我が上の星は視えぬ

夜は静かだ。爆音で騒ぎ続ける蝉の鳴き声もなければ、畑仕事中に流しているラジオの音も、刀剣たちの声もない。
基本のルールさえ守れば生活スタイルは自由にさせているが、この本丸はわりと規則正しく過ごしている者が多い。私含め夜は皆寝静まっているけれど、そう単純に行かない日も時にはあった。

どうにも寝付けず、暑さゆえの寝苦しさから、涼を求めてプールに浮かんでいた。真夜中だったが電灯のおかげで真っ暗ではない。おまけに月明かりで水面は照らされ、仄暗い恐怖などは微塵も覚えなかった。

水の中って落ち着くな…重力を感じないからだろうか…。ぼーっと浮いているだけで心が鎮まっていく。審神者になってから本当にいろいろあった。まだこれ以上あんのかってくらいあったから、きっとまだこれ以上もあるんだろうな…と思うと部屋に戻る気になれず、ただただ月を眺めている。休息が必要なんだろうと少し前から感じてはいる。体調不良も続いたし、終わりの見えない戦いを続けていたら、そりゃ普通に疲れるだろと思うわけだ。私は生身の人間なんだからな。なんか本当にどうしたらいいかわかんないや。スランプなのかもしれない。相変わらず戦績はすこぶる良いんだけども。

審神者って有給取れるのか?と考え始めた時、足音が聞こえた。咄嗟に足をつき、身を潜めるように顎まで水に浸かる。
気配がする。近くに誰かいる。こんな時間に離れのプールまで来る奴なんているのか?私みたいに寝付けない奴か、それとも私が溺れていないか監視に来た奴なのか。何にせよ水着一枚の威厳のないスタイルだ、不安を感じて当然だろう。羽織は持ってきたがもちろん陸の上だ。というかそれを見て私がいる事に気付いたのかもしれない。
どうしよう。こんな時間に一人でプールにいるなんて病んだ事をしていたら、また心配されるかもしれない。ただ泳ぎに来ただけなのに。私は至って普通なのに。
緊張しながら足音が近付いてくる方向を注視していると、正体はすぐにわかった。月明かりの中に入ったからだ。

「主、珍しいところで会ったな」
「三日月…」

三日月宗近だ。正直意外だった。想像していた奴のどれでもなかったのだ。
何だか妙にホッとし、こんな時間にこんなところにいる意味がわからず、私は率直に問いかけてしまう。

「…何してんの?泳ぎ?」
「いやいや、じじいの深夜徘徊さ」

冗談か本気かわからん。本当だとしたら隠居してくれ。
掴めない様子に苦笑し、もう泳ぐ気分ではなくなったから、プールから上がろうと梯子に手をかける。深夜徘徊と同じレベルだと思われては困るしな…どんなに疲れていても認知症と一緒にされたくはない。
水から上がると蒸し暑さが纏わりつくが、それどころではない衝撃が突如足の裏に走った。梯子を上がっていた最中、鋭い痛みが襲ったのだ。

「痛っ!」

近所迷惑と言われても反論できないクソデカ大声で叫んでしまい、私は慌てて足を上げた。何が起きたかわからなかったが、足を負傷した事だけは完全に理解する。
いてぇ。梯子で切ったのか?倉庫に置いてあった木製のボロ梯子だ、どこかしら壊れていてもおかしくないが、プールサイドの電灯程度の明るさではよく見えない。

「どうした」

私の奇声を聞きつけた三日月が、慌てて駆け寄ってくる。どうしたかは私もわからないので陸地に上がり、座り込んで患部を確認した。

「足切ったかも。いてぇ」

ズキズキと響く足の裏が熱を持ち始める。血が出ている気もするが、暗いのでよくわからない。

「どれ」

明るいところへ行こうとした時、三日月が私の足を掴んだ。じじいはまだ老眼じゃないのか?と軽口を叩く隙もないまま足の裏を撫でられ、くすぐったさに思わず口を押さえた。

「血が出ているが…深い傷ではなさそうだ」

そう言った三日月の指が、黒く染まっている。血か。梯子の木片で切った可能性が高いな。切ったというか刺さったような気もするけど、重傷ではないと言う三日月を信じて安堵しておこう。
ボロの木材に未知のウイルスなどが潜んでいない事を祈りながら立ち上がろうとすれば、三日月は私をそのまま座らせ、面倒見の良い部分を見せてきた。

