馬・肆

刀剣連中のいない本丸は、静かでのどかだ。畑の収穫に総出で向かってもらっている間、私は果ての見えない敷地で、黙々と除草剤を散布していた。無心になれるひと時だった。

本丸の敷地は、とにかく広い。庭があり畑があり、あとは何もない草原や荒野や森が延々と続いている。特殊な空間らしいが、その無駄に広い土地のせいで雑草が生えまくり、夏場は虫が大量発生するという地獄が完成してしまっていた。
今年こそ快適に過ごそうと、私は近場の草を根絶やしにする事に決めた。散粒機を背負い、完全に作業員の出で立ちで働いていた私の目に、異質な光景が飛び込んできたのは、ほとんど除草剤を撒き終えたあとであった。

「え」

休憩するか、と機械を止めた時、奴は突然現れた。数メートル先に動く何かが見え、それが馬だと気付いた瞬間、全身の血の気が引いた。草原で寛ぐ姿に、私は一人パニック状態であった。

…え?なんで馬?

のんびりしている茶色の動物は、どこからどう見ても馬であった。そして私はすぐに、本丸で管理している奴が逃げたのだと思い至って、慌てて道を引き返した。焦らずにはいられなかった。

馬だ、馬が逃げてる!誰だよ今日当番だった奴!ちゃんと小屋閉めとけよ!
杜撰な管理にキレながら、しかしあんな馬いたかな…?と記憶を呼び起こし、違和感を拭えないまま、とりあえず本丸に向かった。
確かに何頭もいるけど…でも私…わかるぞ馬の顔くらい。伊達に可愛がってねーからな。
何かおかしいと感じながらも門をくぐり、唯一待機していた刀剣男士を呼びつけ、足を馬小屋の方へ向けた。

「大典太!」

今日の留守番は、大典太光世であった。あとはみんな畑だ。全員で行くなんて滅多にないんだけど、今日収穫作業を終わらせないとやる暇がないので、止む無く当番を割り振ったのだが、そんな時に限ってトラブルである。本当に運がない。何が不運って人選が微妙だからだ。

「どうした」

私の声にただならぬ気配を感じたのか、大典太は珍しく慌てた様子で走ってきた。反応速度は悪くないぞ、とどこから目線で思い、悠長にしている暇はないので、雑に状況を説明した。

「馬が逃げた!」
「馬?」
「でも何か違う気がするから私は小屋を確認してくる。お前は馬を追ってくれ、東の方ね!」

散布作業用のマスクとゴーグルを投げ捨て、私は審神者らしく大典太に命じた。実に簡潔的な指示だ、この仕事も板についてきたと感じるよ。
しかし刀剣男士が板についてない大典太は、わかった、と言えばいいものを、この非常時にごねやがったので、私の焦りはさらに募る事となる。

「俺が行けば…恐れて逃げる」
「いや知らんがな!見失うなよ!」

うるせぇ!と一喝し、私は無視して馬小屋へ走った。いいからとりあえず行けよ!こんな広い土地でどっか行っちゃったらまずいだろうが。
非常事態である。今は捕獲までする必要はないが、馬の動向は確認しておかないと、あとで色々と面倒なことになりそうだ。そもそも馬が心配だし。
大典太が行ってくれたと信じ、私は馬小屋に駆け込んだ。走りながら数を確認すれば、驚いた事に、本丸の馬は全て揃っていたのだ。
今度はちゃんと止まって数え、それでも変わらぬ顔ぶれに、私は疑惑を深めていく。

えー…!?どういうこと?みんないる。一頭も逃げてないんだが。
やっぱり見知らぬ馬だったんだ。どうりで違和感があると思い、しかし余計に謎めいた事態に陥っていく。

ど、どういう事なんだ…一体何なの?どこからやってきた?そもそも外部から何かが侵入するのは不可能なはずだぞ。少なくとも政府からはそう説明を受けている。
また適当ぬかしてんのか?と日本政府への不信感が増したところで、とりあえず馬具を持って大典太の元へ向かった。ここで悩んでても仕方ない。何か怖いし、このまま野放しにするのはやばそうだからな、作戦変更だ。捕まえよう。心許ない二人で!

