鯉・弐

夏とは言え、池は冷たかった。服に染み込んだ水の感触を忘れられないのは、ああやって徐々に浸食していくものを知っているからだろう。

「あー…怠い…」

快適な冷房の中だというのに、私は倦怠感に耐えかねて呟いた。そこはかとなく具合が悪いと朝から感じていたが、安静にしていても快方に向かう様子はなく、重い体を持て余している。一応原因はわかっていた。昨日の夜池に落ちたせいだ。

出陣もなかったし、今日はいろんな事をサボってしまった。具合が悪い時くらい別にいいだろうとは思うけれど、審神者は無休がデフォルトである。忙しい方が考え事を回避できて良かったのだと思い知らされ、朝から安静を取った自分を憎く感じた。いや、この場合責めるのは自分ではなく、相手なのかもしれない。
しれっとやって来た元凶は、池に落ちた私を追い、自らも濡れていた。でも普通に元気そうだ。羨ましいぜ。

「おや、ぬしさま…顔色が」

居間でだらだらしている私を見つけた小狐丸は、いの一番に体調不良を察した台詞を吐き、近寄ってくる。怠すぎて今日は鏡も見てないけれど、そういえば熱っぽい気がしなくもないから、燃え滾った色をしているかもしれない。
でも気分はブルーなので、適当に茶化した。

「悪い?青色?」
「いえ、雪のように真っ白です」

赤ですらなかった。血の気が引いてる方だと言われ、池の冷たさを引きずっていると感じ、うんざりする。単純な人間だ。すぐ顔に出るし体に出るし態度に出るんだもんな。
今朝から風邪気味でね、と説明し、でもそんな事を言ったら小狐丸は気にするかもしれないな、と少し思った。そうでなくとも昨日は何度も謝られた。自分のせいで申し訳ない、と。
確かに池に落ちたのは小狐丸のせいだけど、でも私が根を張って生きてればよかった話なので、本当はきっと私のせいなんだ。場数も踏んだし何事にも動じないと慢心していた私が悪かった。
案の定彼は真面目な目つきをし、真っ白で冷たい私の顔を見つめた。

「昨夜のこと、気に病んでおられるのですか」

昨夜、というのは、話があると呼び出されてから、衝撃のあまり私がドボンしたまでの期間だ。夜の庭に連れ出されて蛍を見ながら、これは平家蛍だね、うちにいるのは源氏の宝刀だけどね、なんて雑談をしていた呑気な私に、投下された爆弾の事を指している。
そっちこそ気に病んでるんじゃないかと思い、私は咄嗟に否定した。思い詰めてるかどうかは正直わからなかった。池に落ちるくらいの驚きだったのに。

「いや…別に…」
「それはそれで複雑です」

面倒な奴だな。気遣ってるこっちが滑稽に思えるじゃねーか。
小狐丸ってのは大体いつもこんな感じで、本心なのか適当なのかわからない私は、とにかく苦悩させられていた。しかし苦悩するのもアホらしいと感じる態度で来られるので、次第に悩む事をやめつつあった。それこそが小狐丸の狙いだとも思うし、願いだとも思う。一周回って純粋、みたいな。素直な奴だ。おかげで私もわりと正直になれるのだ。

「ぬしさまが望まぬのなら、どうぞお忘れください」

そして妙に優しい言い回しをするから、私は自分の心が狭いような気がしてしまって、すごく嫌になる。

「無責任だね、簡単に言うなよ」

刺々しい言い方になってしまったが、まぁまぁ本心であった。忘れろって言うくらいなら最初から黙っててくれたらいいのに、という正論を振りかざしたくなる。足を滑らせて池に落ちたんだぞ、もはや忘れる術は消え去っただろ。
衝撃的な記憶として永遠に刻まれるだろうな、と水の感触を思い出し、冷えた体は元に戻ったけど、心は冷たいままかもしれないと感じた。何だかんだと私は、彼らの言う愛情ってやつをいまいち信じられないので、いつも無神経な事を言ってしまうのだ。憐れな刀の本能が、そう思い込んでしまうのだと信じたいのだった。

「そっちが私を嫌いになる努力とかはしてくれないわけ?」
「はい。するだけ無駄ですから」

やっぱり憐れだな、と思う。

「ぬしさまが私を想ってくだされば、解決するやもしれませぬ」
「それこそ無理でしょ…」
「そうですか」

テンポよく会話が弾むせいで、つい感情のままに答えてしまったが、さすがにあんまりな言い草だったかも、と私は反省した。小狐丸が落ち込む素振りなどを見せないせいで、余計に罪悪感が募っていく。
そうですか、の一言は、それも仕方がないと言わんばかりの、清々しい相槌だった。むしろそれでも想いが変わらないところに、恐怖の類すら感じてしまう。私の気持ちも、自分の気持ちもどうにもならない事をわかっているみたいだ。どうにかしてもらわないと私は困るが。

