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常守にカウンセラーに連れて行かれた夜から、1週間近くぶりに見た名前は妙に緊張していた

話がしたいと言う名前と共にやって来た休憩室で、以前と同じようにコーヒーとリンゴジュースを一つずつ購入する


「....ありがとうございます。ベランダ、出てみませんか?」

「構わないが....」


普段とは違う行動をした様子に、"話したい事"はかなり重要な事柄だと勘付く

真っ直ぐと柵に向かって歩き出した後ろ姿
綺麗な黒髪が風に靡いている

フェンスを背もたれにしてこちらを振り返った名前に、俺もそこで立ち止まった



「....あの....この間はジャケットを貸してくれて、ありがとうございました」

「それでも風邪を引いたらしいな。まぁ貸した俺のも濡れていたんじゃ仕方ないかもしれないが」

「貸してくれていなかったらもっと酷くなっていたかもしれませんよ」


そう笑って見せた名前に、やはり感情に溢れそうになる


「....それで、何が不安なのか分かったのか?」

「....狡噛さん、」


その先が聞きたくなかった
俯いた表情が、何を言おうとしているのか語っていたからだ

俺はただただ必死に自分を抑え込んだ
そうでもしないと、また名前を傷つけてしまいそうで


「....本当に、ごめんなさい....」


目の前で深く頭を下げる名前

どんな決断を下されようと、それに従うと決めたはずだ
だがいざ拒絶されると、そのあまりの苦しさに目を瞑った


「....それがお前の答えなら俺は何も言えないさ」


嘘だ
本当は言いたい事は沢山ある

何故俺じゃダメなのか
俺が好きなんじゃないのか
絶対に幸せにするから考え直してくれ
もう二度と傷つけないと誓う、だから....

そんな言葉が何一つ出て来なかった
また名前を困らせてしまうような事はしたくなかった


「....俺はもうお前にプロポーズまでして、覚悟を伝えた。それを取り下げるような事はしない。いつでも気が変わったら言ってくれ」

「......」

「.....名前?」


頭を下げたまま、ただ沈黙している名前に俺はコーヒーを飲み干した

....どう言う事だ?
もう俺に振り向くつもりすら無いのか?


「本当にごめんなさい.....」


再び同じ言葉を紡いだ名前は相変わらず顔を上げない


「....どうした?そんなに謝るな、俺はお前を責めちゃいない」

「.....その....私.....」



肩を掴んで無理矢理体を起こさせると、どう追いかけても目を逸らされた

何が起こってる?

俺は嫌われたのか?

ギノに何か言われたのか?

もう二度と俺とは関わるなと?



そんな入り乱れた思考をする俺を、名前はたった一言で全てを覆した







「....結婚....しました」




「.....は....?」






結婚....?

誰と

あんなに好きだと言ってくれていた俺を拒絶して、誰と結婚した?

意味が分からなかった





「い、痛いです....」

「誰とだ!いつどこで知り合ったやつだ!」

「落ち着いてくだ

「この数日の間に何があった!シビュラの判定でも受けたのか!?」

「狡噛さん!」

「俺が好きなんじゃなかったのか!?」

「やめて下さい!」


力強く掴んでしまっていた肩が離れ、名前に押し退けられた事にしばらくして気付く



「....す、すみません....」

「.....」


そう謝られる度に、負の感情が生まれていく気がした

....何故だ
どうしてこうも名前は俺から離れて行く






「名前、俺は

「狡噛さん、絶対に伸兄を責めないと、傷付けないと約束して下さい」




俺はその言葉に自分の耳を疑った




「....待て、ギノ....だと?」

「約束して下さい!」

「お前....まさかギノと結婚したのか....?」

「私の話を

「あいつに強制されたのか!?」

「っ、違います!落ち着い

「お前とあいつは

「私は伸兄を愛しています!」




俺は信じられなかった

思えば名前の口から、"愛している"などと言う言葉は聞いた事がなかった

唖然とする俺に、名前は容赦が無かった

ポケットから何かを俺に差し出したかと視線を向けると、公安局職員証だった

そこに記された名に俺は唇を噛み締めた




「....お願いします狡噛さん、絶対に伸兄を責めないで下さい。これは私が選んだ幸せです」


こんな時にも名前はギノを気遣っている
目の前で俺が項垂れているのにだ

思えば初めて名前に想いを告げた時も、それまでの事をギノに謝れと言われた


「狡噛さんを嫌いになったわけじゃありません。今でも大好きです。だからこれからも今まで通りに、優しくてカッコいい狡噛さんでいて下さい」


"私、紙の本を読んで見ようと思ってるんです"と言う名前に、俺はもうどうしようも出来なかった


「あと....一係の皆さんには言わないでください。伸兄が秘密にしたがってるみたいなので....」

「.....あぁ」


必死に絞り出した承諾の声
俺が名前の為に出来る唯一の事はもう、その願いを聞いてやる事しかなかった



「....こ、狡噛さん....そんな

「一人にしてくれ」

「でも、

「出てってくれ!....頼む」



さっきまでギノを気遣う名前を気にしていたのに、反対に優しくされるとそれを体が受け入れなかった

俺に怯えたのか、ゆっくり去っていった足音を振り返る事もう出来なかった






終わった





全てが終わった










未だに愛する女が、完全に別の男の物になった







俺は二人がいるであろうオフィスに戻れずにいた





ただベランダに座り込み、風に吹かれなびくタバコの煙を眺めながら、その後ろで夕日が沈んで行く













耳障りな着信音を力無く取ると


『何をしている、早く戻れ。まだ当直は終わっていない』


その声の主に、酷く心臓を抉られた気がした





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