行ったり来たりで息を切らす私は、遠くにいる馬と、それを見守る大典太を確認し、ほっと胸を撫で下ろした。よかった、ちゃんと行ってくれたんだ。
外に出て仕事をしてくれた大典太に礼を言いながら、この不可思議な事件を説明する。

「ありがとう…ちょっと、なんか、よく…わかんないんだけども」
「…大丈夫か」

息切れでまともに喋れない私を案じる大典太に再度礼を言い、意外と優しいな…と感動しながら深呼吸する。

「うちの馬が逃げたかと思ったんだが…どうも違うみたいだ」
「どういう事だ」
「さぁ…私にも何が何だか…」

馬は全部いたんだよね、と言うと、大典太も一緒に首を傾げ、異質な状況を怪しんだ。ここで、数え間違いじゃね?とか言われたらキレてたところだが、私の言葉を信用してくれているのか、疑うような言動はなかった。本当に優しいじゃん。見直したよ。

「とにかく、放ってはおけないよ」

私は持ってきた馬具を握りしめ、おとなしく歩いている馬を指差した。

「だってあの辺、除草剤撒いたからね!」

私は現場作業員の風貌を主張しながら、動物にとって除草剤が毒でしかない事を語った。
どこの馬かは存じ上げないけど、そんな事は問題じゃねぇ、除草剤被害に遭おうとしている動物を見過ごすなんて真似、この正義の審神者にできるとお思いか?答えはノーだ。あとやっぱ普通に怖ぇし。突然馬が現れるなんてホラーすぎるだろ。

取っ捕まえて政府に確認してもらおう、と計画する私は、大典太に馬具を差し出し、丸投げの意向を示した。

「というわけで本丸に連れ帰ろう。これを装着してきてくれ」

残念な事に、私は馬の扱いを知らなかった。2205年を生きる現代人だからだ。
何となくみんなが頭絡を着けるところは見ているけど、とても出来る気はしない。暴れる奴もいるし、あんなノーマークの状態じゃ絶対逃げられる。素人が下手に手を出すより、馬当番経験者の大典太に任せた方が良い、と判断を下したのだ。
期待してるぞ、と瞳を輝かせる私だったが、いつまで経っても大典太は頭絡を受け取らず、そして万事休すな台詞を紡ぎ出したのである。

「さっきも言ったが…馬は俺を恐れる」
「え?」
「だから無理だ」
「えええ…?」

マジで言ってんのか?私は絶望した。
大典太は、蔵育ちの卑屈な刀剣である。霊力が強いとかなんとかで、動物はまず近寄ろうとしないらしいが、絶対そのカタギ離れした外見のせいだろ、と私は言い捨てたくてたまらなかった。ネガティブな奴が着る服じゃねぇよ本当。

そんなぁ…と露骨にショックを受けてみても、大典太は無理だの一点張りで、完全に詰みだと突きつけられる。チャレンジさえしてくれない精神には、私の心も折れそうだった。

マジかよこいつ。病人の枕元でしか仕事しないの?勘弁してくれ。じゃあ何?私がやるしかないってこと?絶対無理だぞ、お前も無理だと思ってるかもしれないが私だって思ってるからな。負ける気がしねぇ。
などと張り合っている場合ではない。馬は呑気にうろつきながら、除草剤の撒かれた草に顔を近付けていたので、私の焦りはピークに達した。もはや頼れるのは自分だけ、そう感じた瞬間だった。

「…じゃあ私が行くから、なんかあったらすぐ来て。すぐだぞ!」

なんかって何?って感じだったが、私の身に危機が迫りそうだったら颯爽と駆けつけていただきたいので、そこは何度も念押しした。あの馬の正体もわからないのだ、怖くないわけがなかった。
そう、大典太より馬の方が断然怖い。可愛いけど、それとこれとは別というか、大典太は意外と優しそうだったから、動物たちは怖がるとしても、私はちっとも恐しくない。霊力よりむしろ捕獲に行ってくれない性格の方が怖ぇよ。

私に労働させるなんてどういう了見なんだ…と不満を抱きながら、ゆっくり馬に迫っていく。近付いてみると、どう見ても在来種じゃなくて、ますますわけがわからなかった。

ええ…?日本の馬じゃなくない?背高いしスマートだし。サラブレッドじゃね?
私は競馬でお馴染みの品種を疑い、主に偵察任務で使う本丸のサラブレッド達と比べて、その疑惑を深めていった。馬にもいろいろ種類があるため、用途で使い分けている。こいつはスピード任務用のサラブレッドに似ている気がした。

