じのやつ。いや無いなら無いでいいけどね、本当。無い方がいいです。またねっつってこのまま別れる方がいいから。頼むで。
しかしそんなに現実は甘くないので、ワタルは意味深に雨の上がった湖を見つめながら口を開いた。その、噂ってやつの話をするべく。とりあえず肩にサロンパスだけ貼らせてもらってもいいっすかね。BBA死んじゃう。

「…その赤いギャラドス、どう考えても普通じゃなかった」

視線を私の手元に移し、ワタルは低い声で真剣な声を発する。いまだ私の手中にあるボールをよく覗いてみると、あれだけ暴れて疲弊しているはずなのにまだ興奮状態なのか、ギャラドスは威嚇しながら尾を振り回していたため、こんなもん親父に送ったらボールから出した瞬間即死だなと冷静に思い合掌した。死因:ギャラドスとして火葬される父よ、どうぞ安らかに。勝手に殺すな。
もしかして噂とは…赤いギャラドスの噂か?ワタルの言葉に思い至って顔を上げる。それなら私も湖の噂聞きつけてやって来たから先程の問いにはイエスと答えられるけど、でもまさかこんな事になるとは思わなかったよね。謎の捕獲劇。嵐の原因を思いがけず解決してしまったが、どうやらこの様子を見ると根本の問題はまだ残っているようだ。神妙な面持ちでワタルは続ける。そのマントさえなければかなり真面目なシーンになるんだけど、いやそうでもないな、今となってはそうでもない。リメイク版の衣装、どう考えてもカタギじゃないです。どこに売ってんだその服。

「やはり誰かの仕業で無理矢理進化させられてしまったのか…」

衣装に気を取られている私をよそに、ワタルがそんな事を言ったので再びギャラドスを凝視した。
え、この2Pカラーって…無理矢理進化したから赤いままなのか?そういう事?色だけコイキング?途端に締まらねぇ事案になってしまったわけだがそりゃちょっと問題ですよ。改造は犯罪です。割った、って呟いたら社長に法的処置を取るってツイートされる世の中だからね、謝っても許してもらえない。覚悟して来な。
脳がコイキングのままギャラドスの肉体を手にしてしまったがためにどうしたらいいかわからず暴れ回っていた悲しい生物なのか何なのか知らないけど、どちらにしろワタルの口振りからするとこの赤いギャラドスのメタモルフォーゼは人為的なものらしい。というか、やはりとか無理矢理進化させられたとかそこまで推察しているという事はある程度の情報を得ているわけですね?このギャラドスについて。調査をしに来た可能性が微レ存?お前の仕事四天王なんじゃないのかよ。アニポケではポケモンGメンと兼任だったが。この世には謎の仕事が多すぎる。
あんたの40レベのカイリューの謎の方が重大な気もするけどなと思いつつ、何にしてもこれ以上は関わりたくない。ギャラドス調査したいって言うならこれあげるから。親父に捕獲して来いって言われたけどそんな事は知らん、場末の研究者より四天王に渡した方が有益に決まってんだろ。必要なら差し上げますという意味を込めてボールを少し突き出せば、ワタルはそれに特に触れる事なく話題を変えてきたので、いよいよこいつ何しに来たんだと私は半ギレで顔を歪めた。
あのね、見てこの年頃の娘の憐れな姿を。よく見て。雨に濡れ、ギャラドスと戦い、そして肩を故障した私の姿を見て何とも思わんのか貴様は。世間話してる暇があったらせめて着替えさせてくれ。そしてお前も着替えろ、雨でマントの重量が恐らく倍以上になっていると見た。このままだと肩幅がキャプテン翼みたいになるからやめたげてよお!
絵柄が高橋陽一になってしまう事を恐れてハラハラする私にワタルは軽く微笑む。首から上は本当にイケメンなんだがそういう奴この業界に多すぎじゃね?

「…相変わらず強いね、君のポケモンは。あのギャラドスの猛攻に耐え切るなんて」
「み、見てたんですか…」

見てたなら加勢しろや。ピッチャー代わってくれ。いきなり監視発言をされてちょっと恥ずかしい思いをする私であったが、普通に87球投げてる様子をずっと見てるってのもなかなか狂った状況だと思うので素直に引かせていただいた。普通に怖いわそれ。じっと黙って見てたのかよ。肩を壊しながらも懸命にボールを投げ続ける青春ドラマみたいな私の姿を?そんなだからロリコンって言われたりするんだって事が何故わからない…自分の価値を落とさないで。ロリコンもヤンデレもスイクンストーカーも二次創作設定、本当のあなたを見失っちゃ駄目だよ。いやスイクンストーカーだけは事実だった。公式が最大手。

