▼ 309

「ご飯もあまり食べてないと....それじゃ栄養剤でも打っとく?」

「何でもいい、とにかく俺が勤務している間名前を預かっていて欲しい」

「嫌だ!自分でゴホッゴホッ」

「....って、本人は相当嫌がってるみたいだけど?」


昨日の夜はあのまま寝ちゃって、何か夢を見ていた最中に今朝早く伸兄に叩き起こされた
その姿はもう既にきっちりスーツに着替えていて、まだまだぼんやりしていた意識の中為されるがまま適当な部屋着に着替えさせられて
少しずつ目が覚めて来た時には軽食程度の食事が目の前にあった
起きたばかりでそこまで食欲も無かった私はほんの二口くらいだけ手を付けて、"何で起こしたの?"とようやく疑問を口に出来た時には宙に浮いていた体

抱え上げられている事に気付いた時には慌てて首元に掴まったけど、どこに行くのかという事の方が重要で
ただ"当直が終わったら迎えに行く"とだけ告げられて辿り着いたのが、


「気にするな、俺が何とかする」


予め連絡しておいたのか、唐之杜さんが待っていた医務室


「全く、ここは託児所じゃないのよ?」

「一人で宿舎に置いておくのは安心出来ない。これ以上また悪化させたくないんだ、頼む」


喉が痛くてあまり喋りたくないという時に....
ついさっき降ろされた病床の上で座り込む
だるさを感じる体も上手くは動かせないし、唐之杜さんを前に駄々をこねるのも恥ずかしい

点滴だなんて....伸兄は私が針が苦手なの分かってるはずなのに
ここ最近私が張って来た意地への嫌がらせ?

そんな思いを込めて、唐之杜さんに栄養剤の準備をお願いしたその横顔を見上げて睨み付けてみる

誰のせいで私が意地を張ってると思ってるの
最初からちゃんと話してくれればこんな事にはならなかったのに
未だに認めないし
まるで私が狂ってるみたいに
今日もこれから仕事で一緒になるんでしょ?
"優しくて寛容な大人"を見せるんでしょ?
私をここに置き去りにして、若い女の子から向けられた嫌ではない好意を受け入


「っ!」


れるんでしょ?
と巡らせていた私の雑念を突然遮るように右頬に添えられた布越しの義手
既にその感覚が新鮮な物に戻りつつあった事に、何か生温かな感情がじわりと込み上げるような


「ゴホッ....な、なに」

「....もうやめろ、名前」


....またそうやって

私が悪いの?
私のせいなの?
霜月さんには何も言わないのに


「仮に本当にお前が思っていた通りだったとしよう。霜月が俺の誕生日を祝い、食事に誘った。そこに恋愛的な好意も含められていた。だから何だ?俺達に何の不都合がある?」


そのまま私の左側に腰掛けた視線から目を逸らしても頬を包む手が逃してくれなくて、深く息を吐く


「お前が霜月を気にしているのは分かる。だが俺にとっては"他人"の一人でしかない。あいつが俺に向けるのが好意でも嫌悪でも、仕事仲間という関係以上に応えるつもりは全く無い」

「....あっそう....ゴホッ」

「俺はこの件が真実か偽りかですらどうでもいい。お前が俺の誕生日を祝ってくれた、共に幸せな時間を過ごせた。それが事実である限り他は何も必要無い」

「....え、ちょっと何して!」

「俺にはお前が全てだ、それだけは何が起きようと妥協出来ない。....限界が近いのはお前だけじゃない」

「待って!ダメだっ


触れていた頬で折り曲げられた指が、付けていたマスクを引き下ろして
それに思わず退こうとした私を反対に引き寄せるように移動した手を、首の後ろで掠めた指輪の冷たさで感じ取りながら



2週間ぶりに触れた感触と、優しく漂ったいつもの香水の匂い


その一瞬の温もりに、体を巡ったのはまるで"初めて"だったかのような熱さ




「....何考えてるの!?風邪移ったら、ゴホッ」

「そうやってそろそろ俺の事も心配してくれ」

「え....?ゴホッ、どういう

「お待たせ、用意出来たわよ」


ヒールの音と共に銀色のトレーを手に再び現れた唐之杜さんの、不安そうな表情と伸兄の肩越しで目が合う


「....名前ちゃん顔真っ青だけど、どうする?やめとく?」


そうだった....点滴
嫌だ
怖い
29にもなって注射が怖いなんて笑われるかもしれないのは分かってるけど、それでも怖い物は怖い


「私は大丈夫だから!薬もまだあゴホッゴホッ」

「薬飲んでて2日経ってもその様子じゃね....その薬ちゃんと合ってるの?」

「....名前、一度しっかり休息を取った方がいい。いつまでも辛い思いをするのはお前自身だ」

「で、でも、点滴まで...ゴホッ、しなくても....」

「...はぁ...」


そう聞こえた溜息を最後に何も見えなくなって、直接響くように聞こえるのは規則的な心臓の音


「大丈夫だ名前、すぐ終わる」

きつく押し付けるように抱き寄せられた頬と擦れる触り慣れたスーツの布地
"怖くない"と宥めるような柔らかな声が、真上から静かに降り注いで、


「....相変わらず親子みたいね....せっかくイチャイチャしてるとこ悪いんだけど、どっちか一本だけ腕を貸してもらえるかしら?」


自分でも気付かない内に自然とその背中に腕を回していた

針の先端が肌を貫く瞬間を考えただけでも緊張してどうにかなりそうで
これから起こる痛みへの恐怖で泣き出しそうな心を落ち着かせようと、例外無く安心感を与えてくれる体温や匂いをもっともっとと強く求めように


「利き腕じゃない方がいいか?」

「任せるけど、その方が不便は少ないと思う」

「名前」


"離せ"という合図のようにそっと掴まれた左腕
無理に引き剥がそうとはしないでくれているのをいい事に、余計力を込めて抱き付いてしまう

昔からこうだった
待ってくれている医師や看護師に迷惑をかけていると分かっていながら自分をコントロール出来ない
もしかしたら私が覚えていないだけで、小さい頃トラウマになるような出来事があったのかもしれない
そうだとしても未だに克服出来てないのはどうかと思うけど、痛みは毎回しっかり感じちゃうんだから仕方ないというか....


「....お前の体調が戻ったら一緒に出掛けよう」

「....え?」

「外出許可は俺が常守に掛け合って善処する。まだ事件が解決していない以上少し時間はかかるかもしれないが、お前がこれを我慢したなら俺も出来るだけの努力をしよう。その為に仕事が増えようが代償は全てこなす」


....あれだけ常守さんにはもう負担を負わせたくないって言ってたのに
こんな事件の真っ最中に外出の同行をお願いするなんて
確かに言うだけはタダだし、結局どうなるかは常守さん次第
でも"部下として上司には"って態度をとって来た伸兄が言い出すのはわけが違う

視界が胸板で覆われている中、背中をさすられながら耳元で紡がれる愛情に心が溶けて行く


「俺も早くもう一度お前のドレス姿が見たい。今はほんの少しだけの辛抱だ、終わるまで絶対に離さないと約束する」





[ Back to contents ]