心配

ふと手を止めた時、具合が悪い事に気付いた。プールの掃除中だった。

もしかして熱中症か?でもまだ本格的な夏じゃないし、今日はそんなに日差しも強くなく、汗だくになるほど気温も高くはない、ちょっと暑い春くらいだ。おまけに水分補給もしてるから、自己管理に抜かりはないと感じていたのに、思いの外脆弱だった肉体にテンサゲだった。
脆弱なのはWi-Fiだけで充分なんだよ…いや脆弱Wi-Fiも嫌だけども…。25メートルプールを掃除しただけでふらつくなんて今までなかったので、年を重ねているという事なのかもと考えてつらくなる。本丸と合戦場を行き来するだけの毎日がこんなにも続いている事が、時々無性に虚しくなるのは、大体こういうシチュエーションだった。老いているのが私だけなのも憂鬱を加速させている。

数年前、どうしてもプールに行きたすぎて穴を掘り、排水溝を作り、水道を引いて大工事の末完成した大事なプールがこれだ。この時ほど本丸が広大な土地でよかったと思った事はなかった。うんざりするような暑い夏にも楽しみができて、掃除にも身が入る。まぁ入りすぎて体調不良になってちゃ元も子もないけどな。

点検のために水を張っている最中、目眩がした。
熱中しすぎて具合が悪いことに気付いてなかったのかもしれない。終わった途端に気が抜けたんだろうか。なんだか体が重い。
デッキブラシを支えにしながら、歩くのも億劫で足元を見つめる。どんどん水が増えていく。上がらないと溺れてしまうかもしれない…と危機を感じて一歩踏み出すも、視界が揺れてすぐ転びそうになった。本格的にやばいんじゃないだろうか。とりあえず上にあがらなきゃ。全然審神者業と関係ないところで死ぬの普通に無様だしな…いやもちろん私は天寿を全うするつもりだけども。

ゆっくりとデッキブラシを前へ出しながら、水の抵抗に苦戦していると、突然声がした。

「こちらにおられましたか、ぬしさま」

小狐丸だ。天の助けとは全然思わない自分に驚きを隠せない。
顔を上げると、涼しげな様子で彼は私を見下ろしていた。長髪でもこの爽快感、微塵も人間味がない。アニメのキャラクターかと思う。
そういえば掲示板に行き先を書いていなかった事を思い出し、自然と溜息が出る。本丸の敷地は広いから外に出る時はいつも行き先を知らせておくのだ。
でも今日はなんだか誰にも会いたくなくて、無心でプール掃除に精を出そうと思ったんだった。たまには投げ出してみようと意図的に不良になった。でも向いてなかったから、体が先に訴えてきたのかもしれない。無理だぞ、と。

「皆探しております」
「ごめん、もう戻るから…そう言っておいてよ」

ちゃんと行き先を書いておかないとこういうことになるのか。捜索の手間をかけさせるなんて余計に面倒だったな、申し訳ない。みんなにも予定があるだろうに。
でも常に誰かに気遣われているのも窮屈だろ。本当に気遣いだけなのか怪しいし。
嫌な事を考えてしまってますます視界がぐらつく。すると小狐丸は声色を変え、私の異変をすぐに察した。

「…ぬしさま、顔色が優れませんが」

一瞬目が合うも、くらくらして顔をそれ以上あげられない。この距離でもわかるくらいやばい色になってるんだろうか?ピッコロ大魔王?
何にしても今はあんまり気遣われたくなかった。部屋に戻れば23世紀の医療技術でどうにでもなるんだ、ここを凌げばどうという事はない。

「大丈夫」

声だけはしっかり出ていて安心した。このまま歩いていける気がしたが、どうやっても足が踏み出せない。歩き方が全然わからないのだ。この心許ないデッキブラシでさえ手を離したら膝をついてしまいそうで、私は完全に膠着状態となった。
どうする。黙っていると小狐丸が来てしまう。いや別にいいけど、いいけど…なんかこういう形で助けてもらうの、何となく嫌だ。袖にした相手だから気にしてしまうのかもしれないと思うと、さらに嫌だ。

「戻りましょう。掃除ならあとで私が」
「もう終わったから大丈夫…本当に」

しつこく言っていると何故か大丈夫な気がしてきて謎だ。膝まで上がってきた水が冷たくて心地よいからだろうか。揺れる水面が光り、眩しさに目を細めたら、悲痛さを感じるほど案じた声が聞こえ、こっちがつらい。

「…溺れてしまいます」

本当にそうなると思っているんだろうか。可哀想な気持ちになり、半笑いで強がった。

「そんなわけないだろ…見たことあるでしょ私の華麗なクロールさばきを…」
「はい。ほとんどの者が追いつけませんでした」

本丸の北島康介と呼ばれたとか呼ばれてないとかの逸話を思い出し、このプールで幾度となく開いた水泳大会の事が、遠い昔のように思えてくる。

「しかし、今は違います」

それを後押しするような声が響くと、小狐丸のでかい影が動いた。降りてこようとしている事に気付き、慌てて口を開く。

「来なくていい…服が濡れるし…」

軽やかに飛び降りる気なのだとわかって、どうにかして止まらせなくてはと思考を巡らせる。しかし頭なんてもちろん回るはずもないし、回っているのは視界だけだし、結局怒鳴りつけるという野蛮な行為に出るしかなかった。

「おい」

サンシャイン池崎なみの声量を発するつもりが、中森明菜にしかならなかった。体が全然思うようにならない。本当にやばいのか?と一歩踏み出してみると、富士急ハイランドにでも来たかのように頭がぐらぐらし、デッキブラシがなければ完全に遊泳するはめになるところだった。平衡感覚がわからん。健康診断オールAの健康体なのに、急にどうしたんだろう。ストレスかな?
すると、きっとストレスの種の一つであろう小狐丸が急に語気を強めた。その時にやっと、私はいま普通ではないのだと思い知らされる。

