「主、少し付き合ってくれるか」

歯も磨き終えた夜にそんな事を言われ、二つ返事で了承する奴がいるんだろうか。
なんで?と聞けば、来ればわかると言われたので、怪しまない方が無理という話だろう。とはいえ断るのもなんだか変だし、警戒しながらついて行く事にした。別になんて事はないよという振る舞いをするのは重要だからだ。

三日月宗近とは今、あんまり愉快な関係ではない。別に元々愉快でもないが、夜に二人きりで会う事には充分抵抗がある状態だ。しかもどんどん人気のない方へ向かっていくので、普通に足取りが重い。

何故こんな昼でも暗い鬱蒼とした場所へ行くんだ…この先は小さい池しかないぞ。しかも汚い池だぞ。まさか突き落とす気じゃないだろうな…と考え、しつこかろうと聞かずにはいられない。

「…なんでこんなところに?」
「行けばわかる」

これしか言わん。行けばわかるbotか。
こうなればもう腹を括るしかない。ついてきてしまった私も私だ。三日月の考えてる事が多少でもわかる事を期待し、そして汚い池に落とされぬ事を注意しながら、揺れる着物を見失わないよう歩く。月明かりに反射した鞘が時折眩しい。

妙にチカチカするな…と思った時、それは鞘の光ではない事に気づいた。浮かんでは消える無数の明かりが目の前に広がり、最初何が何だかわからず三日月の傍へ寄った。池に近付き、電灯が景色を照らしてやっと全貌が見えた。

蛍だ。
汚い池の周りを蛍が飛んでる。
ていうか、池の水がきれいになってる…!

「な、なんという事でしょう…!」

まさかの劇的ビフォーアフターに開いた口が塞がらない。薄明かりでもわかる澄んだ水は、私の知っている放置されて澱んだ池とはまるで違った。

「蛍の棲家を作ってやろうと思ってな。池の水ぜんぶ抜くというやつだ」

なんて楽しそうな事をやってるんだ。どうして私を混ぜてくれなかった。悔しさしかない。
呆然と立ち、そういえばいつだったかにみんながでかいバケツを持ってどっか行ってた時あったな…と思い出して、あの時眠気をこらえて参加すればよかったと唇を噛む。というか何故主に無断で池の手入れなんかしてやがるんだ。敷地をいじる時は許可を取れと言っていたのに。
私もやりたかったという感情が何より先に来てしまい、悔しさを堪えられないまま三日月に詰め寄る。

「何故…相談もなくこのような事を…?」

審神者からの尋問にも、三日月はいつも通りの微笑みだ。

「主を驚かせたかったのだ。大きな亀も住んでいたぞ」
「へー!」

なんだそれは。最高にアガるわ。サプライズのために参加を許されなかった事はもう勘弁してやる、その亀の情報に免じてな。
私を驚かせるにしては大がかりすぎる気もするが、というかサプライズと銘打って池の水ぜんぶ抜きたかっただけの可能性もあるし、済んだ事の言及は止そう。三日月の言葉を信じて素直に喜んでやる。池が綺麗になるのはいい事だしな。
私は池の縁にしゃがみ、どうにか亀が見えないか水を覗いた。しかし光が反射するだけで中は真っ暗である。そう広くはないが、意外と深いのかもしれない。
懐かない馬に餌をやり、手を叩くと寄ってくる鯉に餌をやる事がささやかな楽しみだったが、そこに亀も加わるのは非常に嬉しい。虫以外の生き物は何でも可愛い。そこそこ長生きするし、この戦いが終わっても冷たい鉄になったりはしないし。

じっと亀を探していたが、不意に蛍が水面を照らして思い出した。三日月はこれを見せたくて夜に連れてきてくれたのだという事を。

「綺麗だね…すごい…」

咄嗟に言ったが、別に嘘ではなかった。本当に綺麗だ。ぼくのなつやすみでしかこんなの見た事ないよ。意外と素早く飛び交う光が点いたり消えたりし、相当な数がいる事を推察する。庭の池にも蛍はいるけど、こんなにたくさんはいないはずだ。別の池から調達してきたんだろうか。絶対そっちには参加したくないな。

