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玄関を開けた背中に続いて家に入ると、まるで何事もなかったかの様に元に戻っていた


伸兄が庇ってくれたおかげで、特に何が見えた訳じゃないけど、あの異様な臭いは覚えてる

酸素を失い意識が薄れて行く中、私が感じていたのは、離さないでくれていた伸兄の腕と、その鉄の様な臭いだけだった



「.....荷物を置いて着替えて来い、そしたらすぐに出る」

「.....分かった」



自分の部屋に入るとただ一つを除いて何も変わっていなかった

綺麗に整理し、ホコリひとつ無いのは潔癖な伸兄らしい


そしてただ一つ変わったというのは、パソコン横にあった猫の置物だ

伸兄は多くは語らず、ただ捨てたと言った

あの従兄弟に貰ったというのが悪なだけで、見た目は気に入ってたんだけどな....





クローゼットを開けスーツを取り出す


それに着替えて、いつもの仕事用の鞄を持った





リビングに出ると同じくスーツ姿の伸兄

私はダイムを愛でに行った


そのふさふさした毛に触れると、何故か悲しさが込み上げてくる


....お母さん....



「もういいか」

「うん、行こ」





































道中で買った本物の花束をそっと置く


後ろから優しく包まれる慣れ親しんだ香りに、どうしてもまた涙が零れる


お葬式すら行けなかった


綺麗で美しいお母さんの顔をもう二度と見れない




昔の記憶がどんどん溢れて来る


まだお父さんも家に居た時
毎日が本当に幸せだった

赤の他人である私を、心温かく迎えてくれた征陸家

お父さんは刑事でカッコ良いし、お母さんは美人で優しい

四人で過ごした日々は何よりも輝いていた



でもそれも長くは続かなかった

ある日からお父さんが帰って来なくなった

突然始まった凄惨な差別に、お母さんは私と伸兄に「お父さんは必ず帰って来る」と言い続けた

伸兄は頻繁に傷だらけになって帰って来たし、例外無く絡まれた私に代わってくれた事もあった


そんな毎日にお母さんも耐えられなくなったんだと思う

後で聞いた話だと合成薬物に手を出したらしい

お父さんは帰って来ない
お母さんは徐々に壊れていく
差別は止まらない

全てが修復不可能になった後に顔を見せたお父さんを、伸兄は真っ向から拒絶した
“どうして母さんとの約束を守れなかったのか”って


お婆ちゃんも居たけど、そこからはほぼ二人だった

私は血縁関係も無いし、顔が似てるわけでもないから、それを良い事に伸兄は学校や公共の場では出来るだけ私を避けた

だから私はほとんどイジメを受けたことが無い

名字という名字を変える事が無かったのはこの為でもあった

伸兄はどうしても直属の息子ということもあって、お母さんの旧姓である宜野座に改姓しても、大して差別を免れなかった

さすがに中学時代以降は差別や偏見も減ってきて、そこまで酷くは無かったけど、それでも時折あざを作って帰って来る伸兄を私はどうしようもできなかった


私が覚えてるお母さんの最後の言葉は




「.....伸元を支えてあげて、強がりだから」

「....なんだいきなり」

「お母さんが言ってたの.....まだ薬物に侵されてない時」

「.....そうか」

「私、伸兄の支えになれてる?どっちかというと逆だよね....?いつも困らせてばっかりな気がする」

「その自覚があるんだったら側にいろ。それが一番の支えだ」



そう強まる腕の力に、私は目の前の墓を見つめる



宜野座冴慧


私が唯一記憶する母親





「私ね、入院してた間夢を見た気がするの。怖い夢だった。お母さんがどんどんお母さんじゃなくなっていく夢。最初は優しかったのに、少しずつ怪物みた

「そこまでにしろ、嫌な事を無理に思い出すな」

「.....ごめん」

「.....そろそろ時間だ」

「うん.....また来るね、お母さん」


































「ありがとう、連れてってくれて」


公安局ビルに向かう車の中から見える景色は、雨でホロが剥がれた東京

剥き出しになったこの街本来の姿は、無機質だ



「お父さんはお葬式.....どうせ行ってないよね」

「....あいつは家族なんかじゃない」

「....そう言うと思った」


さすがに可哀想だと思うものの、お母さんを亡くして辛い思いをしている伸兄に、“お父さんを連れて行けば良かったのに”なんて言ったら酷過ぎる


「今日仕事が終わったら一緒にカウンセラーに来い。お前にとっても厳しい時間だったはずだ」

「....分かった、いつも通り一係オフィスに行くね。そう言えばさ、プレゼントどうだった?」

「....自分で確認すればいい」



そのまま運転を続ける伸兄のスーツのボタンに手かけ外し、ジャケットを少し開くと



「あっ....ふふっ」

「.....何がおかしい」

「いや、本当に付けてくれてるんだって」

「付けない理由が無いだろ」



再びボタンを閉めて元に戻してあげる



「....あの日実はすごい悩んでたんだけどね....結局シンプルでベタなところいっちゃった」



買ったのはネクタイピン

例の従兄弟が買い物に着いて来たちゃったが為に、あまり深く迷う事が出来なかった
まぁでも、スーツが必須アイテムの伸兄なら損は無いかなと思って



「無くさないでよ?」

「当たり前だ」





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