「ちょうど手拭いがある」
「え?いいよ…帰って絆創膏貼るから」
「心配せずとも下ろし立てだ」

いやそういう意味ではないんだが。むしろ逆に気遣うんだが。
何故新品の手拭いを都合よく持っているんだ…なんて怖い事を聞く気にはなれず、迷っている間に布が足へ巻かれていく。外気に触れないだけで随分と痛みが減った。有り難い限りだが、有り難い限りなんだけど、何とも申し訳ない気持ちで表情が歪んでしまう。

「ありがとう…ごめん」

厚意に引け目を感じて素直に頼れない私にも、三日月は微笑みかけてくれた。優しい。真っ白の手拭いを洗って返すか新しいのを買って返すかすでに悩ましい。でも一度血で汚れたものを返すのは気が引けるから、きっと買うだろうな。高いやつだったんだろうか。染物屋で作ったやつとかだったらどうしよう。相場とか全然知らないぞ。
先の事で頭を抱えている私とは裏腹に、三日月は今の心配をしてくれて、ハッと我に返る。

「歩けるか?」
「あ、大丈夫…」

歩行困難なほどではないと自覚しているので、さっきから立ち上がろうとしているのだが、尋ねた三日月の方が足を離していない状況だった。意外と過保護なのか、ボケ老人なのか、私を見つめる視線からは判断できない。その視線も、上から下へ行き来している。

「ふむ…」

何なんだ一体。どういう呟きなんだ。
痛む患部より、触れている足首の方が熱くなってくる。嫌な空気になってきた。何もかも急にやってくるのやめてくれないか。私が気付いてないわけじゃないよな?今回ばかりはさすがに急すぎるだろ。自分の落ち度を感じられない。怪我をしたこと以外では。

「妙な気など起こすまいと思っていたが…触れてみるとそうもいかないものだな。ははは」

笑ってやがる。マジで何言ってんだ?
ストレートな言葉に、愕然としながら沈黙した。気でも狂ったのかーっ!と叫ぶ目玉おやじのコマが浮かんだが。
湾曲解釈するところが見つからない台詞のせいで、危機を覚えた体が勝手に足を引っ込める。それでも三日月は手を離さない。妙な気を起こしてるのか。そもそも妙な気ってなんだ?起こしようがあるのか?寝かせておけよそれは。
衝撃のあまり動けずにいると、三日月は穏やかな表情のまま近付いてくる。間近で見ると綺麗な瞳だ。こんなミケランジェロの最高傑作みたいな面をしておいて、妙な気を起こすとは一体どういう了見なんだ。現実味がなさすぎる。何の想像もできない。アンシーに刺されたウテナくらいの驚きと不意打ち。正直何回かこのパターンは経験済みだが、そのどれよりも驚いた。万死に値するジョークだとしたら、まぁ万死に値するわな。ジョークじゃなくても万死だ。こんな状況で妙な気を起こす奴があるか。

「俺が怖いか、主」

混乱の中で焦っていたら、今度はそんな事を言われ、また驚いた。びびらせてる自覚はあるのか、と確信的な様子に絶句する。
いや怖ぇよ。深夜徘徊の末に色ボケじじいはいろいろと末期だろ。と考えて、私が抱いている恐怖とは何なんだろうと思い始める。
私は一体何を恐れてこの刀剣たちの好意を葬っているんだろう。三日月の事は怖くない。私は審神者だし、彼らは刀剣なのだ。使い方がわからなくても、壊し方はわかる。そして刀剣などに、決して私は壊せない。

