匿名D

自分がおかしくなっている事がわかる。お茶を沸かした事を忘れ、もう一度沸かすという奇行を二回も繰り返し、私は三つ並んだ薬缶を眺めて呆然とした。心当たりは、ありすぎて逆になかった。

いつからこうなったんだっけ。私は就任三日目から二周年あたりまで記憶を遡り、まだまだ素人気分でいた自分を懐かしく思う。まぁ今も素人気分といえばそうだけど、つまり私は何も変わってないはずなのに、何でか精神をすり減らされている。

「これ…訓練表。予定合わなかったら書き込んどいて」

私は日本号の部屋を訪ね、紙切れを一枚手渡した。最近一気に新刀剣が増えたため、訓練のスケジュールを立てたのだ。様々な刀種刀派との戦闘を体験していただきたいので、是非とも正三位大先生に稽古をつけていただきたく要請した。一回話はしたから、断られるとは思ってなかったけど、あいよ、と気前のいい返事が来た事に、私は少しホッとする。

「ではよろしく」

軽く手を挙げ、私はいそいそと立ち上がった。他に用事はないから帰宅一択だ。普通にいつも忙しいし、そうでなくとも私は刀剣の自室に長居するような審神者ではない。
襖に手をかけ、決して明るくはない部屋から出ようとする。日本号が紙を置く音が聞こえた。同時に響いた声は、私の心臓を一瞬止めた。

「なぁ」

大袈裟に肩を揺らしてしまった時、何かが終わったような気がする。

「用事はそれだけか?」
「う、うん」

後ろを振り向けずにいると、相手が立ち上がり、私の傍まで迫った。別に何の事はない、近付いてきただけだ。そう言い聞かせているのも、何だか変なのだ。自分が今までどうやって生きていたか思い出せず、困惑している間にも日本号は語りかけてくる。

「珍しいじゃねぇか…あんたがわざわざこんなもん持って来るとは」

人を出不精みたいに言うな。実際その傾向はあるから何も言えねぇ。

「直々にお願いするくらいには大変だって事だよ」

新人訓練の重要さをアピールし、私は目線だけで日本号を振り返る。すると、視界に映ったのはすでに影のみで、真後ろに立たれたと気付いた時には、蛇に睨まれた蛙のように体が縮こまっていた。マジで丸呑みされそうなでかさだ。元々薄暗い部屋がさらに暗くなり、空気がやばい方向へ向かっていると察したため、戸を開けようと手を伸ばす。しっかり指を引っ掛けたというのに、上に重なる大きな掌が、視界から私の手を消した。

「三つも茶沸かしてどうすんだ?」

一番突っ込まれたくなかったことを指摘され、おどおどしている間にも、熱が共有されていく。強く握られているわけじゃない、ただ重なっているだけの手が、私の退路を断っている。

「の…飲む」
「そいつぁ大したもんだな…酒でもないのによくやる」

酒でも薬缶三杯はいかないだろ。お前基準で物を言うな。
私はどうにかやり過ごそうと、冷静になる努力をした。しかし、お茶を三回も沸かすほどボケた人間が冷静になれるはずもないのだ。三つも沸かしてどうするかなんて私が聞きたい。マジでどうすんだ?本当に飲むか?どうしたらいいかわからなくてそのまま放置してしまったから、今頃誰かが困っているかもしれない。茶が欲しいなら飲んでくれて構わない。
最近なんだか参ってて…なんて言えるはずもなく、しかし手の震えでとっくに気付かれているだろうし、そもそも薬缶の件で私の手札は詰んでいる。

「…なんかあったのか」

私には日本号が、親切心で聞いているのか、それとも詮索のつもりで聞いているのかがわからなかった。前はこんなこと考えたりしなかった。薬缶三連女を心配してくれてんだな、そう思って笑っていられたはずなのに。
ぶっちゃけると今だって何かある最中である。

「いや…別に…」

だが正直に言えるわけがないので、反対の手で襖を開けようとした。何故なら私は刀剣の部屋に長居するような審神者ではないからだ。日本号だって、長居させるタイプの槍ではなかった。
でもそれは昨日までの話だったかもしれない。
襖に届く前に、日本号は私の手を取った。両手を塞がれ、捕らわれた宇宙人以上に緊迫する。息の仕方がよくわからない。相手の体が、背中につきそうでつかないのがまた判断を鈍らせ、私の足をここへ留める。

「なんかあったとして…言いづらい事案もあるでしょ」
「たとえば?」
「それは…生理不順とか…」
「…全然言いづらそうじゃねぇな」

術中にはまっているのか、単純に私がポンコツなのか、喋れば喋るほど墓穴を掘ってしまい、頭を抱えた。まぁ抱える両手は塞がってんだけどな。
話すことはないと暗に伝えたというのに、日本号は手を離さない。こっちはどんどん熱くなるのに、変わらぬ相手の温度が恐ろしく、私とは違うんだと知らしめる。
そう、私とは違う。みんなみんな私とは違う。

