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「じゃあ後は任せたぞ、唐之杜」

「はいはい、安心して仕事して来なさい」


そう医務室を出て行った背中を唐之杜さんと見送って、まだどことなく感じる針の痛みと共に私は悶々としていた

...."そろそろ心配してくれ"って、まさか
サイコパスが悪化してる....?
そう思うと一気に不安というか、心配というか
罪悪感が押し寄せて
もう終わりにするべきだって思えても、どう突然全てに区切りを付ければいいのか分からない


「意外ね?名前ちゃん針が苦手だなんて」

「そ、そうですか....?」

「何か嫌な経験でもした?」

「分かりません、覚えてる限りは特に何もゴホッ、....手間をかけてすみませんでした....」


あの後、左腕に冷たく触れた布らしき物
見えてなかったから正しくは分からないけど、多分アルコール綿だったはず
血管を探られるような感覚に、いくら強く抱き締められてるとは言えやっぱり手が震えたり、腕を引き戻そうとしたり
"すぐ終わるから動かないで"と唐之杜さんの声が届いても、目の前の温もりにしがみ付こうと全身に力を込めてしまった

結局伸兄が"夜は何が食べたい"とか、"何か映画でも見るか"とか
全然関係無い話で私の意識を針から少しでも逸らそうとしてくれた事が功を奏して、なんとか最も痛みを感じる瞬間を乗り越えた

きっと1分くらいで終わる作業に、私の臆病さのせいで5分はかかったと思う


「いいのよ、誰にでも苦手な物はあるでしょ?」




そう言いながら片付けをする唐之杜さんは、ついさっきまで伸兄の執拗な心配に迫られていた
私にも首元まで布団をかけた後、"異変があればすぐに唐之杜に言え"等ともちろん釘を何本も刺して来たけど、


『水分や食事を十分に摂らせるように注意してくれ。体調を崩してから、名前はまともな物を口にしていない』

『分かってるわよ』

『それと、名前が暑がっても絶対に体だけは冷やさな

『もう、私を誰だと思ってるの?今さっきあなたの大事な大事な妻の腕に針を刺した医者なのよ?』


という調子で流石に少し鬱陶しそうにした唐之杜さんにもお構い無く、私が崩してしまったネクタイを締め直しながらいくつも"注意事項"を並べてから仕事へ出向いて行った

なんだか授業参観に来てくれた親が無駄にはしゃいで恥ずかしい....みたいな感情に私は何度も溜息を吐いていた



「....ゴホッゴホッ、そういえば、昨日の夜枡嵜医師に何があったんですか?」

「あぁ、誰かに執行されたのよ。ここ公安局内で」

「....執行、された?」

「そう、ドミネーターで」


指で銃の形を模した唐之杜さんは、そのままそれを"撃った"


「監視カメラの映像も上書きされててね、局内部の犯行なんじゃないかってところよ」

「内部の犯行って....」

「そんなに怖がらなくても大丈夫よ、何かあれば宜野座君が身を挺してでも守ってくれるじゃない」

「そ、そういう問題じゃな、ゴホッ」


公安局で殺人事件だなんて誰でも怖いに決まってる
それに、今はまだ伸兄とは....

私はどうしたいんだろう
霜月さんに"好意なんてあるわけない!"って否定して欲しいのか
今までの悪態を謝って欲しいのか
どうも霜月さんに対する気持ちが晴れる方法が思い付かなくて
こんなに頑なな自分に嫌気が募るばかり


「霜つ

「あぁ!」


と突然響いた声を全く予期していなかった私は、反射的に肩をすくめた

簡易椅子をベッドの隣に引きずって、そこに腰掛けた唐之杜さんの胸の谷間に目が行ってしまう私がおかしいのか
男性を悦ばせるとかじゃなくて、女として羨ましい
....何かサプリでも飲んでたりするのかな


「いつも通りの宜野座君だったからすっかり忘れてたけど、昨日すごかったのよ!」

「....すごかった?」

「監視官の頃みたいに怒鳴ったりはしてなくても、あれは完全に激怒してたわね。むしろ私が見て来た中では一番怒ってたんじゃないかしら?」


伸兄が怒った....?


「まぁ気持ちは分かるけど、大人気ないわよ」


執行官になってからは、この前の喧嘩以外ではそんな場面見た事ない
ましてや仕事中になんて、よっぽどの事じゃなければ


「未成年の女の子相手に」

「なっ、ゴホッゴホッ!」

「....そんなに驚く?」

「....く、詳しく教えて下さい」





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