望み

俺は試されているのか。

「今日…一緒に寝てもいい?」

躊躇うような主の問いに、良くはないです、とは言えなかった。他の連中の元へ行かれるよりは、ずっと良いからだ。


隣の主の部屋から、最近唸り声が聞こえると思ってはいたが、どうやらそれは間違いではなかったらしい。俺のせいかもしれないと感じていたので、あえて何も言わなかったけれど、自惚れである可能性が高まった。それはそれで複雑だった。

「最近寝つき悪くてさ…環境変えてみたいと思って…いきなりごめん」
「いえ…何もお構いできませんが、ゆっくりお休みください」

寝るだけで構われてたまるかよ、と軽口を叩けるくらいには元気らしい。冗談っぽく笑ったあと、主は真っ直ぐ目を見て礼を述べた。謝礼も謝罪も不要だというのに、礼儀を完全には欠かないところが、この人の良さであり、悪さでもある。

主は寝付きが悪いとしか言わなかったが、それだけで人の部屋に泊まりにくるとは思えなかった。半畳分の距離を保ち、自室から持ち込んだ布団の中に潜り込む主は、すでに寝息を立てている。寝付きが良すぎるくらいだ。人の気も知らないで…と溜息をつき、いや知っているのかと思い直す。

先月、主に気持ちを伝えてから、特に関係が変わったとは感じていない。しかし、余地もないほど袖にされた身としては、この状況に異質さを覚えてもいいんじゃないだろうか。
わざとなのか、何も考えていないのか、その辺りがよくわからない。人間は残酷である。主も例外ではないし、引導を渡された傷が癒えてない事を想像もしていないのなら、俺は振られて当然と言えよう。だって人と思われてないのだから。思ってほしいわけでもないが。

「う…」

眠れないまま床についていると、隣から唸り声がした。もちろん主だ。毎夜ではないが、時折苦しげな様子は窺えたため、体でも壊しているのではないかと焦りを覚える。

「す、すいません…ごめん…でも…」

するとさっきまで唸っていた主が、突然喋り始めたではないか。寝言にしてははっきりしすぎていたため、思わず声をかけた。

「主?」

しかし返事はない。布団の中で呻くばかりだ。悪い夢でも見ているのだろうか。
ふと、寝付きが悪いと言ったわりにそんな素振りはなかった事から、別の悩みがある事にここで気付いた。わざわざ同衾まがいの頼みを申し出たのも、悪夢が原因かもしれない。

「…う、ぅう…ッ」
「主、大丈夫ですか」

駆け寄って布団を捲ると、額に汗が滲んでいた。苦悶の表情が、夢の壮絶さを物語っている。気の毒だと思いつつ、起こすべきか悩んだ。まだ主の目的がわからないからだ。
何かあったら起こしてくれ、と言われたわけではない。環境を変えたい、主の望みはそれだけだった。それなら居間でも台所でもいいはずなのに、俺の元へ来た理由は何だというんだ。誰かにいてほしかったから?だとしても俺を選ぶか、自分を好いてる刀の事など。
しばらく様子を見ていると、今度は呼吸が速まってくる。青ざめた顔は歪み、また言葉が紡がれる。

「き…斬らないで…」

只事ではない。そう思った。

「いっそひと思いに…」
「主!」

たまらず肩を揺らすと、主は即座に目を開けた。息を止めたままこちらを見る表情は、凍りついている。

「うなされているようでしたので…」

起こした理由を告げれば、ようやくまばたきをした。顔に手を伸ばされたが、そのまま受け入れる。冷えた手の甲が、どうにも悲しい。

「うなされるの得意だからな…」

全く笑えない事を笑って言うから、ますます悲しくなる。夢の内容には触れず、水を取りに行こうとすると、主は黙って両腕を伸ばした。願ってもない事だが、今日ばかりは本当に下心はなかった。
抱き起こすも、主は腕を回したままである。肩口に寄せられた顔が、氷のように冷たい。