「…離してよ、とりあえず」

主命は完全に無視され、己の威厳のなさにも泣ける。

「熱いから…」

二ヶ月前の事だ。突然好きだと言われた。相手は…匿名A刀としよう。
もちろん私はそんな気はないし、向こうは刀である。いくら人の形をしてても、本体は刃長64センチくらいの鉄だ。それはそれ、これはこれ、と割り切れない私は、結構な自己嫌悪に陥り、本当に生理不順になった。そこからパンデミックは始まったのだった。
匿名B刀、匿名C刀にも似たようなことを言われ、私の混乱は熾烈を極めていく。何を言ってるのかわからなかったし、普通に共に歴史を守っていく同志としか思っていなかった私には、違う感情を抱かれていた事がショックだった。同時に、同じ感情を抱いてあげられない自分にもショックだった。
私と同じ五体がある。喜怒哀楽もある。モラルも常識もある。ほぼ人間だと思う。でも恋の対象にはならない。実の息子や父でもないのに。

そういうぐちゃぐちゃの情緒が、薬缶の悲劇を生んだ。そうでなくても最近は鯉が死んだりとか、本丸が襲撃されたりとか色々あったので、何事も積み重ねだろう。だから心当たりがありすぎて逆にない。起きてしまったことは仕方がない。誰も悪くない。強いて言えば、思いを伝えてきただけの相手に、黙っててくれたらよかったのにと考えてしまう私が悪いのだ。

プライバシー保護の観点から、実はあいつに告られて…などと相談できるはずもない私は、徐々におかしくなっている自覚がある。発散の仕方がわからない。何かがおかしいと思いながら生きていくしかないのかもしれない。

「あんたの真面目なところは…悪くねぇ、いやいいところだよ、つまんねぇくらいにな」

え…そんなに?ノリはいい方だと思ってたんですけど。ショック。

「嫌だったらそう言え。とりあえず、じゃなくてよ」

私の物言いが不服だったようで、日本号は手を強く握り直した。なんかもしかして全部知ってんのかな?と思ったらそれはそれで鬱だった。
そういう風に言われると、また悩んでしまう。私は確かに真面目だと思うけど、真面目の方向性をどう考えても間違えている。

「嫌かどうかって言われると…」

目を閉じ、眉根を寄せて考えた。世の中には良いか嫌かの二択しかないなんて事はないと思うから、その問いかけは大いに問題ありだ。実際私が手を離してほしいのは、嫌とかじゃなく、困っているせいである。
匿名ABC刀についても、私は気持ちを正直に話した。嫌なわけじゃない、憎からず思っている相手だし、猛獣になったからって仔犬の時から育てていた土佐犬を嫌いになれるか?って話で、つまりお前は土佐犬なんだ。みたいな返事をした。 ポカンとしてた。だろうよ。
駆け引きみたいな事が、私にはよくわからない。全部正直に言ってしまうので、こっちはそれ以上でも以下でもないつもりでも、謎の受け取り方をされてしまう時もある。
たとえば今とか。

「じゃどこまでされりゃ嫌になるんだ?」

私の手は襖から離れた。耳元で囁かれ、首筋に息がかかる。何故に我慢比べが開催されるんだ。私のせいなのか?
いやいや…と笑ってみたが、冗談の雰囲気は元よりなかったため、無駄な苦笑に終わった。何をやってるんだ。

こういう空気には、身に覚えがある。目を合わせたら駄目だと知っている。

距離は変わっていないはずなのに、襖が遠く感じた。日本号の手が、腕から肩にのぼり、背中をなぞって、脇腹を抜けていく。くすぐったくて身をよじったら、へそのあたりで止まった。この先どうなるのか見当もつかない。というのは、日本号だしな…っていう油断が私にあるからだ。
匿名Dにはならないだろ、お前は。そんな素振り見せた事もない。でも全員そうだったことを私は忘れている。

「…こっち見ねぇのか」
「え…」

絶妙に痛いところを突かれ、思わず視線を向けそうになった。しかし顔を見たら、気付きたくない事に気付く可能性もある。
悩んでる間に、日本号は私の顎を掴むと、無理やり上を向かせた。冗談抜きで折られるかと思った。テラフォーマーズみたいに一撃で殺されるビジョンを浮かべる私とは裏腹に、日本号はしたり顔で笑っていて、安堵してるのか緊張してるのか、自分でも判断がつかない。
密着しているというのに、日本号の顔は随分遠くにあった。それだけこいつがでかいって事だ。私をどうこうしようと思ったら、赤子の手を捻るが如く容易いだろう。まぁそんな事しないだろうけど。しないっしょ?しないな。願望。
ただ望みが全部叶うわけがないのは知っている。瞳が揺れるのはそのせいだ。

