馬・参

「馬ー!馬馬馬!」

主の謎の叫びが響き渡る。戦闘後にこの金切り声はつらく、程よい眠気も飛びそうだ。面倒なので無視して酒を飲もうとした時、辺りを見回して、主の主張をひっそりと悟る。

「馬どこやったんだよ!」
「馬ぁ?」

加州清光を問い詰める主は、いつもなら真っ先に戦闘を労うものである。お疲れ様、とか何とかって。俺は主のそういうところが実は結構気に入ってたりするけど、今日は違った。馬が絡むとこの人はたまに変なのだ。

「お前が馬連れて行っただろ!偵察担当!」
「あー…でもそのあと誰かに貸した」
「私です」

手を挙げた小狐丸を主は見つめ、もはや半分睨んでいたが、刀達はひるまない。温度差が凄まじい。もちろん俺も冷めている方なので、多勢に無勢で主の劣勢だ。まぁ数なんて関係ない事は、俺たちの立場を考えると一目瞭然だけれど。

今日の戦闘は、早く動いた方が有利な戦局だった。そこで加州清光がいの一番に馬を走らせ、敵の偵察に行ったのだ。移動用の馬はその後小狐丸に託され、確か戦闘中に視界の端に入っていたから、無事ではいたと思う。主は馬をやたら気にするけど、戦闘のどさくさで構っていられない時はある。今回もまさにそれだ。
名乗り出た小狐丸だったが、しれっと罪を雑になすりつけた。

「しかし私のあとに使った者がいたはず」

俺は使ってないからな、と早々に面倒事から手を引こうとした時、優等生の主から説教が飛んだ。

「犯人探しをしたってしょうがねぇ。馬も大事な仲間だという自覚を持っていただきたい」

他の連中は疲労で白けていたが、主が馬を本当に大切にしている事は知っているので、黙って聞いていた。下手に喋ると、馬を迎えに行かされる可能性もあるのだ。反省した振りをして俯き、誰かが行ってくれと祈っている。気持ちはわかる。へし切長谷部あたりが行ってくれたらいいと思う。でも奴は主の側を離れないから、そこでまた一悶着起きるだろうし、とにかくどう転んでも面倒だ。酒が切れる前に早く帰りたい。主の視線から逃れるように地面を見つめ、大事な仲間、という言葉をふと噛みしめる。
俺のことも、そういう風に言ってくれた事があった。こんなダメ刀でも。

「誰か連れて戻って。大体こんなところに武装した馬がいたら不審だし!」

歴史改変ですよ!と大袈裟に息巻く主に、我こそはと手を挙げる者はもちろんいなかった。どう足掻いても面倒なのだ。命じられれば渋々行くけど、立候補するほど馬に頓着もなく、主からの好感度に執着もない。任務を果たしたところで、ありがとうの一言があるくらいか。割りに合わないな、と考え、でも主はそういう事を思ったりしないから、なんというか人間的だと感じる。
損得なしに馬を愛せるのだ。可愛いから、という理由だけで。愛着が湧いたという実感だけで。自分達が世話をしなくては生きていけない、そんな事実があるだけで。
俺も主に愛されなければ、馬より価値がないと思う。主の役に立てないのは、もっとそうだ。

「…俺が行く」

主に酒を預け、らしくない事を言った。全員が面食らい、迎えに行けと言った主でさえ耳を疑う始末だ。日頃の行いを考えたら当然だろう。他の奴に行かせようとするだろうか…と主の判断を待ち、お互いに見定めるよう、視線を合わせる。
主の言葉一つで、どうとでもなるのが俺たちだ。きっと主はそんなこと想像もしていないだろうけど、だからこそ信じられるものもある。

「マジ?頼んだ。ここで待ってるからね」

信じてもらえるって事が、どれだけ胸を打つのかも、想像していないに決まってる。


主は馬に名前をつけない。愛着が湧きすぎたら、別れる時につらいからだと言う。もう手遅れだと思うし、どう考えても無意味だが、主にとっては大事なことみたいだ。いつか別れが来るのは、俺たちだって同じなのに。名前くらいで愛着が変わるなら、今はどんな思いで俺を呼んでいるんだろう。

「不動!」

馬に駆け寄りたい気持ちを抑えている事が、遠目からでもわかった。手を振る主は、俺が無事に馬を連れ帰った事に、内心安堵しているに違いない。内番のサボりは日常茶飯事だ、非協力的な刀と思われている事は確実なのに、主は待っていた。俺が馬を連れ帰る事を。誰かに様子を見に行かせたりもせず、信じて待っていてくれた。こういう気持ちは、何だか懐かしい気がした。幸せだった頃っつーか、真っ当に求められていた頃。応えたいと思っていた頃。

「無事でよかったー。お前も頑張ったね」

真っ先に馬を撫で、主は心底ホッとしたように口元を緩ませる。心配性だから、いつも不安を取り除く事を考えている。おかげで俺たちは常に安全策の中にいるし、同時に線引きされている事も知っている。だって愛着が湧いたら、別れるのがつらいから。

「…行ってくれてありがとう、不動」

やたら感動したみたいに、主は俺の両手を取った。強く握って、軽く左右に振る。落ち着きがない人だ。でも温かい。指の先まで熱がこもっている。こんな手をした人と別れるのは、俺だってつらいのだ。主にはそれがわからないんだろうか。
主が馬を慎重に愛するのは、自分が残される側だからだ。残されるのがつらいと知ってるなら、俺をこんな気持ちにさせないでほしい。失うのが怖いと思わせないでほしい。でもそれは、馬に名前をつけないのと同じくらい、手遅れで無意味な事だ。割りに合わないと思った仕事が、違う意味で割りに合わず、心臓の速度を抑えられない。

「じゃ、帰ろうか」

手を握ったまま離さない主の事を、俺は結構好きだけど、気持ちを悟られないよう、そっと払いのけるしかなかった。いつか訪れる別れの日に、耐えられるように。

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