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「....おかえり」
久々に言った気がする言葉の先には、当直を終えたばかりの夫の姿
正直まだどう向き合ったらいいのか分からない
急に全てを無かった事には出来ないし、でもこれ以上揉め合うのもお互い疲れるだけ
「どうだ?」
「良い子にしてたわよ?熱も下がったし、もう愛し合っても大丈
「喉はまた痛むか?」
そう突然向けられた質問に、
「え、あ....少しだけ。でも咳はほとんど治ったから」
唐之杜さんと話すんだと気を抜いていた私は慌てて目の焦点を合わせた
"昼は何を食べた?"とか問診のような心配を投げかけられながら、同時に私の額に触れたり
....私今どんな顔してるんだろ
気まずいような、恥ずかしいような
たった一言"ごめん"とでも言えれば良いのかもしれないけど
「食欲は?」
「もう平気だよ、明日から仕事にも戻る」
目の前で少しずつ安堵に塗り替えられていく表情は紛れも無く変わらない愛しさ
出会った時は可愛げしかなかったような顔が、今じゃ大人の男になっちゃって
見慣れ過ぎた端正さも時には目に毒
「世話を掛けたな」
「お礼期待してるわよ」
「....食事くらいなら構わないが」
「....本当、あなたって器が小さいのか大きいのか....」
そんな会話を横に私は靴を履いて宿舎に帰る支度をした
点滴の管はもう抜いてもらってあるし、それより驚いたのが針は腕の中に残っていたわけじゃないという事
それを全く知らずに、絶対に動かしちゃいけないって気が気じゃなかったのに
病床を降りる時貸してくれようとした手を"要らない"と跳ね返して、エレベーターの中では何を話していいかも分からず下を向いて黙り続けた
"外出はあと1週間待って欲しいそうだ"という恐らく常守さんの返事も、心の中では期待度が上がりながら口では"分かった"とだけ
夜は約束通り映画を一緒に見て
執行官になってからは室内やVRになったダイムの散歩を二人でして
頼んでないのに髪も乾かしてくれて
一緒に歯磨きして
おやすみって言い合って抱き締められて
素直に笑えない
甘えられない
ただ愛に溺れさせられていくだけ
その伸兄も私の変化に気付いているのか特別な態度を取らない
サイコパスについて聞いても、"もう下がった"って
裏を返せばやっぱり上がってたって事
そして私も119という数値
じゃあなんでこんな霧がかかったような感情
雨ほどじゃないけど湿気っていて、曇りより視界が悪いみたいな....
次の日には咳や喉の痛みも無くなっていて、宣言通り仕事に戻った
最初は伸兄に"もう1日休め"って言われたけど、結局同じ当直で側にいれるからと共にした出勤
席が隣という事もあって、水分補給や体を暖かくする事、時間になれば服薬まで隙無く面倒を見て来て
"治りかけが一番大切だ"と普段職場では深くは関わらず、あくまで同僚と言う立ち位置だったのに、逐一"夫の顔"を見せていた
会議中でも私がくしゃみの一つでもしようものなら、すぐに自分の上着を脱いで私に着せたり
トイレに行ったかと思えば膝掛けを手に戻って来て、スカート故に露わになっていた私の脚に掛けたり
それに対して
『トイレに行くのに、宿舎まで戻ったんですか』
と不機嫌そうに吐いた霜月さんは、もはや肝が据わっているというか....
『刑事課フロアは混んでいたんだ、5分以内には済ませたつもりだったが遅かったか?』
そう表情すら崩さず薬を用意しながら嘘を吐いた伸兄に、私は従順に渡された白湯で錠剤を飲み込んだ
刑事課フロアが混むなんて聞いたことも見たことも無い
1週間か....
1週間
伸兄がシャワーに行っている間取り出したドレスを眺めながら、それまでに何とかしないとと溜息をつく
そもそも何でこんなに気持ちが晴れないのか分からない
バースデーカードの真実がハッキリしてないから?
あんな態度でも、霜月さんは好意を寄せてるかもしれないから?
それとも、仕事に復帰した日
東金さんが霜月さんと二人で話をしてる光景を見かけたから?
休憩室のベランダで、怯えたような霜月さんと微笑んでいた東金さん
元カウンセラーだし相談に乗ってたのかも....と表面上は思うものの、どこか違和感と恐怖のような物を感じていた
....そんな事より2日経った"1週間"
せっかくの写真撮影
思い切りの幸せを残さないと
その姿をお父さんやお母さんにも見せるんだから
もう正直伸兄には怒ってない
「ん....まだ病み上がりなんだけど?」
「ダイムと走り回れる体力があるなら俺にも構ってくれ」
ただ本当に楽しみなの
常守さんの負担にならない範囲で、あの時実現し得なかったお出掛けをしようって
「明日は午後からだったな?」
「そう、ぁっ....」
ここ2日、自ら強引にこじ開けるようにして少しずつ戻していた心情でしがみつく肌
まだ完全には晴らしきれてないけど、....大丈夫
何も心配いらない
何も
そうやって強くも優しい温もりに揺さぶられて、何回も分かち合った熱で無駄な思いを掻き消されるように目を閉じたのに
午後の当直とは言え、"長かった夜"のせいで二人して寝坊しそうになったところをダイムに起こされて笑い合ったのに
そんな朝も悪く無いねって、登り切った陽が差し込む寝室の中、覚め切ってない脳で身を寄せ合って深みを増していった口付けをダイムに止められたのに
....何、これ
「常守!」
「何をした!」
「常守!やめろ!」
燃え盛る炎と、"焼ける"匂い
全員がドミネーターを構える先で、纉から何かを受け取って突如掴みかかった常守さん
あんなに怒った姿は見た事ないし、その常守さんを抱え込むようにして抑える伸兄の咄嗟の行動にも息が止まる
「....六合塚!」
何が起こってるのか分からない
伸兄から手渡された箱をデバイスでスキャンした六合塚さんに視線を移して眺める
....東金さん
笑ってる....?