「く、首が…怠い…」
「そうか」

返事だけがあった。手は離してくれなかったから、普通に怖かった。

「…話し合おう、冷静に」

テンパってそう言うと、日本号は呆れたように笑う。その瞬間に、私の全てを解放した。一気に四肢は自由になったけれど、結果的に自分の首を絞めたような気がする。
振り返った先の日本号は、解放したけど解放するとは言ってない的な顔で、私を見下ろしていた。このまま空気を読まずに帰ったらどうなるんだろ。マジのDEATHかな。

「何の話をする?」

意地の悪い言い方は、心臓にも悪い。

「あー…」

私は言い淀みながら、数秒前の自分を憎んだ。何が話し合いだ。話す事なんて何もないだろ。
額を覆い、冷や汗を流して立ち尽くす。何も話せない。ここで話す事と言ったら、やばい事しかない。

まず部屋に来たのは、本当に訓練表を渡したかったからだ。他の奴に頼んでもよかったけど、ちょうど匿名ABCしか目に付かなかったから、気まずくて自分で行く事にしただけなのだ。まずこれを喋れないだろ。何かあったかと聞いたけど、本当にありすぎて喋れない。私はもう忘れたい。ずっと審神者と刀の関係でいたいだけなんだ。

「心配…してくれてるのはわかったよ、ありがとう…嬉しいです…」

鼻で笑われたので、チョイスをミスった事は把握した。何が気に入らないのかはわからないが。

「でもこの場で解決するのは無理というか…私の問題だから…いや私の問題でもない気がするけど、でもやっぱ私の問題なのかな…」

頭の中を、何かがぐるぐると回っている。段々自分でも何を言ってるかわからなくなって、異様な焦りを覚えた。喉がやけに渇く。口下手なんだ、こういう話題も苦手だし、訓練の組み合わせを考えている方が余程簡単で楽しかった。察しの悪い私に、恋です、と断言した連中は、私が今こんなに悩んでいる事を理解してるんだろうか。私がつまんねぇくらい真面目で、平等意識がエベレスト級に高い事も、ちゃんとわかってんだろうか。

「私が…嫌だとかいいだとかは関係ないし…」
「なくはねぇだろ」
「ないよ」

自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。この場で解決しないと言っておいて何だが、たった今気付いた。

「だって結局同じじゃん」

私が誰に好かれようと嫌われようと、やる事は何も変わらないのだ。皆を平等に扱い、責任感を持って、歴史を守っていく。まるで教師のように気を遣いながら、板挟みになりながら、気にしても仕方ないと言い聞かせて、毎日生きていくしかない。
仔犬の時から育てていた土佐犬に、何度手を噛まれたとしても、私は絶対に手放せないタイプだった。一番嫌で、唯一嫌なのは、噛んだ犬を処分してしまう事だけだ。そんなのもうしょうがない。どうしようもない。

「悩んでも相談しても…変わらないし…」
「…そうかい」
「薬缶三つも沸かした事もあんまり知られたくない…」

悲しいくらい憐れんだ目で見てくる日本号は、さすがにこの審神者に愛想が尽きたのではないか。

「…俺が沸かした事にしてやる、二つまでな」
「ええ…?優しいかよ…」

尽きてなかった。いい奴だ。

「その代わり俺の話も聞いてけ」

薬缶の交換条件に釣り合うかは不明だが、真面目に切り出されると、私は黙るしかなかった。なら結構です、と断る勇気はさすがになかった。いくら自分が愚かだとわかっていても、それに甘んじているわけじゃないからだ。

「…結局やる事は同じっつってもな」

日本号の声が近付いたり遠ざかったりする。考えながら喋ってくれていると感じ、涙が滲む。私は自分の心を伝えるばかりで、誰の事も考えていなかったんじゃないかと思い始めて、つらくなった。
でもそれならみんなだって、私の事を考えてくれたらよかったのに。この本丸に鯉は必要でも恋は不要だと、想像してくれてもよかったんじゃないのか。
そうやって人を責めるのが嫌で、私は諦めた。それが悪手なのだと言わんばかりに尖った声が、日本号から発せられ、心臓がびりびりする。痛い。なんだかすごく痛い。

「あんたが変わったら意味ねぇんじゃねーか?」

きっと正解を告げている日本号は、土佐犬ではなかった。言葉を話せる生き物で、そりゃ手は噛むかもしれないけど、決して処分されたりしない槍だった。歴史的価値のある物だからだ。
そういう連中に、私はどうして掻き乱されるんだろう。変だな。人間でもない、人に飼われる犬でもない、ただの鉄だ。でもその鉄には思いがあって、私を好きだと言う奴もいる。好きになったらしょうがないと思ってもいる。でも私はしょうがない思いに、簡単に自分を変えられてしまう。薬缶を三つも沸かすくらいには。

