三時間前

夢の中で主は、俺の手を握って目を伏せる。尋ねるのはいつも同じ事だ。先日の出陣は、互いに与える影響がいつになく大きかった。

「…なんで助けてくれたの?」

本当はわかっているのだろうけど、主が知りたいのはきっと俺の気持ちの方だと思う。
刀として、主を助けるのは当然である。その当然が今まで出来ていなかったことが歯痒かったのだ。夢だとわかっているのに、主の問いに答えられない。
そんなの、あんたが主だからに決まってる。貴方が好きだからに決まってる。

目を覚ますと、主はいつも手を握ったまま眠っていた。激務の合間に手入れ部屋に来ては、俺の経過を見て、そのまま寝落ちているらしい。
審神者が遡行軍との戦いに出陣する事は、稀にある。先日も様々な兼ね合いから、主も過去へついてきた。任務の場所は、狭い路地だった。
護衛役を任された俺は、その日、かつてないほど任務全うしたと言っても過言ではなかっただろう。何故なら主を庇って刺されたのだから。朦朧とする意識の中で、主の涙が溢れるのを見た時、刺された傷よりも胸の方が痛んだ。あの主を泣かせてしまったのだ。俺なんかのために泣かないでほしくて、何とか手を伸ばしたけれど、そこから先は記憶がない。以来、主と言葉を交わしていない。当然だ、俺は何日も手入れ中なのだから。
そばにいるのにすれ違う毎日は、意外と悪いものでもなかった。主の手はあたたかい。穏やかな寝顔のおかげか、悪夢も見なくなった。

いま思えば、主は俺がうなされているのを知っていたのかもしれなかった。
酔い潰れて眠った時、主の独り言でよく目が覚めた。部屋にいればいいのに、わざわざ居間で勉強に励む理由は、俺を案じてそばにいてくれたからだと解釈したいところである。
空になった甘酒の瓶を倒し、寝ぼけ眼で主に絡むのは、もはや日常的な光景だった。

「酒がねぇぞー」

分厚い冊子から目を逸らさない主の横に座ると、手慣れた動作でタブレットを渡される。

「自分で注文して。無駄遣いはやめろよ」

税金なんだからな、と低い声で念を押した主と、ようやく目が合った。大宝律令制定で租庸調が…と税の成り立ちを解説し始めた主の声を聞き流す事へは、特に罪悪感もない。説明すると早く覚えられる、とか何とか言って勝手に喋っているだけなのだ。
俺たちが過ごしてきた長い時間を、主は伝聞でしか知る事ができない。それを気にせずにいられる人ではないから、誰もが主を慕わずにはいられない。

「…好きでもないのによくやるよなぁ、毎日毎日…」
「ん?」
「それだよ」

文字ばかりが並ぶ本を指すと、主は苦笑を浮かべる。
勉強が好きなのかと初めは思った。でも正直全く好きじゃないと言っていたから、何かに駆られる姿に、照れを隠すような皮肉を言いたくもなる。

「なんかやらないと不安で…」

普通の事みたいに言った主は、臆せず俺を見た。

「何も知らないと怖いし…」

溜息の中に、僅かな緊張があった。いつも自分だけが怯えていると思っていた俺は、途端に惨めさで押し潰されそうになる。

「ゴキブリがいるじゃんか」
「…はぁ?」
「あいつらって小さな隙間が存在しない部屋には出ないんだって。だから私は全ての家具を買い換えた…奴らが潜む隙間を作らないように…」

大真面目に語る主は、いまいちピンとこない例え話のあとで、税金の無駄遣いを自嘲した。

「つまり知識さえあれば不安も減るって話だよ」

なんだか俺に向かって言っている気がして、返事ができなかった。タブレットを奪い、甘酒の注文数を半分に減らされた事も、酒に逃げている事を指摘されているように思えた。
主は強い。恐怖や不安から逃げず、解決に向けて走る事ができる。この人となら、何かを成し遂げられる気がしてくる。この人のためになら、変われるんじゃないかと思えてくる。そういう強さを持っている。
だけど、主を想えば想うほど、失う事が怖いのだ。

