レイコ様

この度は研究協力をご快諾いただき、誠にありがとうございます。
かねてよりご活躍は聞き及んでおりました。是非一度お会いしたいと思っていたところに、お父様からお声をかけていただき、大変感謝しております。
つきましては、弟子よりポケモン図鑑をお渡し致しますので、明日の午前十時、メイスイタウンの広場にてお受け取り願えますでしょうか。
用件のみとなってしまいますこと、何卒ご容赦ください。
いつかお会いできる日を楽しみにしております。

プラターヌ


「癇に障る達筆だな…」

私は歯を磨きながら、昨日もらった手紙に、もう一度目を通していた。
私の名はレイコ。騙されてカロスまでホイホイついて行ってしまった女だ。悠々自適なニート生活を送るはずが、家はグリーンに奪われ、命の恩人とかいうプラターヌ博士の研究を手伝わざるを得なくなってしまい、人生に絶望している最中である。

私…前世で戸愚呂兄だったりしたのかなぁ?そうでなきゃこの仕打ちはあんまりでしょ。
何なんだよ命の恩人って…私の知らない過去を持ち出すのはやめていただきたいわ。何で責任能力のない子供だった頃の恩を返さなきゃならないんだよ、親父がやれよそれは。研究の手伝いを快諾した覚えはねぇし、鶴の恩返しする義理もないってのに、全部勝手に決めやがって。父への憎しみがカンストしている私は、一心不乱に歯を磨き続ける。

もう…なんか疲れちゃったな…カロス来たばっかりだってのにさ。今日限り使う事のない洗面台を見つめながら、荒んでいく心を止められない。
本当ならプラターヌ博士に事情を話して、父が勝手に決めた事だからお断りさせてください…と言うのが一番いいのだろう。マジでそうだし、これは完全に人権無視だからな。父からの仕打ちを告白し泣きつけば、博士もわかってくれるかもしれない。
しかしすべて説明するという事は、命の恩人にさらに迷惑をかける事となり、その上ニートバレは不可避である。この期に及んで世間体を捨てられず、恩人と言われると無下にしづらい性格の良さを発揮してしまって、私は板挟みだった。もう何もかもが嫌だったし、そしてごちゃごちゃ考えるには、全てが遅すぎるんだよね。

九時四十五分を指す時計を見つめ、圧倒的寝坊に、もはや打つ手がない。
あと十五分で約束の時間なんですけど。なんで昨日…不貞寝した?お前この状況でよく爆睡できるよな?自分の図太さを信じられず、現実逃避のデンタルケアは捗るばかりだ。
大体なんで朝の十時なんだよ、しかも手紙で寄越すなや。戦前の人間ですか?もう言いたい事がありすぎる。でも一番言いたいのはさぁ…!

「お前が直接来いよ…!」

私は手紙を叩きつけ、弟子に図鑑を託す、という一文に、憤りを隠せない。
いや有り得ないでしょ!せめて図鑑は自分で渡すのが礼儀じゃない!?今までの博士だって確かにおかしい人多かったけど、でもそれはみんなちゃんとやってたよ!?図鑑って一番大事なもんじゃん!しかもお高いじゃん!それを…弟子て!助手ですらない、弟子!そもそも弟子って何?カロス文化何もわからねぇわ。
買った家に住めないほど忙しいのはわかっているが、どうにも不信感が拭えず、この達筆の博士にいい印象を抱けない私である。

絶対チャランポランだね。信用できねぇ。研究所に乗り込んで一発ぶん殴らないと気が済まないよ。走り出した殺意を止められず、歯もしっかり磨いたところで、とりあえずその弟子とやらには会おうと決意した。
ポケモン図鑑を受け取って…考えるのはそれからだな。弟子にごちゃごちゃ言ったってしょうがないし、やっぱ博士に直接会わなくては。

気が乗らないながらも準備をしようとしたところで、グリーンと洗面所で入れ違いになった。そういえばこいつ居たんだった…と思い出し、一体どんな施設にお勉強に行くのかは知らないが、しっかりスーツを着込んだ元祖クソガキを冷ややかに見つめ、軽口を叩き合った。

「レイコ…お前のん気に歯なんか磨いてていいのかよ?」
「重役出勤だから。そっちこそもう出んの?」
「初日から遅刻するわけにいかねーからな」

引っ越して早々ご苦労な事だぜ。チャラそうに見えて真面目なグリーンを一瞥し、最初で最後だし見送ってやるか…とヤンキーなみにだらだら歩きながら、玄関先までついて行く。

