馬・弐

馬が怪我をした。敵の銃兵に気付いた時には、脚を撃たれていた。今まで通り走れるかわからないと聞き、途方も無い絶望に覆われて、目の前が真っ暗になってしまう。この本丸で一番疾い馬だった。薄く茶色い毛の、目の大きな馬。軽快な蹄の音が、耳について離れない。

馬は、なんかすごいと思う。格好いいし、賢くて可愛い、それに疾い。飼育の手間はかかるが、それだけの価値が充分にある。初めて乗った時、一気に景色が高くなって、この憂鬱なほど広い本丸も、なんだかいいものみたいに思えたのだ。振動を感じながら、地面を蹴る音を聞き、風を浴びていると、清々しい気持ちになった。走るってこういう事なんだ。あの時の気持ちが蘇れば蘇るほど、それを失う衝撃が重く、心が潰されそうになる。走れなくなるという事が、悲しくて悔しくてたまらない。
審神者なんかをやっていると、時々感覚がおかしくなっている気がする。生き物の脆さを忘れそうになる。自分の打たれ弱さも忘れそうになる。

空になった馬小屋に毎度入り浸っていると、さすがに私を案じて来客が訪れた。私が馬を想うように、刀達もまた私を想ってくれているのだろう。どっちが主だかわかりゃしない。
足音の主が誰かはわからないまま、私は勝手に喋り出す。

「一番疾い奴だったんだよな…」

藁の匂いの中で呟くと、独特の返事のおかげで、相手の正体はすぐにわかった。

「俺の方が疾ぇかんな」

それはないだろ。馬相手に競うなよ。
振り返った先の豊前江は、冗談を言っている顔ではなかったので、マジかよと私は肩をすくめる。真剣に取り合うべきか悩んで、結局やめた。返事もせず小屋から景色を眺め、最速の男が隣に立った事も、咎めはしなかった。

「俺も馬は好きだよ」
「疾いから?」
「負けねーけどな」

何故張り合うのか。
強い自負はさておき、本当に豊前江が負けないなんて事になったら、今はただつらいのだ。元気になって戻ってきて、この音速の貴公子を猛スピードで抜いてほしい気持ちしかない。俯きながら溜息を吐き、やめてよ、とつい言ってしまった。頑張れ、と軽口を叩ける状態だったら、元よりこんな場所にはいないのだった。

「疾くたって…避けれないものもあるよ」

今回は、乗り手が良かったのだ。私の目には映らなかった鉛を、咄嗟に感知した事が明暗を分けた。ただいくら骨に異常はないと言われても、脚は馬の命である。肉を裂き、血が流れ、残った三本の脚が忙しなく動くのを見たら、もう駄目だった。道楽で飼っているわけじゃないと知らしめられたのが、結局は一番堪えたのかもしれない。割り切らなくては、と思えば思うほど、風を切る音が聞こえる気がする。

「俺は避けれっから」

また張り合ってるし。

「だから、俺の心配はすんなよ」

二回肩を叩かれ、思わず見上げると、やっぱり冗談を言ってるようには見えなかったから、こいつマジかよと再び眉をひそめた。しかし冗談でない事が、今度は救いだ。そうであってほしいと思うし、そうじゃないと私は嫌だ。
生き物は脆いけど、刀剣達は強かに生きている。狭間にいる私は、まだ悩んでいる。
妙な慰め方をされ、そして妙に感極まった私は、どうしても涙を堪えられなかった。私が馬を案じるのと同じくらいの気持ちで彼が私を案じているのなら、泣けないはずがなかった。

「豊前江はそのままでいて…」
「お?よくわかんねーけどわかったよ」
「何でだよ…わかれよ…」

マジで何しに来たんだこいつは。いよいよおかしくなりそうだったので、戻ろう、と豊前江の手を引いた。感傷に浸るテンションではなくなったのだ。明日はどうかわからないが、今日はもう馬小屋へは行かない。何もいない空間で悪い事ばかり考えるより、帰ってきた時の事を考えようと思えた。私にはその責任があるし、道楽で飼っているわけじゃない。疾い馬が疾いままでいられるように、戦っているのだ。疾い刀が疾いままでいられるように戦っている時も、まぁあると言えばある。

「よし!じゃあ走っか」
「いやいいよ、すぐそこだし…」
「しょうがねぇなぁ」

何がしょうがないんだ、と豊前江を見上げたら、いきなり体を抱えられた。うお、と野太い悲鳴を上げた直後、彼は走り出し、私は落ちないようにしがみつく。そこからそこまでの距離を何故わざわざ走るのか。そしてどうして私を巻き込むのか。
もう自分で走るからいいよ、と言おうとして、馬よりも低く、馬よりも揺れ、そしてやっぱり馬より疾くはない景色に、私は言葉を止めた。地面を蹴る音は、もちろん蹄じゃない。風だってなんか生温い。だけど胸に迫るようなスピードが懐かしくて、息が詰まった。また泣きそうだ。

「…馬の匂いがする…」
「馬小屋にいたかんな」

まぁそれはそうなんだろうけど…。情緒のないレスポンスに調子が狂い、乾草と藁の混ざった匂いが、さらにそれを上塗りする。

「…私も馬好きなんだ」
「はは、知っちょんちゃ!」

今さら!みたいに言われ、でも今のは馬だけの話じゃなかった事を、わざわざ伝える気にはならないのだった。

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