「ま、なくならないけどな」

最後にそう言って、主は本を閉じた。そのまま横になり、寝息を立て始める。長々と語ったわりに諦めたような事を言うから、こっちは振り回されてばかりだ。
不安はなくならないのか。これだけ勉強して立派な戦績をおさめても、ずっと恐怖が付き纏うのか。それは真実だと思うし、きっと俺にも言える事だろう。日本刀なんて初めて触ったわと呑気に笑っていた人が、命を懸けて戦う日々に身を投じるというのは、一体どんなものなのか、段々と鮮明に見えてくる。

「…俺も怖いんだ、主」

眠っていてもそうでなくても、どうだってよかった。こっそり触れた指先は、先程まで冷たい紙を捲っていたとは思えないほど、あたたかかった。


次に目を覚ました時、主の姿はなかった。日が沈んでいるから、夕飯時かもしれない。
手入れ完了まであと三時間と出ている。ようやくここから出られて何よりだが、どんな顔をして主に会えばいいのか悩んでしまう。当然酒は抜けてるし、泣かせてしまった事がわりと尾を引いていた。庇った上に泣かれるなんて散々だ。体もそうだけど、心までこんなに痛むなんて知らなかったのだ。
呆然と天井を眺めていた時、廊下から足音が聞こえてきた。主だ。決して軽やかではない足取りに、どうするか悩んで、結局寝たふりを決め込んでしまう。まだ勇気が出なかった。主の問いに答える勇気が。
襖が開き、直後に声が響く。

「あと三時間…意外とあるな…」

主は独り言が多い。手入れ時間を確認して呟くと、すぐそばに座り、躊躇いなく手を握った。滑らかな掌を握り返してしまいそうで緊張した。

「不動」

心音が聞こえるのではないかと懸念する俺は、主の優しげな声に、少しずつ落ち着きを取り戻していく。忙しなく指が動き、その温度にいつも心動かされた。
しばらく手を取ったまま、主は黙っていた。勉強中ですら鼻歌を唄っているというのに、やけに静かでたまらない。狸寝入りに気付かれやしないかと意識するあまり、息の仕方を忘れそうだった。
あと何時間の猶予があるのだろう。三時間は意外と短いと思う。待ちくたびれるほど、俺を案じてくれているのだろうか。主はきっとそういう人だ。たくさん勉強して不安を潰したのに、俺のせいで泣かせてしまった。それが何よりつらい。主を不安にさせたくない。こんな怪我は何でもないのだと、証明して見せてやりたい。
強くなりたい。本当はもっと、貴方のために生きていきたい。

「…なんで助けてくれたんだよ」

夢と現実が交差した時、俺は薄っすらと瞼を開けた。俯く主がどんな顔をしているのか、わからない。

「まぁ主だから当たり前か…」

自己解決した主の答えは、もちろん正しかった。刀という物をわかっている人だと思う。主を守るのは当然の事だし、泣かれるほど大事に思われてるなら、本望でしかない。だけど。
だけど、それだけじゃない気がするんだ。主を守りたいのは、あんたが優しくて、真面目で、あたたかい手をしているからなんだ。

「うっわ!」

静かな横顔を見つめていたら、不意に主と目が合った。相当驚いたのか飛びのいて、乱雑に手を払われる。自分から触っておいてとんでもない反応だ。

「起きてたなら言えよ!びっくりしたじゃん!」

どうやら狸寝入りには気付かれていなかったらしい。照れを隠すみたいに怒鳴られたが、元気な姿を見るとホッとした。溜息をつきながら座り直す主に応えようと、少し体を起こしたけれど、それはかなり大袈裟な手つきで止められてしまった。

「起きなくていいよ…あと三時間なんだから」
「あと三時間ならもういいだろ…」
「全く良くない。もう治ったからと言って薬を飲むのをやめたせいでインフルエンザウイルスは年々強くなり、あのパンデミックを引き起こしたんだ」

関係あるのかその話は。
よくわからないが結局押し通されてしまい、再び布団の中から主を見上げる事となった。かしこまって正座をする姿は、なんだか違和感があって、思った通り気まずい空気が流れ出す。

「…元気になってよかった」

呟く主に、こっちの台詞だと返したくなる。

「お見舞いに何回か行ったんだけど…」
「…知ってる」
「えっ」
「何回かじゃなくて…毎日来てたじゃないか」

どうしてか回数を詐称する主を訂正すれば、驚愕の表情から不貞腐れた態度になり、冷たく目を細める。

「じゃあずっと寝たふりか」
「いや、そういうわけじゃ…」

欺かれたと誤解する主に、何と説明するか悩んで、額に手を当てた。
俺が起きてる時に、あんたはずっと寝てたんだ。畳の上で丸まってただろ。起こせるわけがない。
手を握ったまま目を閉じると、主の夢が見られるんだ。なんで助けたのかって何度も聞かれた。でもあれは、現実だったのかもしれない。生死の境で見た主は、夢にしてはあたたかすぎたから。

