恐ろしい敵だった…。
敗れたスイクンを見下ろしながら、私は負け姿さえも芸術的な姿に圧倒され、思わず息を飲む。カメラの前では決して無様な格好は見せない、そういうプロの気概を感じた。お前は一体何なんだよ。
私が戦っていたのはポケモンだったかオフィーリアだったかわからなくなりながらも、ミレイの絵画のように美しく倒れるスイクンに、美しさの欠片もないデザインのすごいキズぐすりを噴きかける。施しなど受けぬ的な態度で来られるかとも思ったが、どうやらカビゴンの一撃は相当重かったらしい。ブラッシングされる犬のようにおとなしくスプレー乱舞を受けていた。こうしてると可愛いのになこいつも。

治療を終えた私はその場で屈み、撮った映像をすかさずスイクンに見せた。緊張の一瞬だった。
監督…チェックお願いします。私の人生で最も素晴らしい画が撮れた…自分ではそう思ってます。だからもう引退してもいい。いや…引退したい。させてくれ。絶頂期で芸能界から退いた山口百恵になりたいんだよ!
残念ながら私には三浦友和のような男性は現れなかったけども、もう箸より重いものは持ちたくないので、カメラを抱える生活とはおさらばしたかった。ニートになったら絶対記録とは無縁の人生送ってやるから。インスタもやらないから。映えさせないから何も。まず私の人生が映えてないし。悲しいこと言わすな。
祈るような思いでスイクンの映像チェックを待ち、私は手を震わせながら合掌する。頼む…これで成仏してくれスイクン…!臨場感溢れるカメラワーク、水が織りなす独特な世界観、まさに平成のキューブリックと呼ぶに相応しい仕事をしたと思う!もうこれ以上は無理!許して!何も悪い事してないけど!
目を閉じ、判決を静かに待つ私は、冤罪事件の死刑囚みたいな重苦しい気持ちを抱えていた。一審で無罪を勝ち取らないと絶望的だ…!ともはや自分が何者なのかすらわからなくなってきたところで、ついにその時はやってきた。
合わせている手に、一瞬冷たい何かが触れた。ハッとして目を見開くと、すっかり元気になったスイクンが神々しく立っており、気高い眼差しで私を見つめている。言葉は交わせなくとも、私にはわかった。スイクン公が、大儀であった、と語りかけてくれている事が。

ついに、この時が来た。
ストーカー支配からの、卒業。

「レイコ…見事なもんだぜ…」

共に映像チェックをしていた助監督のミナキに絶賛され、私は静かにコロンビアポーズを取る。パルムドール受賞。ありがとうカンヌ。あまりの感動に私は目に涙を浮かべ、まるで旅が終わったかのような解放感に満たされた。これから洞窟に行く事も忘れて。思い出したくなかったわ。
自分で自分に水を差しながらも、肩の荷が下りた事には死ぬほどホッとした。

よ、よかった…!やっとストーカーをまとめて一掃できたよ…!長い被害者生活に終止符が打たれ、これで人目を気にせず泣きながら米津玄師のLemonを熱唱できる…そう思うと未来は明るく思えた。今でもニートは私の光よ。
万引き家族越えたな…と勝手に満足感を得ている私に、ミナキは尚も称賛を続け、さすがの私も何だか照れた。

「これほどの戦いを見せてもらったら何も文句はないよ…」
「いやいや…それほどでも…」

ある。あるねー。ミナキくんの見る目もある。どうもどうもと軽く手を挙げて応え、私はカメラをリュックにしまった。完全にお開きムードでいる私をよそに、ミナキくんは俺たちの戦いはまだ始まったばかりだって感じのテンションで構えていて、二人と一匹の間には激しい温度差が発生していた。

