背中に眼は無し

ここでは池の鯉と馬だけが、血の通う生き物だと思っていた。

「さっむ!」

吐いた息が白い事に絶望し、私は地団駄を踏む。池の水凍ってんじゃないの?と覗き込み、流石にそこまでではない事に安堵した。手塩にかけて育てた鯉が元気である事が何よりも嬉しいという年寄り臭い人間になってしまった事は、もうかなり諦めている。

「寒いなら早く行こうぜ」

馬の上で待機する日本号に呼ばれ、私は小走りで近付いた。

今晩はすき焼きなのだという。直前になって春菊がない事に気付き、別になくてもいいだろと言ったのだが、誰かが畑に春菊が成っていた事を思い出しやがったので、私と日本号が馬に乗って採りに行く事になった。春菊畑は、歩いていくには遠すぎる上、悠長にしてたら夕飯には間に合わない。そして私は一人じゃ馬に乗れないし、日本号は春菊の良し悪しがわからない。お前が野菜ソムリエだったならば…と相手を恨めしげに見つめ、溜息をつきながら馬に乗り込んだ。
春菊を放り込むための籠を抱え込み、その後ろから、日本号が手綱を握るため、腕を伸ばす。壁のような存在感に覆われ、そういえばこいつと馬に乗るのは初めてだったと気付いた。

でかいなこの槍。空条承太郎と同じくらいの身長だったか。
ヒグマに真後ろから迫られているようなプレッシャーに、私は思わず息を止める。馬もこんなでかい奴を乗せなきゃならないなんて大変だな。今日は私も乗ってるからさらに大変だ。

初めて本丸に来た時、何が何やらよくわからなくて、刀剣男士って人間なの?人間じゃないの?と混乱したものである。そんな中、池の鯉と馬だけは、ちゃんと生きてるな…と思って、親近感を覚えた。人の形をした刀より、馬や魚の方が身近に感じてしまったわけだ。以来私は魚好きの馬好きで、主は鯉と馬ばっか可愛がるからさぁ、と刀剣たちに嫌味を言われる日々を送っている。

「で?どっちの畑だ?」
「あっちだよ。寒いから早く…」
「正三位を扱き使うねぇ」

軽口を叩き合い、日が暮れる前に帰りたいからと日本号を急かした。馬がスピードを上げると、少し揺れが大きくなる。籠を持っているせいでバランスが取りづらい。帰りはもっと大変だろう。
自然と背中を預ける形となり、思いのほか居心地がいい事に驚いた。そういやいつも馬に乗せてくれるのは長谷部だ。固い鎧のせいで寛ぐどころではないが、今日はジャージの大男が相手である。人をダメにするソファとまではいかないけど、謎の安定感に気分も落ち着いた。

背中が温まると、寒さも随分マシに思えた。
まだ刀も数振りしかいない頃、人手不足を補うべく、右も左もわからないながら、私も馬の世話をしていた。生まれて初めて馬に触れた時、体温の高さに驚いたのを思い出す。三十七度だったか、八度だったか、冷たそうな質感なのに私よりも全然熱くて、生き物なんだなぁとしみじみ思った。
日本号の体も、同じなんだろうか。同じ生き物でいいんだろうか。きっと私や鯉や馬よりずっと丈夫なんだろうけど。

「日本号って…あったかいね」

あとでかいね。こうなって初めて本当にでかい事に気付いた。外国人選手にマークされた日本のバスケット選手くらいの威圧。
人間かどうかはわからないけど、確かに存在するこの温度は、紛れもなく本物だった。私は不思議な心地になりながら、それでもやっぱり寒いな…と身を縮めると、真上から困ったような声が降ってくる。止してくれ、と。

「…へし切られちまう」

なんで?
脈絡のない日本号の呟きの意味がわからず、私は上を向く。すると頭を押さえつけられてしまったので、危うく落馬しかけた。何のためにお前と一緒に馬に乗ってると思ってんだ?落ちるためではないってわかってるよな?
ふざけんなよデカブツ!と怒鳴ってる間に、寒さは消えていた。なんだか背中が一層熱くなったのは、気のせいだったのか、真実だったのか。

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