「ごめん、ストレートすぎたな…でも本当に…誰かを特別視するのって無理だと思うから…」

私は誠実に、自分の立場上の問題を説明して謝罪した。数多の刀剣を束ねし審神者である。一人、いや一振りを贔屓するのは、性格的に無理があった。平等を保つ事が正道だと思っているからだ。そこに彼らの気持ちは関係ないし、私の気持ちももはや関係ないのだった。

「そうでしょうか」

しかし、それに真っ向から反論するのが、私の知る小狐丸である。池に落ちて痛感した。
恋をしています、としっかりはっきり告げた彼のおかげで、私は衝撃波の存在を信じた。ただの言葉で終わらない、浮ついた気持ちも信じかけた。

「感情とは湧き上がるものにございます」

それは知っている。水が冷たくてキレかけた私も、喉元まで突き上がる思いを感じた。

「抑えられない時が来るかも…」

曖昧な言い方をし、それが彼の話なのか、それとも私の話なのかわからず、ただ困った。そんな時は来ない、と言い放つべきか悩み、でもあんまり偉そうな口は利きたくないから、己との葛藤で心が忙しなかった。
随分悟った物言いをする小狐丸は、まぁ実際平安生まれだし、私なんかより余程多くを見てきたのだろう。だからこそ、私みたいな小娘に恋だなんて、信じられるはずがなかった。
でも逆に、私みたいな小娘に恋をする事が、感情を操作できない事の証明だとしたら、すごく説得力ができてしまう。絶望すら感じるほどだ。
元は一振りの刀なのに。そもそも感情を語ること自体妙な話じゃないか?付喪神って神様だから、やっぱ達観してるのかな。だったらもっと俯瞰した目で見てくれたらいいのに。私と近しい、いや同じ生き物のように振る舞うのは、今こういう形をしているせいなんだろうか。

「人間みたいなこと言うよね」

思わず口をついて出た言葉は、反省するほど、引導を渡したと感じるものだった。明らかな線引きだ。私とお前たちは違うのだと、誰に問われても言い続けてしまうんだ。
前に別の奴に言われた事がある。恋をするのに、人間も刀剣も関係ないのだと。私には大ありだから、そんなこと言われても困るんだ。
でも小狐丸の言い分は、その時とは全く違う趣旨だった。

「ぬしさまがそうしたのですよ」

後ろに池があったなら、私はまた落ちていたに違いない。当たり前のように言われ、マジで?という顔を正直にしてしまった。何が何だかわからなかった。

小狐丸は、自分はすごくぼんやりした存在なのだと前に言っていた。それを私が顕現したおかげで、今ここに存在していると、だから感謝していると、真面目なのかからかってるのかよくわからないテンションで告げた。私にはそれが良いことか悪いことかわからなかったし、今もわからないけど、でも私が招いた事なのだと知らしめられ、落ちてもないのに水の感触が蘇ってくる。

確かに私が顕現したから、こいつらは人の身を得た。でもだからって、人みたいな感情まで芽生えるものなんだろうか。脳がそういう作りになってるんだろうか。顕現自体がオカルトなのに、そんなところばかり現実的になったりするものなんだろうか。

私はしばし呆然とし、それでもやっぱり、小狐丸が人間と同じとは思えなかった。実際違うしな。
そんな事よりも、昨日池に落ちた時に、鯉を傷付けてやしないかどうかって方が、私にとっては重大だった。この世に自然に生まれた命の方が、真っ当なもののように思える。取り返しのつかないものに思える。
昨夜は暗くてわからなかったが、日が昇った今なら鯉の様子を見に行けそうだ。一度思い立つと、もうそれしか考えられなかった。

「私…」

小狐丸は、私がみんなを人にしたと言うけど、でも私自身が、刀を人だと思い切れないのだ。恋だの何だのは戯言だと思って、もしくは顕現時のバグか何かだと思って、いま生きている鯉の心配ばかりしてしまう。
小狐丸の髪を掴み、手入れの行き届いた感触を、私は熱心に確かめた。CMに出れそうな触り心地だ。痛めば抜けてまた生えてくる。当たり前のことを目の当たりにしているのに。
それでも私は最後の最後で、生き物だと感じられないのだった。

「…そんなに全能じゃないよ」

もし全知全能だったら、こんな風に作ったりはしないのだ。

/ back / top