在来種なら野生化した馬の可能性もあったけど…どうなんだろう。逃げない辺り人馴れしているのか、非常におとなしく立ち尽くしている。そのわりに粗末な姿だった。
なんか…小汚いし痩せてるな…。昨日今日まで飼われてた感じじゃなさそうだ。もしかしてずっと敷地内にいたのか?広いから今まで見つからなかったとしてもおかしくないけど、でもサラブレッドが野生みたいなテンションでうろついてるのは変でしょ。まぁこの本丸がどこに建ってるのか知らないけどさ。どっかの牧場内かもしれないしな。
膠着状態のため思考が止まらず、私はテンパるあまり妙な事をぐるぐると考え続けた。

それともまさか遡行軍の刺客…?と想像し、しかし馬を送り込む意味がわからず、そもそも鉄壁の本丸だと政府は太鼓判を押していた。そう簡単に敵に場所を特定されるとは思えない。

じゃあ何なんだよマジで。この馬なに!?怖すぎなんだけど!
じりじり近づくと、その恐怖は増していった。のんびりしているように見えるが、相手は動物である。蹴られたりしたらタダじゃ済まない。馬具の装着だって時間かかるし、何事もなく終われるはずなくないか?どうすんだよ、絶対審神者の仕事じゃねぇよ。

泣き言を言いながらも、やるしかないのが現実だった。あの図体ばかりでかい蔵入り息子が役に立たないなら、私が頑張るしかないのだ。
頼むからおとなしくしててくれよ…と頭絡を握りしめ、まずは手綱を引っ掛けるべく傍に寄る。呼吸が乱れて動悸が激しくなると、馬も少し遠のいた。お互い探り探りのお見合いのようだった。

逃げられちゃう…と泣きかけた時、突然誰かが私の肩を叩いた。誰かと言っても大典太しかいないので、振り返った私は目を見開き、散々ごねた巨漢を呆然と見つめた。まさか背後まで迫っていたとは思わず、驚いて声も出ない。

「貸せ」

言われるままに頭絡を渡し、真っ直ぐ馬に近付く大典太に、結局はハラハラした。でも私の気持ちは救われた。

き、来てくれたのか…大典太…。私が死ぬほどグダグダしてたからさすがに見兼ねたんだな。素人なんだから仕方ないだろ。
役目を代わってくれたことにはホッとしたけれど、事態は好転したとは言い難いため、私の緊張はおさまらない。

だ…大丈夫かな…?ビビって逃げるって言ってたが…逃げたら絶対追いつけないぞ、サラブレッドだから。サラブレッドでなくとも追いつけない事はさておき、審神者の窮地を救ってくれた大典太には、とりあえず感謝の意を伝えておいた。

「あ、ありがとう…助かる…」

すると大典太は立ち止まり、振り返らずに告げた。

「あんたに何かあったら、外に出た意味がないからな」

かっこいいじゃねーか。それさっき言ってほしかったよ。
遅ぇんだよなぁ…と言いかけた口を塞ぎ、私は静観に徹した。下手なことを言って心変わりをされても困るからだ。

任せたぞ大典太…!蔵から脱出したアウトドアパワー、期待してるぜ…。私は固唾を飲んで見守り、ついに馬に手綱を掛けた大典太の姿に、心の中で全力ガッツポーズをした。

「怖がってくれるなよ…」

大典太はそう言いながら馬具を着けていたけれど、馬は静かなもんだった。むしろうちで飼ってる奴らよりおとなしいのではないかと思うくらい穏やかに立っており、すっかり飼い慣らされた風貌である。本当に何者なのか不明すぎて、ますます怖くなる一方だったが、大典太のお手柄で感動の方が上回った。