もしや私の野球の才能を見抜いてスカウトに…?と年俸億単位の職業を一瞬夢見たが、四天王のマントが野球監督であるはずもないので、一緒に甲子園を目指そうという誘いの代わりに、あまり嬉しくない申し出を受ける事になってしまうのだった。

「君の実力を見込んで頼みたい」
「え」
「ここの噂を聞きつけ真相を調べていたんだ。良かったら俺に力を貸してくれないか」
「えっ」

思わず二回も間の抜けた声を出してしまった。そんな気はしていたがこのタイミングで来られるとはさすがに想像していなかったので、体中から滴り落ちる冷たい雫に体と心を冷やしていく。もう完全に冷え切っているよ私の気持ちは。子供も手が離れ会話の少なくなった熟年夫婦のごとく冷え切っている。お願いするタイミング今か?と非難の目を浴びせつつ私は溜息をついた。
何で私がそんな事に付き合わなくちゃならないんだよって事よりも前にだな、さっきも言ったけど、見てこの全身ずぶ濡れの私を。まずは風邪引かないように風呂とかそういうのを提案するべきではないのかね?大人として、男として、人間として、この濡れ鼠の身を案じてくれるのが常識ではないのか。男は強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がないってフィリップ・マーロウも言ってたぞ。
頼むで本当…互いにまずは銭湯に行こうやと雨合羽を絞りながら私は眉間を寄せる。積もる話は風呂に入ってからゆっくりしましょうよ。そのあとで返事をするから。丁重にお断り申し上げる返事をな。誰が手伝うか馬鹿野郎と口にはせず心で毒づいた。
今日の私がどんだけ疲れてると思ってんだ。知らねぇだろお前。カビゴンのバタフライ、スイクンとそのストーカー、加えて最後にギャラドスとのベースボールクラシックね。死んでしまうわこんなもん。死ぬ。命削れるっつーの。いくら若いと言っても無理だから。鼻で笑いつつ拒否の意向を示そうとワタルを見れば、恐ろしい事に彼は、私が尽力すると信じて疑わないといった眼差しを向けていて、そのあまりに純粋な瞳に私はただただ恐れおののき足を震わせるしかなかった。
な、なんだ…この…君ほどの実力を持ったトレーナーならば、かわいそうなポケモンを放っておけないはず、自身がどれだけの犠牲を払おうとポケモンのために戦う、そういう人だよね?だってポケモンリーグチャンピオンになるほどの人間なのだから…俺は知っているよ、的な思いを乗せた目は…!なげぇわ。瞳に思い込めすぎ。断らせる気がないなら聞くんじゃないよ。
嫌ですとは絶対に言えない雰囲気を纏うワタルに、イエスマン日本代表の私は抗えるはずもなく降伏した。節々も痛い、心も痛い、胃も痛いという過酷な状況の中、涙をのんで頷く。何でこうなっちまうんだいつもいつも。いや私が断れないのが悪いんだけど。でも四天王の頼み断れる奴いたら見てみたいわ。どうせ何度いいえを選んだところで、はいを選択しなきゃ話が進まないRPG特有のあれなんだろうが。主人公はいつだってはいを選び続けるしかないんだと己の運命を嘆き、涙声で了承した。

「お貸し…しましょう…私の微力で良ければ…」
「そうか!助かるよ!」

白々しいなこいつ。断らせる気なかったくせによく言うぜ。どうせお前の祖父あたりも、トレーナーにとって最も大切な事は何か?的な問いかけをしたくせに不本意な返答は聞こえない振りをするタイプなんだろ、知らんけど。全然知らんけどな、龍の穴のイベントとか。知らんけど。
イケメン顔で微笑むとワタルは私の手を取り固く握手を交わしてくる。力なく私は笑ってされるがまま頷いておいた。四天王の人と握手できるなんてマジ感激。親父に自慢しよ。そんなわけあるかい、もはや握手に使う握力すら0だよ。今スポーツテストしたら世界最低記録叩き出すわ。力石徹なみに両手が無気力状態の私をよそに、ワタルは手を取ったまま口を開くと、ようやくこの悲惨な装いについて提案をしてきたので私は安堵と困惑に苦笑を浮かべるのであった。

「まずは着替えた方がいいな。近くに部屋を借りてるから、そこへ行こう」

ホイホイ頷いたあとで、これ新手のナンパじゃないよなと思い至ったが、もう着替えれるなら何でもいいわと全ての女子力を捨てて私はワタルについていく事にした。いざとなったら原付で轢いて逃げるし。カビゴンもいるから大丈夫だよ。きっと本当のロリコンではない、私はそう信じたい。勝手に人の性癖を疑ったりしながら、このあとまた某組織に巻き込まれていく事にこの時の私はまだ気付いていないのであった。
で、このギャラドスどうすんねん。とりあえず親父に送っておこう。龍のいかりで塵になっても恨まないでください。

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