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「もう少し安静にしてなさい....って言いたいところだけど」


意識を取り戻した瞬間医務室の天井に視界を覆われ、重い身体を起こすと、隣の病床で静かに眠る求め続けた姿

急いで掛けられていた毛布を剥ぎ、その頬に手を伸ばす


「....無理よね」

「容態は」

「パラライザーによる影響は無いわ。....でも薬物の方は本人に聞くしか無いわね、かなり多量飲んだみたいよ」








あの部屋に入った瞬間目にした名前は、完全に壊れてしまっていた
それに反応しエリミネーターに変形したドミネーターを捨て、俺は衝動に駆られるまま目の焦点すら合っていない表情を必死に自分に向かせた

酷いクマとやや痩せた脚
薄汚れたスーツ


『私が...殺したの...私が....私が』


そう訴える未だ俺と同じ指輪が輝く手から赤く染まったガラスをそっと引き抜く


『....名前、すまなかった』

『宜野座執行官!直ちにその女性から離れなさい!』


こんなに濁らせてしまった
恐怖に歪んだ顔が俺を責めているようだった
この罪はどれだけ償っても償いきれない
それでも果てしなく大切で愛しい

俺を見つめ返す瞳が少しずつ色を取り戻して行く


『....私、皆を....私』

『大丈夫だ、もう何も心配しなくていい』


安心させようと、こぼれ落ちた涙を精一杯優しく微笑みながら指で拭う
そんな俺の目元からも生温かな液体が顎先に伝った気がした

25年近く共に過ごして来て、これまでの何時よりも暗く長かった1年半
ゆっくり俺の顔を包んだ手に自らの左手を重ねる
その布地越しの無機質な硬さに気付いたのか、僅かに震えた唇
....伝えなければいけない事が山ほどある



『これは命令です!従わない場合は執行します!』


そんな最中飽きもせずに何度も背中に投げつけられる霜月の声
だが名前は確実に安定して来ている


『ドミネーターは必要無い!俺が落ち着かせて保護する!』

『な、何馬鹿なこと言ってるんですか!早く退いて下さい!』


霜月の言いたい事は分かる
監視官だった当時の俺でも同じ事をしただろう
....常守の配属初日を思い出すな

それでも名前を撃たせるわけにはいかない
どんなにそれがシビュラの目を司る者として正しい行いだとしても、これ以上名前に苦痛な思いをさせるのは許可出来ない

今はどんな論理的な判断よりも、ただ目の前にある変わらずに鮮やかな"愛"にしか意識を向けられない
やっと見つけたんだ


『....伸兄....会いたかった、ずっと....ずっと会いたかった』


霜月は、名前は既に新たな人生を歩んでいると言ったが、俺達にそんな事が出来るはずがない
互いに互い以外など考えられない
仮にシビュラシステムに別の人物を名前より良い相性判定で紹介されたとしても、それはシビュラが自らの不完全性を示した事になる
それ程俺達にとっては互いが全てだ


『もう二度と離さない、今度こそ約束する』

『....でも、私...もう....』

『最後の警告です、これ以上執行の妨害行為を続ける場合は、問題行動と見做しあなたを執行します』

『潜在犯だろうが関係無い。俺の妻はお前だけだ』


名前が常守に残したメッセージ
今までは俺が"真似をするな"と言って来たが、結局それは誰が先にしたかという順序の問題でしかない

考える事は同じだ

明らかに顔色が良くなって来た名前は依然として嗚咽を繰り返していたが、恐怖や悲しみが徐々に"幸せ"に置き換えられて行っているのが俺には明白だった

探し求めた温もりが予期しなかった形ではあるが、こうして今手の中にある

俺はそれをこれまでで最も強く、同時に最も丁寧に抱き締めた


『....帰ろう、名前。今夜はお前の好きな月下美人が二輪も咲く。また二人で











その美しさを見届けよう


と言えたかどうか記憶が無い

ただ一瞬で名前の表情がまた絶望に染まって行ったのが薄れゆく意識の中で見えた気がする



栄養剤を打ってくれているのか、静かに眠る名前は現場で見た酷くやつれた様子は無い


「朱ちゃんに感謝しなさいよ、施設に送る時間を延ばしてくれたんだから。本当はもう既にガラスの向こう側だったのよ」

「....いつの予定だ?」

「朝8時。あと5時間も無いわね....それまでに起きてくれればいいけど....」


俺はそのベッドの端に腰を下ろした


「....悪いが席を外してくれるか」

「あなたはいつも秘密主義よね。一応カメラもあるの忘れないでくれると嬉しいわ」



"まぁ私は一度全部見ちゃってるけど?"と余計な一言を残して出て行った唐之杜を見送ってから、俺はそっと口付けを落とした








「....もう一度結婚しよう。またお前が望むなら式を挙げてもいい、新しく指輪を買ってもいい。....なんてお前はどうせ"要らない"と言うんだろうな。せめて写真は撮ろう。だが実は、あのタキシードはもう入りそうに無いんだ。これでもこの1年半、お前の為にかなり努力をして少しは強くなった。だからまた選び直してくれ。代わりに俺は装花を準備する。....あぁ、楽しみだな」





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