馬を率いる大典太は、釈然としない表情をしながらも、しっかりと任務を遂行してくれた。本丸までの道を歩き出し、私も横に並んで、今度はこっちが仕事をする番である。

「ありがとう…大典太」

礼を言うと返事を悩んでいるようだったので、私は勝手に話を続けた。

「怖がらない馬もいるって事だよ」
「…そうか」
「可愛げあるよな」

愛らしい鹿毛を見つめながら微笑み、その正体が発覚したのは、翌日になっての事であった。


戻ってすぐに、突如として現れた馬型UMAの存在を政府に確認したところ、それは普通にただの馬だった。

何でも、以前ここに建ってた本丸で飼育していた馬が逃げ出し、そのまま行方不明になっていた奴らしい。特徴が一致するので、まず間違いないとの事だった。その事件以来、馬にはマイクロチップが埋められ、GPSで居所がわかるようにしたそうだ。
結構びびったってのに、野生化した馬が誰にも見つからずに何年もうろついてただけと知って、私はホッとするやら憤るやらで感情が忙しなかった。馬よりも謎が多い日本政府には、心底うんざりである。

馬の事はまぁわかったけどさぁ…でも前ここに別の本丸が建ってた事も知らなかったし、じゃあその本丸に住んでた審神者たちはどこ行ったわけ?とか、単純に引っ越したのかな?とか、そもそもなんで取り壊したのかな?とか、色々と気になる事ができて恐怖が増したんだが、その辺の疑問には答えてくれなかったため、お役所仕事はクソである。
そうやって不信感が極限になる傍らで、良い事もあった。あの馬をうちで飼う事になったのだ。

元の飼い主へは諸事情で戻せないと聞き、駄目元で頼んだら、普通に飼育の許可が出た。検査結果も問題なかったため、我が本丸の新しい癒し動物である。
結構高齢だから戦闘には出せないけど、住み慣れた土地でのんびり過ごしてほしいからな、最後まで面倒見るよ。まぁ私が世話するわけじゃないんですけど。

本日の馬当番を冷やかしに、私は職務の合間を縫って馬小屋へ向かった。
本当は世話をしたいけど最近は暇がなくて、もっぱら観賞用と化している。ペットセラピーは偉大だと思う。書いても書いても終わらない報告書も、何となく終わる気がしてくるからだ。
気がするだけなのはさておき、ちゃんと当番を全うしている大典太に笑みをこぼし、私は隣に立った。

「大典太に懐いてるみたいじゃん」

小汚かった謎馬を洗う大典太は、私に一瞥くれたあと作業に戻った。
彼の言う通り、他の馬には露骨に避けられていたけれど、共に連れ帰ったこいつにだけは、唯一近寄って愛想を振りまかれていた。誰にでもそうかなと思ったが、私に対しては無なので、大典太を気に入っているように見える。こっちはこんなに馬を愛しているのに…1/3も伝わらないんだね。まぁ世話しないからだろうな。つら。

「…気のせいだろ」
「でも怖がってないよ」

照れ隠しなのか、否定する言葉を投げたあとで、大典太は黙り込んだ。仮に懐いてないとしても、恐れられていないのは確かだ。おとなしくブラッシングされる馬は、心なしか表情も穏やかに見え、まさにウマが合う状態だと言えよう。
お互いのためになったんじゃないか?と満足する私に、大典太はしばらくして、謎の言葉を投げかける。

「あんたに似てるよ」

いきなり馬似と言われた私は、正直感情が追いつかなかった。どこが?と問いかけずにはいられず、まさか顔の話じゃないだろうな…と頬を触って、赤兎馬みたいな事態になってないか確認した。大丈夫だ、声も緑川光になってないし。
じゃあどういう意味だってばよ!と問い詰めると、大典太は手を止め、わざわざ私の前に立って言った。

「俺を恐れない」

初見はびびったけどな…と正直に告白するのはやめておいた。だってどう見てもチンピラだろ。

そんな理由か…とホッとし、知らぬ間に赤兎馬になってるわけじゃなかったことにも安堵して、私は露骨に大きな溜息をつく。
お前にびびらない奴はこの本丸にならいくらでもいるだろうけど、でもそうじゃなく、生身の人間や動物を特別に思える気持ちは、現代人の私にも理解できた。そうじゃなきゃ馬を可愛がったりしないのだ。

すると大典太は少し笑って、ブラッシング作業に戻っていった。この時、自分の言葉が何とも意味深な響きを孕んで戻ってきた事に、私はしてやられた気分になるのだった。

「可愛げもあるって事さ…」

揶揄うような言い草に肩をすくめたものの、照れを隠し切れなかった私は、反論もできず去るしかないのである。

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