なんか…私がこうして詐欺まがいにカロスまでやって来ている傍ら、グリーンは自主的に学びに来てるってのがこう…堪えるよね。イッシュも大都会だったが、カロスも負けず劣らずの先進国である。歴史も古く、人口も多い。識字率なんて99%だ。カロスから発信される文化の数々は世界中に影響を与えてると言っても過言ではないね。
Wikiで見た知識をひけらかす私は、そんなカロスを学びの地に選んだグリーンのインテリ感に、虫唾が走ったり感心したりで忙しかった。複雑。どんどん私より偉くなるのやめてほしい。でも学び多い人生であってほしい。劣等感と老婆心がデッドヒートだよ。どうしてくれんだ。

最強の称号以外何もない私は、朝の日差しを浴び、一層旅立ちたくない気持ちに駆られながらも、玄関からグリーンを送り出す。

「まぁ…頑張って。詐欺とかスリには気を付けろよ」
「レイコに言われたくねーけど…」

正論すぎて傷付いた。こんなにつらい事はない。
うるせぇよ、と逆ギレし、ラルフローレンのロゴが入ったお高いネクタイを思わず掴んだ。決して首を絞めようとしたわけじゃない事はご理解いただきたい。

「曲がってる」

親切心からネクタイの歪みを正してやる私は、その高級な肌触りに心の中で泣いていた。
こっちはしまむらのジャージでうろついてるってのに、お前はラルフローレンのネクタイだって…?いくらすんだよこれ、万単位じゃないのか。オーキドの孫たるものそれなりの衣服を身につけなくてはならないとでもいうのか。私だって四大陸制覇したチャンピオンなのに…セキエイなんて二回も勝ち抜いたのに…この差は何なの…?自意識の違い?放っといてくれ。
意識低すぎ低杉くんと化している私の憂いなど知る由もないグリーンは、直されたネクタイを見ながら、ガチかジョークかもわからない事を言い、テンションの違いに一層憂いは増していく。

「なんか新婚みたいじゃん」

即日別居なのに?
浮かれた事をほざくグリーンの肩を無言で叩き、頼むからもう行ってくれと目頭を押さえた。新妻の真似事をしたところでここは私の家にはならない、その事実が今は重すぎたのだった。
町から出ていくグリーンを見送って、次は私の番か…ともう二度と訪れない可能性のあるアサメタウンを振り返る。

何が新婚だ馬鹿野郎。お前私の気持ち考えた事あんのか?住めるはずだった家に住めないんだぞ、それを…一人で浮かれやがって…悔しい…!血の涙を流して、やはりあのとき首を絞めるべきだったと己の甘さを憎んだ。私より出世するクソガキに情けなど無用、みんな一緒に落ちぶれようぜ。朝の十時なんて健康的な時間に集合したりしない、昼顔妻より背徳的で自堕落な生活を送ろうよ。

なんでこんな朝っぱらから…と呪詛を呟いた時、ふと隣の家の方から人の気配がした。自分が全身ジャージ女である事も忘れて視線を向けると、黒髪の利発そうな少年が立っており、一体いつからそこにいたのか考えたら、普通に血の気が引いた。

おいおい、誰だよ一体。まさか最初に訪れる町で必ず出会うという、例のクソガキパターンじゃないよな?元祖クソガキを見送ったばかりの私は疑念を抱き、そして自堕落な独り言を聞かれていなかったか冷や冷やしてしまう。
不審なジャージ女を見つめる少年は、怪しい人物かどうか見定めるみたいに口を閉ざし、ただただ視線を合わせていた。私も完全に人前に出る姿ではないので、声をかけるか、見なかった事にするか悩みに悩む。
どうせこの町とはあと数分で未来永劫おさらばだからな、どっちに出たって構わないが…防犯ブザーを押されるような事態だけは避けなくてはならない。ここは軽い会釈が正解だろうとわずかに頭を下げ、そのまま家に戻ろうとした時、何かを思い出したのか、少年は果敢にもジャージ女に声をかけた。今はただ悲しい言葉を。

「…もしかして、お隣さん?」

あと八分でそうじゃなくなる私は、溢れる涙をこらえ、彼が最初の町で出会ういつものライバルポジの子である事を、後に知るはめになるのである。
いやもう大体気付いてるけどな。玄人なめんなよ。

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