「さぁ、レイコ。遠慮する事はない」
「え?」

あとは原付に跨るだけというところで、ミナキはそう言い、私に何かを促した。大仕事を終えてアドレナリンが出すぎたせいか、頭がポンコツと化している私には何の事かわからず、キョトンと首を傾げてしまう。
なに。何だっけ。まだする事あったか?
動画も撮ったし…スイクンからOKも出た、あとやる事は…あれかな?ミナキくんのご自宅に撮った映像を郵送しろって事かな?わかってるよそんなの…ちゃんと着払いで送るから、編集してYoutubeにアップするなり好きにしてよね。忘れてないって!と頷けば、ミナキは今度はジェスチャーで私に何かを訴えかける。
両手を胸の前で組むと、大きく振りかぶり、最後にはそれを勢いよく前へ突き出す。見慣れたスポーツの動きである事は明白だったが、何故いまそんな事をするのか、私には全くわからない。再び首を傾げ、勘の弱い私にとうとうミナキくんは痺れを切らした。

「…野球?」
「捕まえないのか!?」

叫びと共に両肩を掴まれ、ようやく私は思い出した。ハッとしたように目を見開き、スイクンに視線を向ける。向こうも一仕事終えて我々に興味をなくしたのか、乱れた毛並を一心不乱に整えていた。完全に犬。さっきまでの迫力どこ行ったの?
すっかり記憶を飛ばしていた私はミナキの手を振り払い、年季の入ったストーカータキシードに苦笑を向けた。クランクアップにはまだ早かったと気付き、でも実際私はもう用無しなので、何と説明するべきか悩んでしまう。

そうだった…忘れてたけどこいつ、スイクンが私を自分の身を預けるだけの力を持ったトレーナーとして認めたって思ってるんだった。
ていうか見てわかれよ。スイクンが何を求めて私を選出したのかって事!どう見てもトレーナースキル関係なかったよね!?怒涛の撮影劇を目の当たりにしてもスイクンの真意を汲み取れないミナキに、だからお前はストーカー止まりなんだよ!と一喝したくなる気持ちを抑え、拳を握る。
スイクンを見なよ。もはやただの毛繕いマシンと化したあの姿を。とてもトレーナーからのボールインを待っているようには思えない姿に、私は苦笑を禁じ得ない。
私と同じ、自由を愛する犬だよあれは。次はたぶん是枝監督の映画にさりげなくフレームインしてくるだろうね。いずれブルーリボン賞を獲るかもしれない伝説のポケモンを見つめながら、私はミナキに語りかけた。

「…別にやめなくてもいいんじゃない?スイクンの追っかけ」

その言葉に、スイクンは若干顔を歪めたが、気付かない振りをして話を続けた。

「私モンスターボール持ってないしね」

リュックに入ってるのはコンビニでもらった割り箸、おしぼり、謎の輪ゴムなどの不要品ばかりである。それらよりもいらないと思われているのがそう、モンスターボールであった。
だっていらねぇもんな。フィールドワークが使命だからポケモン捕まえる機会ないんだわ。捕まえても責任持てないし。ポケモン預かりシステムとか無縁。確かにな、いろんなポケモン持ってたら便利だと思うよ。空を飛ぶとかもっと安易に手に入るだろうし…でも考えちゃうんだよね、エサ代…とかをさ。こつこつ貯めたニート貯金残高を思い出しながら、カビゴンに食い潰されていく現状を私は嘆く。
全ては縁だから!例えばここに突然ハイパーボールが降ってきたりなどしたら、私とスイクンは運命で繋がっていたと感じられたと思う…だけどウツギ博士にもらったマスボをすでに実家に転送した時点でそれは断ち切られてんだよ。端的に言うと別にほしくない。スイクン、私の手に負えないので。
ニートが伝説ポケモンなんて所持していいわけないでしょ!と身の程をわきまえている私を、ミナキはしばし呆然と見つめていた。無理もない。誰もが憧れる伝説ブランドを足蹴にするトレーナーなんて稀だろうからな。しかも自分が長年追ってきたスイクンを、おめーの席ねぇから!扱いされて驚かないはずもなかった。
いやでも本当に余裕ないんだ私…ハクリューで手一杯なので…スイクンどころじゃないんだよ。捕まえたところで空も飛べないしな。まだホウオウの方が使えたわ。伝説をアッシーにしようとする不届きな私に、やっとミナキは詰め寄って、真剣かつパニックという器用な状態で口を開いた。