「ぬしさま、今お倒れになられるともう二度とお一人で出歩く事は叶いませぬぞ」

早口で言われて硬直した。いつもゆるゆるの小狐丸が強い口調で訴えるほどの事態だ。いくら回らない頭でも、プールで溺死しかけたなんて知られたらもうお供なしではどこへも行かせてもらえないとわかったのだ。
途端に力が抜け、歩く事は諦めた。水飛沫の音は軽やかだったが、近付いてくる小狐丸の慌ただしさは、健気な刀剣そのものだ。

「心配しているのです…ただただ、心配しているだけです」

わかってる。そんな事はわかってるんだ私にだって。人間の感情が一つじゃないみたいに、こいつらにもいろんな思いがあるとわかっているけど、わかってるだけじゃどうにもならない。
何の抵抗もなく軽々と抱きかかえられ、ブラシを落とした。拾われる事もなく小狐丸は真っ直ぐ私だけを見つめ、顔を覗き込む。

「熱がありますね…」

そうなんだろうか。足先の冷たさと、まろんは軽いな羽根が生えてるみたいだ…の状態になってる事しかわからない。こんなに重怠い体を易々と持ち上げられたら、普段から私はきっと大事に思われていたんだろうと想像できた。刃を立てないように静かに、息を潜め、私の心に触れているのだろう。
でも一度は思い切り刺したんだよな。恋愛禁止って本丸の掟に書いちゃおうかな。私はただ審神者と刀剣の一線を引いた上下関係で、心配したり心配されたりするのが尊いものだと思っていたのだ。それを何か、存在するはずがない恋愛感情を持ち出して別のものになってしまうのが、嫌で悲しくて怒っているんだ。同じ気持ちじゃなかった事が許せないなんていう身勝手な理由でだ。
みんながみんな同じなわけないとわかっているのに。頭ではいつもわかっている。小狐丸が、私に負担をかけないように歩いている事も、それが本当に本当に尊い心配から来るものだという事も、ちゃんとわかっている。

「お疲れなのでしょう。今日はもうお休み下さい」

目を閉じる事を促され、逆にまばたきの回数が減る。心配されている事と、信用している事は全然別の話なので、さすがに意識は飛ばせなかった。別に本当に信用してないわけじゃないが、私が能天気でない事を知らしめたかった。
それは案外あっさり伝わったようで、しれっと小狐丸は私の古傷を開く。

「今日ばかりは下心はありませんのでご安心ください」

いつもはあるのかよ、と思うと気が遠くなった。

「今日ばかりは…ですか…」

つい呆れた声が出る。明日も明後日もございませんにならないんだろうか。

「今日ばかりは、です」

ならないみたいだ。為せばなると思ってしまう私の方がおかしいんだろうな。
静かに揺られながら、地面が濡れていくのが見えて、そういえばプールに飛び込ませてしまった事を思い出す。私の体調管理が万全であれば必要なかった洗濯物だ。急に落ち込んできて、迷惑にしかなっていないような自分が嫌になる。

「ごめんね…服濡らしちゃって…」

突発的に馬鹿な事をしてしまったと反省し、素直に謝った。ちゃんと行き先を告げて、今は一人になりたいのだとそう言えばよかったんだ。結果は同じだったかもしれないけど、心配をかけたのはいけなかった。また同じ事をするかもという不信感を抱かれてしまっては、本当に大事なことも成せなくなってしまう。
審神者としての自覚が薄れていた事を猛反している私だったが、小狐丸は気にした様子もなかった。私が今思い悩んでいることなど、長い時の中を一瞬で去りゆくものだとわかっているのかもしれない。

「良いのです。また撫でてくだされば」

普段の調子で言われると、私は一体何をやってるんだろうな、という感じだ。本当に何をやってるんだろう。どうせどうにもならないのに。
言われた通りに頭を撫で、普段と変わらぬ毛艶に指を絡ませる。長い髪は絹みたいだ。私とは全然違う。どう考えたって何もかもが違う。
力の入らない手で何度も髪をすくっていると、距離感を間違えてうっかり頬を触った。その冷えた温度で、自分に熱があるというのは本当なのだと気付いた。
今度は意図的に相手の顔に触れ、そのまま熱が移っていく。鉄は熱を通しやすいもんな…なんて冗談とも本気ともつかない事を考えていたら、小狐丸は突然足を止めた。思わず手を離し、意味深な距離感で見つめ合う。

「ぬしさま…今ので下心が…」
「おい」
「冗談です」

笑えねぇ。相手はいい笑顔だが、本当に冗談かどうかわからなくて息を飲んだ。わざわざ足を止めてまで言うことか?動揺してんじゃないのか?
そそくさと手を引っ込め、笑ってシラを切る小狐丸を見ていたら、なんだか眠気が襲ってきた。髪の触り心地が良いからだろうか、それとも軽口を叩かれて安心したからだろうか。
目を閉じてすぐ、意識の半分が薄れていく。きっとプールで溺れかけた事を、皆には黙っておいてくれるんだろう。でも濡れた服の言い訳を見抜く奴はきっといるだろうし、思えば私が一人でいる時、必ず誰かと遭遇していたのは、偶然なのではなかったのかもしれない。誰かが常に心配しているのだから。
考えても仕方ない。もう眠い。早く寝てしまいたいのに、どうしても手放す事のできない意識が、私の本心なのだと思ってしまって、ただただ悲しい。

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