「夏の…本丸水泳大会自由形の部で長谷部が優勝した時…」

脈絡がなさすぎる話も、悪夢のせいだろうか。それはそれとして、主の記憶力の良さに、一体何振りの刀剣が胸打たれたかは計り知れなかった。俺もその一人だ。

「なんでも望みを叶えてやるって言ったのに…断ったよね」
「断ってはいませんよ。俺の望みは主のお傍に仕える事ですから、もう叶っています」
「じゃあ二番目に叶えたい事は?」

それも即答できるし、まぁまぁ叶っていた。

「こういう役目を、他の連中には譲りたくない…とは思っていますが」
「あ、そう…」

慣れた事のように、主はそう返した。
うなされて目覚めたかと思えば、唐突な話を切り出され、正直困惑している。腕の中の温もりが現実味を帯びてはいるものの、全ての状況が不可思議だった。それでも主に問いただしたりだとか、説明を求める事はしない。落ち着くまで、話してくれるまで待つ方が、答えは見えやすいのだ。きっと急いた俺が悪かった。恋をしていると告げる前に、主の価値観を確かめなければならなかったのに。
過ぎた事を悔いても仕方がない。しばらく抱いていると、主は何も言わなくなったので、眠ってしまったのかと視線を向ける。しなやかな頸は目に毒だった。人の体は不便だ。

「何がいけないのか…自分でもよくわからないんだ」

俺の腕では眠れないらしい主は、悩みの種を少しずつ打ち明ける。

「長谷部の望みを知りたい…」

そしたら、と言ったきり、しばらく沈黙する。自惚れた分だけ罰が当たった気分だ。

「そしたら…夢も終わる気がするし…」

やはり主の悪夢は、俺のせいなのだ。
不甲斐なさに打ちのめされ、知らぬ間に主を強く抱いていた。この人は自分の傷に鈍感なあまり、傷付いている事に気付いていないのだ。審神者として、刀を束ねる者として歩き始めた主に、何故線を越えるような事を言ってしまったのか、己の浅ましさが嫌になる。

「望みなど何も…」

しかし、答えを変えるわけにはいかなかった。本当は望んでばかりだった。この主は、全てが解決するならばと、何でも叶えてくれるかもしれない。好きだと言っておいて、望みがないなんておかしいからだ。でも主の矛盾を解消するために、応えた振りをされるのは嫌だ。一時の解決にしかならないんだから、そんなもの解決とは言えない。

「…何もありません」

貴方がほしい。この、人の身に収まるだけの大きさでいい。人しか愛せないなら、人の体を持っている間だけでいいのだ。どうせ心なんて不確かなんだから。

「ただ…俺が夢に出てくる事があったら…望みを叶えてやってください…」

余程切実に聞こえたのか、主は笑って体を離した。

「夢の長谷部には望みがあるわけ?」
「…どうでしょうね」
「ちなみにこれも夢か?」
「いいえ」

冷えた温度が現実である事を告げると、主は残念そうに眉を下げた。まだ微睡みの中にいるのだろうか。夢か現実かなんて、主にはどうでもいいのかもしれない。
長い欠伸をすると、どこか諦めた表情で俺を見つめた。

「夢ならよかったな」

いつの話をしているのか、尋ねる気概はない。

「そしたら望みを叶えてやれたのに」

夢の中では全知全能らしい主は、至って自然にそう告げた。本当に何でもできるみたいに。或いは、あのとき夢だと答えてほしかったみたいに。
主の望みこそ何なのだろう。俺たち刀に、どうあってほしいのだろう。恋情を抱かれる事さえ望まないなら、俺は最期まで貴方の望みを叶えられない。

あれ以来、主が部屋を訪ねる事はなかったが、数日してから不意に、寝付きが良くなったよ、と何気なく言われた。
主の夢の中で、俺はどんな望みを告げたのだろう。

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