「私に…気を遣ってるのか?」
「遣わねぇ…」

遣ってないって最初に言っただろ。なんでお前に気を遣うんだよ私が。マツバには多少気を遣うかもしれないけどお前には遣わねーよ。推定ニートのミナキくんとは同じ土俵だからな。フェアな関係なので。人格面では私がちょっと負けてるかもしれないけど。その差が一番痛い。

「私…もっと大きな夢があるから…」

とりあえず夢の話をしておけば誤魔化せると思っている私は、苦笑まじりにそう告げた。
価値観は人それぞれである。バリバリ働きたいという人もいれば、私のようにニートに重きを置く人間もいる…スイクンを追う奴もいれば、追い払いたい奴もいる…それが…それが世界だ…!私は学んだ。やたら伝説を欲しがる男子を冷ややかな目で見る女子の気持ちを。
まぁでも本当にそれを好きな人が報われる世の中だといいよね…とは思うな。もちろん相手の気持ちが一番大事だけど。その点ミナキくんはしっかりしていると思うので、ガチでスイクンに拒絶されるまでは頑張って走り続けてほしいって感じだ。いつか二人がレッドカーペットを歩く日を想像しながら、私はミナキの肩を強めに叩く。

「だからミナキくんも…なんか…頑張れ!応援してる…」

語彙/Zero。奈須きのこもドン引きだな。
脳内でこれだけべらべら喋ってるのに口に出すと二十文字以内で収まってしまうというオタク全開のコミュ力を披露すると、さすがに聞くに堪えなかったのか、スイクンは冷たい視線を私に送り、そのまま立ち去った。あれだけ熱い撮影会を繰り広げたとは思えない冷淡な態度に、やっとミナキも私とスイクンの関係を理解したのか、呆れたみたいに笑っていた。

「…伝説のポケモンより大きな夢か…レイコらしいな」

コメディアンのように肩をすくめたミナキに、お前は私の何を知っているんだと思いつつも、夢について突っ込まれるとまずいので適当に笑っておいた。スイクンよりニートが大事って言ったらさすがの温厚なミナキくんもマジギレするかもしれねぇ。ごめん。先に謝っとこう。
今度こそお開きだな、と閉廷の気配を感じ、別れの挨拶をしようとしたのだが、最後にミナキくんは手を差し出したので、求められるがまま私は握手に応じた。スイクンは相変わらず自由に水辺を駆け巡っていくけど、撮影を終えた私たちのストーカー劇はこれにて終了…もはや彼が再登場する事もあるまい。ほんの少しだけ寂しさはありつつも、どうせ番外編で会うと思ったらそんな感情は消え去った。あと五年は出なくていいぞ。

「ありがとう」
「別にお礼を言われるような事は何も…」
「ますます惚れ直したぜ…」

いつから惚れてる設定だった?発言が適当すぎだろ。冗談か本気かもわからない絶妙なミステリアス加減に引いていたら、ミナキはスイクンが去った事を思い出したのか、こうしちゃいられない!とマントを広げ、向こうから私に別れを告げた。

「ではさらばだレイコ!また会おう!」
「そのうちね…」

五年か…十年後か…と同窓会気分でいる私と固い握手を交わし、そのままミナキは手の甲にキスをして走り去っていった。不審者慣れしている私もこれにはさすがにぎょっとし、英国紳士でもない埼玉の変人を見送りながら、初めて会った時の事を思い出す。
そういや初対面の時も同じことされたな…あの時は塔の下に落ちたりスイクンがカメラに寄りまくったり色々あってそれどころじゃなかったけど…普通に通報案件だと思うぞ。相手が私じゃなかったら逮捕されてただろうな。イケメン相手だと大体まんざらでもない自分に引きながら、やっと原チャリに乗ってハナダへと引き返す。

「キザな野郎だった…」

すでに思い出と化したミナキの顔を脳裏に浮かべ、スイクンを追って走り続けるその姿を想像し、ストーカーを一掃できた喜びでついつい微笑みを浮かべてしまうレイコであった。
終わったと思ったツンデレストーカー事件が、まだ未解決であると気付かないまま。

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