光は綺麗でも虫は虫…。蛍だって昼間に見ればなかなか不快なフォルムである。そんなのが近くに飛んできたら避けて当然だ。顔の前を横切る光を見て思わず後ずさると、いつの間にか後ろにいた三日月にぶつかった。もちろん謝ろうと思ったのだが、そのまま自然に肩を寄せられてしまい、言葉が出てこない。
反対の手の甲で、三日月はゆっくり蛍を追いやった。優しい手つきだ。じっと所作を見つめていると、何故かその手が私の方へ向かってくる。完全に硬直している私にはどうする事もできず、そのまま顎に触れられ、頬に唇を寄せられても、あまりのスマートさに沈黙するしかなかった。もはや蛍どころではない。いや三日月に至っては、最初から蛍どころではなかったのかもしれなかった。
飛んでくる蛍は避けなくてはならないし、三日月の事も何とかしなくてはならない。どうする。どっちが優先なんだ。光を目で追っている間も、三日月の指先が私の顔を撫でている。

どうしよう。蛍か、三日月か、蛍か、三日月か。どっちを払いのけるのが正解なんだ。
ていうか待てよ、亀って雑食だから蛍の事も食べちゃうんじゃないか?
急に現実逃避をした私を、三日月の方が正気へ導いた。

「黙っていると調子に乗るぞ」

その声にハッとし、私は三日月と蛍の両方を振り払う。

「じゃあもう終わりだよ…終了…」

露骨に距離を取り、それだけ言ってまた黙った。やっぱり二つ返事で了承する案件ではなかったと頭を抱え、熱い頬をやり過ごそうと話題を変えた。

「明日…昼間にまた亀見に来るよ」
「そうか、亀の方だったか」

何故か自嘲気味に笑った三日月に少しだけ近付き、やはりどうにも腑に落ちない事をもう一回だけ尋ねた。二回くらい答えてくれたと思うが、こんな町おこしレベルの蛍再生計画を行う理由にいまいち納得がいかない。三日月宗近はわりと面倒臭がりな刀だ。こんな事を主導で行うタイプには全然見えないのだった。

「…本当になんで池の水ぜんぶ抜いたの?サプライズ好きでも蛍好きでもないよね、別に」
「そうきたか…」

今度は呆れた声を出される。私は相当変な事を聞いているみたいだ。変なのは絶対にお前らの方なんだが、刀の常識だと私がおかしい事になるらしい。

「だが主の事は好きだぞ」

憎たらしい微笑みを無視して、私は答えが来るのを待った。

「故に、主の喜ぶ顔が見たかったんだが…」

三日月が指を開くと、そこに蛍が止まった。そういう芸みたいだった。いまだに言わんとしている事がわからずにいる私は、三日月の少し落ち込んだ声を聞いて、ようやく主旨を理解する。

「蛍より亀か…」
「な、なんだよ…蛍だっていいよ全然…」

もしかして単純にご機嫌取りだったのか?綺麗になった池に集まった蛍を見て私が喜ぶだろうという、三日月なりのアピールだったんだろうか。
風流がわからなくて悪かったな…とちょっと申し訳ない気分になり、亀ではしゃぐ自分にも恥ずかしくなった。毎年庭の蛍を見てるから、蛍が好きだと思ったんだろうか。もちろん好きだけど、それは花火を楽しむみたいに、その時にしか見られない光景が好きなのであって、蛍っていう虫が好きなわけではないんだ。だって虫だからな…亀が光ればそれが一番いいんだけどな…。
せっかく用意してくれたのに水を差してしまい、非常に申し訳ない気持ちになってくる。私のためにここまでやってくれた事は本当にすごく嬉しい。審神者として光栄だ。なんだか報われるなぁって感じだけど、途中なんだかおかしな事があったと思うので、素直に喜んでもいられない。

「ありがとう…」

触れられた頬を押さえながら言うと、三日月はその手を取り、帰路へと向かう。

「また明日来よう。俺は主と違って生き物には好かれるからな、亀もすぐ出てくると思うぞ」

嫌味かよ。そんでこいつ全然諦めてねーな。

「鯉には好かれてるし!」

三日月の手を振り払った私は、蛍をかき分けながらさっさと本丸へ帰った。次の日一人で池に行った時は現れなかった亀が、三日月と一緒だと現れた事に、偶然だと往生際悪く叫んだものである。

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