ずっと酔いが回っていた。おかげで主の顔をちゃんと見たのは、顕現から数日経った頃だった。
庭で眠りこけ、目が覚めたら夜中だった。あまりの寒さに、何時間も寝ていた事を驚く暇もない。酒が抜けたせいで身も心もつらく、吐き気を覚え、ふらふらと池まで這っていく。
早く酒を、と気持ちが急いた。酔っていないと嫌なことばかり考えてしまう。いつも澄んでる池の水のように、精錬な気持ちでいたいと思うけど、踏み出させてくれる存在は、皆いなくなってしまった。

「ここで吐くな!鯉がいるのに!」

ぼんやりと池を眺めていると、いきなり髪を掴まれた。そのまま引っ張られ、後ろに倒される。真夜中だ。何が起きたかわからなかったし、髪も抜けるかと思ったし、月明かりの中で怒る若い女は、鬼のような形相で迫っていたので、まだ微睡みの中にいるのかと錯覚した。
畑仕事で使う桶をそばに置かれた時、やっと主の顔をはっきり見た。鬼の形相は解け、しかし複雑そうな表情のまま、吐くならこれに吐けと白い息を漏らす。夜中に徘徊なんて変な女だ。融通の利かなさそうな人だと感じていたけど、生活が規則正しいわけではないらしい。
ダメ刀より鯉の方が大事か、と悪態をついて、再びうずくまる。動くのも億劫だったし、何より今は主に構われたくなかった。何かしてくれるなら酒を持ってきてほしい。酔いが覚めるのが怖い。目を閉じると嫌なものが見えてきて、主の顔も歪んでいくのだ。

「…中に入ろう。風邪引くよ」

先程の剣幕とは打って変わって、今度は優しく声をかけられる。心配されている事だけはわかった。どういう意味で心配してるかは知らないけれど。
放っといてくれ、と声を荒げたら、案外早く引き下がり、主がそれ以上話す事はなかった。何となく、呆れられている気はした。ダメ刀なんてそんなもんだろう。主も審神者になってまだ数日と聞く。出だしから俺なんかを引いて、本当に運がない。
主が立ち去るのを待っていると、不意に温もりが降ってきた。首にかけられた布は、あとで聞いたらマフラーというものだったらしい。今の今まで主が巻いていた。思いがけず人の体温を感じて、忘れようとしていた事が、沸々と蘇りそうになった。
返そうとしたけれど、主はすでに池の向こうである。首元だけが温かくて、どうしようもない気持ちに駆られた。どうしたらいいかわからないのだ。
年相応の心身で、何もかもが未熟な主である。鯉の心配ばかりだし、刀を放置してさっさと部屋に戻る人である。何を考えてるかわからないけど、温もりだけは持ち合わせている。それがひどく、心地良い気がしてならなかった。


修行から戻っても、主は至って普通だった。そりゃ最初こそ、どちら様?って反応だったが、そんなやり取りは一瞬で終わった。今も昔も何も心配してないよ、と言ってくれる主を、俺こそ今も昔も変わらず慕っている。
酒が抜けても悪夢を見なくなった。主が修行を許可してくれたおかげだ。それ以上に、この人のために使命を全うしたいと思えたから、修行に出たのである。
主は、いつも誰かの救いになっている人だ。本人は気付いていないのか、とぼけているのか知らないけど、前は言えなかった事を、これからはちゃんと伝えていきたいと思う。当の主は変わらず鯉を大事にしているが、同じくらいかそれ以上に、ここの刀達を想っているのも知っている。

「雪合戦なら他所でやれよ!鯉に当たったらどうしてくれんの!?」

雪が積もるのも数度目だというのに、短刀や、はしゃぐにしてはでかい連中も、毎年遊び呆けている。主はいつも池の番人と化し、鯉の生活を守っている。
刀達を追い払った主は、余程慌てて来たのか、薄着で息を切らしていた。鬼の形相のおまけ付きだ。生き物を大事にするのは良い事だと思う。自分以外の何かを愛せる人なのだと、そう感じて安心する。

「風邪引くよ、主」

いつかとは立場が逆になった事がおかしくて、思わず笑うと、主も歯を震わせながら口角を上げる。皮肉を言うだけでも寒そうだ。着込んでいる俺を一瞥し、池の周りに誰もいなくなった事を確認すると、真っ直ぐ歩いてきた。

「よくこんな寒い中遊んでられるよ…」

肩をすくめたあとで、俺の首に巻かれたものを引っ張った。

「こっちはマフラー取られたまま返ってこないってのに」

冗談めかして言う主に、随分な言い草だなぁと苦笑した。取ったんじゃなくて貸してくれたんじゃないか。返してないのは本当だから、そこは強く出られないが、主も別に取り返したいわけじゃない事はわかっている。
修行に出る前、マフラーを主に預けた。あの日からずっと持っていたのだ。どうしても手放せなくて、触れると温かさが不思議と戻ってくる気がして、何度も握りしめた。これを取りに必ず帰ってくるから、持っていてほしいと頼んだのだ。そして再び俺の元に戻ってきているわけだから、これは俺のもので間違いないと思う。

「残念だけど、主の頼みでも渡せないな」

マフラーを巻き直し、池で鯉が跳ねる音を聞く。毎日決まった時間に、主から直接餌をもらう幸せ者の鯉だ。でも俺は鯉でなくてよかった。だってどんなに可愛がられても、鯉はマフラーを巻けはしない。

「大事な人にもらったものだからね」

借りてるの間違いじゃない?と笑う主は、俺がどれだけこれを大切にしているか、きっと気付いていないだろう。

/ back / top