「…夢だと思ってた」

病み上がりだからか、言葉が簡単にこぼれていく。

「夢なら覚めなきゃいいって…」

悪夢ばかりを見ていた。怪我をする前は、本当に眠るのが怖かったのだ。
炎の中で燃えるのは、いつも俺の大切なものだ。それがいつしか本丸になり、ついには主が業火に焼かれ、苦しみが深くなると共に、炎も勢いを増していく。また救えないのかと、何度も何度も絶望を繰り返す。
そんな日々が、急に終わった。主の手を握っていると、夢と現実の境がわからなくなるくらい、どの時間も穏やかだったのだ。常に主の姿があり、そばにいるだけで幸福だった。
しかし俺が夢に浸れば浸るほど、主は自分を責めてしまう。

「私は早く覚めてほしかったよ」

俯いた主の目が、わずかに揺れる。

「嫌な夢ばっかり見たし…」

また泣くんじゃないかと思うくらい、それは深刻な響きを孕んでいた。ぎょっとして起き上がり、悪夢の恐怖を痛いほど知っている俺は、強く主の手を握る。

「…夢は夢だ、主」

顔を上げた主は、泣いてはいなかったけど、俺の望む表情でもなかった。自分に言い聞かせる言葉は、思いのほか悲痛に聞こえるのかもしれなかった。

「主が無事で…よかった」

紛れもない本心を告げた時、とうとう主は涙をこぼしてしまった。らしくない事なんてするもんじゃない。いつもみたいに管を巻いていれば、主は泣かずに済んだはずだし、他の奴ならきっと上手くやれるんだ。俺はダメな刀だから、後悔してばっかりだ。

「ダメ刀でも…あんたを守るくらいなら…」

ダメじゃないよ、とすかさず主は言ってくれる。涙を拭う仕草に、感情が込み上げた。

「俺、あんたが…」

感極まったけど、好きだ、とは言わなかった。さすがにそのくらいの理性はあった。素面なのが珍しいのか、主は茶々も入れずにこちらを見つめていたため、急に羞恥心が芽生えてくる。二人きりで手を握っている事よりも、心の内を明かした事の方が、俺にとっては大事件だ。何もかもをごまかすべく、咄嗟に声を荒げる。

「さ…酒」
「…はぁ?」
「見舞いに来るなら!酒くらい持ってきてくれてもいいんじゃないのか?」

いきなり話を変えた俺に、主はもちろん訝しげな表情を向けた。元気になった途端酒の話なんて、呆れられて当然だろう。ただ、おかげで涙は止まったらしい。さめざめと泣いているより、呆れ顔の方が余程いい。
頭から布団を被り、無理やり会話を終わらせて、残り時間を寝て過ごす意思を示す。
しんみりしていた主も、わざとらしく溜息をつき立ち上がった。二人で過ごす最後の夜に名残惜しさはあったけれど、ここで寝ている限り、主は自分を責め続けるだろう。誰も悪くないと知っていながら、やり場のない感情を燻らせる。取り除けない不安を増やしたくはない。その怖さを俺はきっと一番知っている。
畳が軋む音のあとで、誤魔化した会話への返事が真面目に返ってきた。

「…三時間後に用意しとくよ」

病み上がりにどうかと思うけど、とわずかに怒りながら、それでも世界一優しい声だった。

「待ってるからね」

不思議と、主がどんな顔をしているか俺にはわかった。戸を閉め、廊下に響く足音を聞いていたら、こっちが泣きそうになってしまう。
三時間でこの気持ちをやり過ごせるだろうか。主と顔を合わせたら、また舞い戻ってしまうのではないか。主の全てが、いつだって気持ちを溢れさせる。もう泣かないでほしい。主が泣かなくて済むように、奮い立つ勇気が欲しい。
三時間後に出された酒を、俺は飲まずに置いた。その瞬間、主の不安をわずかに取り除けた事が、何より誇らしく思えたのだった。

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