好きにならないでくれ、と言えば、全部解決するんだろうか。そんな自惚れ屋な台詞は嫌だけど、でも実際そうなんだ。今さらだ。

「言って聞かない連中でもないだろ」
「親切だね…」

諭すような日本号には、思いやりがあるように感じた。別にみんなは思いやりがないわけじゃなくて、この時はただ一人、私の気持ちをわかってくれたような気がしたのだ。

「いや」

とはいえやっぱり、私の諦めはなかなか的を得ていたんだろう。
言葉を話すくせに、感情を持っているくせに、言って聞かない連中じゃないと言ったくせに、言わせないのは、どう考えたって身勝手だと思ったわけだ。
三人いるなら四人いても同じだとか、薬缶三つも沸かしたなら四つ沸かしても同じだとか、私はそういう風には思えない。ただただ増えた質量が、私に全部のしかかる。

「俺もあんたを変える側さ、悪く思わないでくれよ」

人間不信ならぬ刀剣不信になるぞ。
私は衝撃のあまり放心し、日本号が匿名Dに変わる瞬間を見た。最悪だ。今までのは何だったんだ。
もしかして冗談か?と希望を抱くも、腕を引かれてそれは終わった。何度も同じ事を体験するうちに、今度こそ有り得ないだろうと思ってしまうのは、馬鹿なことなのか、自分を守るためなのか、まだ四人目だからわからない。

「…悪く思うだろ、普通に」
「はは、だったらもっと早く言いな」

さっき触れられた脇腹に、また手が伸びた。確かにもっと早く言うべきだったな、と思って、結局日本号の言う通りかもしれないと考えさせられる。言って聞かない連中でもないんだから、私が言えば良かったんだ。みんなだって、同じ言葉を持ってるんだし。
何も言わずにわかってもらうのは無理だ。やっと気付いた。でもこうならないと気付かなかったのも本当だ。だってつまんねぇほど真面目に生きてるから。

なんて言えばいいんだろう。済んだ事は戻らないが、これから私を慈しむ誰かに、なんて言えば思いが伝わるだろうか。そんな奴がこの先現れるだろうか。
少なくとも目の前にいるでかい男は、私の言葉を待っている。

焦れったい指先が、私の体をなぞっていく。首元から耳へ到達した時、鳥肌が立って震えた。こういうのも別に嫌じゃなかった。途方もなく悲しいだけなんだ。

「やめてよ…もう終わり」

言って聞かない連中じゃないことの証明みたいに、日本号は手を離した。多くを許すと、他の奴にも同じ事をしなきゃならない気分になって身がもたない。私が最も傷付くのは、平等が保たれなかった時だとわかっていた。真面目なんだ。本当に真面目で融通の利かない、つまらない奴。能天気で鈍感で上手く言葉も出ない奴。

就任日から今日までの事を思い出す。最初から私はそういう奴だったのに、何も変わっちゃいないのに、どうして今になって言うんだろう。そのせいで変わっちゃったら、一体誰が誰を好きだったのか、全然わからなくなっちゃうのに。

「薬缶…三つともお前が沸かした事にしてくれ」

私は言い捨てながら、ようやく襖を開けた。眩しい日差しが心を晴らす事はなかったが、単純な肉体は、太陽を求めて熱の上書きを図っている。

「他には?」

どうやら罪は全部被ってくれるらしく、日本号は次の要求を私に言わせようとした。
だけどやっぱり勘の弱い私には、相手が何を聞きたがっているのかわからない。別に曖昧にしてるわけじゃなかった。でも平等にはしてるから、他の奴にしてない事を、私は日本号に言えないのだった。

「別に何も…」

強いて言うなら、四つ目の薬缶が現れたらお前のせいだって事くらいだ。いつか溺れるかもしれないと思いながら、それもしょうがないと諦めて、これからもきっと生きていくんだ。水を足すなと言えないまま、沈んでいく日が来るかもしれない。だって薬缶みたいに中身を捨てられるわけじゃないんだし、やっぱり仕方がない事なんだ。
何かを好きになるのも仕方がない、審神者と刀剣の使命も変えられない、言って聞かない連中じゃないかもしれない、でもそれって平等じゃない。済んだ事は巻き戻せない。
さっき日本号が触れた場所は、明日誰かが触れてもいい場所になる。

心底呆れ果てた様子の匿名D刀だったが、それでも薬缶の罪は被ってくれるのだろうと悟って、余計に物悲しくなってしまうのだ。

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