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「じゃあ今日も頑張ってね」


地下駐車場からエレベーターに入って直ぐ、そう人目、と言うより監視カメラの目も憚らずに抱き付かれる

その同一の布地が最小限の距離で擦れ合う温かみに、なんとしてでも"帰らなければ"と強く誓う

もちろん明らかだった名前の俺に対する心配を和らげる為でもあったが、そろそろ濁りが限度に近付いて来ているサイコパスを振り切らせない目的でもある名前とした外出の約束

絶対に槙島の確保と逃亡した狡噛を連れ戻さなければならない今、集中セラピーを受ける余裕など無い
....必ずやり過ごして見せる


「....名前、愛している」

「うん、私も」


恥ずかしそうに嬉しさを秘めた笑顔が、何故か突如酷く俺の心を掻き乱した

離したくない
離してはいけない
今を逃したら....

そんな恐怖にも似た焦りに瞬間覆われた俺は、扉が開き"行って来るね"と紡がれた儚く脆い声を咄嗟に引き留めた


「え?」


困惑したような顔を向けた名前に、俺は込み上げる全ての感情を押し殺すように奥歯を噛み締める

....ダメだ
きっと今一歩踏み出すと歯止めが効かなくなる
名前の不安感を煽るわけにはいかない

俺は自身を落ち着かせる為に深く息を吐いた

....大丈夫だ
ここまでずっとやって来た
あいつのようにはならない


「....プラネタリウムで寝るなよ」

「なっ、今それ!?寝ないよ!むしろ伸兄こそ仕事終わりだからって寝ちゃわないでよね!」

「あぁ、大切な時間を無駄にするわけがない」


名残惜しいその手を仕方なく離し、仕事へと向かって行った背中をエレベーターのドアが閉まるまで見届け続けた









一人となったエレベーターの中で左手薬指の指輪を見つめる
向島先生には、"奥様の為にもいち早く治療を受けるべき"だと諭された
そんな事は分かっている

だが同時に、狡噛をこのまま失う結末も名前の為にはならない
そして俺自身も、様々な歪み合いがあったとは言えど、狡噛は簡単に無視出来る存在でもない

....もうこれ以上、誰も"裏切り"させはしない
あの馬鹿は必ず俺が


そこで41Fの到着の知らせとして開かれた扉と、デバイスの着信音に意識を引き付けられる

とりあえずエレベーターから降り、オフィスへ足を進める最中に唐之杜からの通話を取った


「なんだ」

『相変わらず朝から無愛想ねぇ』

「早く要件を言え」

『はいはい。市川で殺人事件が起きたんだけど、現場から慎也君の指紋が見つかったわ』
































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「うわ!名前もう終わりそうじゃん!」

「....今やってるの私の分じゃないんだけどね」


予定通り、昨日の午後から同僚に押し付けられた分を始めて、今では残り2ページまで来た
昼休憩前には余裕を持って終わりそうだ

こういう所はやっぱり伸兄からの教育のおかげだと思う

学生時代、小学生の頃からだけど、長期休みの1日目は必ず宿題の計画表を立てさせられた
でもそれが厳し過ぎても甘過ぎてもダメで
"これでいいかな"と見せると、適度にこなせる量にいつも修正されて返って来た

ゲームや外出に怠けて予定通り終わらせられなかった日は例に倣って口煩く怒られたけど、その後はちゃんと手伝ってくれたり、分からない問題は丁寧に教えてくれた

"どうしてこんな簡単な問題も分からないんだ!"とか、
"自分で考えろ!"
"自分で調べろ!"
と言って私を突き放す事はしなかった

そんなところが結局優しくて、厳しくなり切れない伸兄の甘さだと思う

これらが習慣になっていた私は、夏休みなんて8月はほとんど課題に縛られない自由な時間を得られていた


「私週末家にお持ち帰り確定だよ....」

「なら今私を妬んでないで早くやったら?」

「うわ....名前に言われると刺さる....」


アイススケートに、焼肉、プラネタリウム
止め処ない期待に胸が張ち切れそうだ
丸一日じゃないけど、こんなしっかりした外出も久々
ダイムはお留守番になっちゃうけど、たまにはそれも良いよね
伸兄が帰って来る前に世話を済ませておかないと

せっかくだから何かご褒美を買ってあげようかな
犬用ケーキとか....




そう考えてブラウザを起動しようとした時だった


「宜野座さん」

「は、はい!」


業務と関係無い事をしたのがバレたと思い、慌てて手を離して立ち上がる


「私に何か御用でしょうか....」


恐る恐る課長に顔を上げると、思いっきり視線がぶつかって緊張を紛らわせるように唾を飲み込んだ


「いえ、刑事課の監視官があなたをお呼びです」

「え...?」


また何かあった?
仕事中に訪ねて来るなんて以前もあったけど、それ程に落ち込む事があったのかな?
最近疲れてそうだったし、それじゃいよいよ危ないかもしれない


「分かりました」


そう思って私は早足で廊下へ向かった













「お仕事中にすみません、ご迷惑でしたか?」

「....い、いえ...」


伸兄かと思っていた私は、拍子抜けしたようにその姿を確認した

何故かドミネーターを片手に持っている常守さんは、何となく怒っているような、清々しいような、上手く心情を読み取れない表情をしている


「どうしてもこれを名前さんに渡したくて」


そう言ってポケットの中から取り出された白い小さな封筒を手渡された


「その封筒は私が勝手に使ったので、狡噛さんが用意した物ではありません」


その言葉の意味が全く理解出来ず、ただ封筒の中には何か分厚い物が入っているとは触って分かった

封筒は違うって事は、中身は狡噛さんが用意した?
そもそも何これ?

今置かれている状況全てが謎過ぎて、何を言えば良いのかも分からない


「名前さん、心配しないで下さい。私が必ず連れ戻します」





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