「…怖くはない」

では何に怯えているんだ。私がしてきた努力や、我慢して諦めてやっと得たものが、不確かなものに壊されるかもしれない事が、怖くてたまらないんだろうか。充分な働きをしてくれたら動機なんて何でも構わないはずなのに、どうしても浮ついた気持ちが許せない。
人間でもないのに。そんな感情はきっと間違いなのに。私なんて正しい歴史を守るために、恋の機会すら喪失したのに。何なんだお前達は寄ってたかって。怖いわけあるか。人生を180度変えられてこんな状況に陥って、それでも何を言われても捨てられないくらいこの本丸に愛着があるのに、怖いなんて思うわけない。すぐに傷付く刀の事など。

「…そうか」

真っ直ぐ見つめていると、三日月の方から視線を逸らした。労わるように足を撫でる手が、鉄の温度に変わっていく。

「主には力があるからな」

再び目を合わせた三日月は、ミケランジェロの最高傑作と呼ぶにはあまりにも無機質に思えた。美しい刀身を思わせる瞳が月明かりで光ると、まるで鋒を突きつけられているみたいだ。

「きっと視えすぎてしまうのだろう」

急にオカルトの話か、と思ったが元々こいつらも私もオカルトだ。壊れた梯子も見えなければ、恋愛感情を見なかった振りしてやり過ごす私だぞ、逆に何も見えてないんじゃないかと思う。都合のいい事ばかり見ていたい。みんなだってきっとそうだろう。
皮肉を言われているのかと思ったが、そうではなかった。本当にそのままの意味だと気付き、逆に三日月には私がどう見えているのだろうと考えてしまう。

「どんな姿形をしていようとも…真実が視える」

悲しげな目を向けられて、私は沈黙した。だから何もかもが不気味に思えてしまうのかなと素直に受け取ってみた。
私が圧倒的パワー系審神者だから、人の形に惑わされたりしないという事だろうか。この体の中に詰まっている鉄を透過させる事はできないんだろうか。私がもっと弱い審神者だったら何かが違ったのかな。人並みに誰かを好きになったりとか、それをおかしい事だなんて感じないまま過ごす日々もあったんだろうか。

「…力が無い方がよかったわけ?」

意地の悪い言い方をしても、三日月は左右に首を振るだけだ。微笑んだまま。

「力の有る無しではなく、今生で巡り会った主が、俺は愛おしい」

直球すぎて思わず立ち上がった。もういいわ、と漫才を終わらせるように相手の肩を叩き、上着を羽織る。
何もわからん、何も見えないし。もう聞きたくもないし。

「まぁ、有るに越した事はないが」
「それはよかった」
「報われるのが良いとも限らんしな」
「本当かよ」

本当だ、と後ろから聞こえてきたが、返事をせずに歩き出す。足の痛みなどもはや感じなくなっていた。きっと手拭いのおかげだとわかってはいるが、それを認めてしまうと痛みが舞い戻るような気がしてしまう。

「主」

このまま真っ直ぐ帰ろうと思ったが、審神者の性なのか、呼ばれるとどうしても振り返ってしまう。別にいつもの三日月宗近だ。何か別の物に見えたりはしないし、今は鋭い刃物に見えるわけでもない。人の形をしていて、すごく綺麗だ。
だからって人間になるわけじゃない。私には最初からそう視えてるだけだ。力が有るとか無いとかじゃなく、事実なんだ。事実だけは何よりも確かなんだから。

「そう怒るな。自分で思っているより怖いぞ」
「…別に怒ってないよ…」

否定してみたが、きっと私は怒っている。上手な受け止め方を知らない自分に怒っているし、こんな事で傷付く脆い刃にも怒っている。

「足が痛いだけ…」

悪びれもなくついた嘘を、三日月が信じたのか定かではないが、彼は私の手を取って平坦な道を歩き始めた。一歩後ろを進みながら、視界に入る手拭いを見ている事が段々とつらくなってくる。優しさを感じたはずなのに、それを疑う自分に幻滅する。

本丸に着いてすぐ、私は手拭いを取った。心を掻き乱されるものは見たくなかったのだ。都合のいいものしか見たくないのだった。

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