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「ただいま」


どうしても気分が悪く、それを察していたような常守からの連絡に甘えて一日中何もせずに過ごした今日

やけに長く感じて通常の勤務時間後にそう聞こえて来た声と開いた扉

それを待っていたかのように


「名前、悪


かった
と続けようとした言葉は一瞬にして喉で引っかかった


「どうぞ、入って下さい」

「....失礼します」


....は?


「何か飲みますか?」

「いえ、自分はお構い無く...」

「じゃあ紅茶にしますね。自由にして大丈夫ですよ」


....何だこれは

俺が見えていないのか?

名前はただ台所へ行き、棚から二つカップを取り出している
しかも来客用でもない
俺達が普段使っている物だ


「お、おい....それじゃなくてもいいだろ。カップなら他にも

「別にいいでしょ?」


そう振り向きもせずに割り込んで来た答えは、明らかに朝の様子を引きずっている


「使い捨てじゃないし、須郷さんも子供じゃないんだから落として壊す事も無いだろうし。洗って返せば同じでしょ?"洗って返せば"」

「....分かった、俺が悪かった。だからそう

「お客さんが来てるんだから対応して来たら?ダイムと遊びたいんだって」


....その"お客さん"が、何故よりによって須郷なんだ
どうせわざと何だろうが、相変わらず名前の怒り方は幼稚と言うか、的確と言うか....

どうしたらいいか分からずに突っ立っているスーツ姿の男に、俺も全くどうしたらいいか分からない

静かな空間で後ろでは名前が紅茶を用意する音
じっと動かない男二人を不思議そうに見つめるダイム

これ程居心地の悪い自室も無い


「昨日は...その、助かった。お前が来てくれていなかったら俺は今ここに居ない」

「....自分は、名前さんの要請に従っただけです。感謝の言葉なら自分では無く....」

「.....」


全く、会話とはこんなにも難しいものだったか?
相手が須郷だからか?
青柳の件のみならず、名前との妙な関係にも私情を抱いているからか?


「砂糖やミルクはどうしますか?」


そんな重い沈黙を物ともせずに破る我が妻に、思わず溜息が漏れる


「そのままで大丈夫です。すみません...ありがとうございます」

「熱いので気をつけて下さいね」


そうやって須郷に手渡されたカップは、紛れも無く今朝まで俺にしか使われて来なかった物だ
もちろん毎度洗っている上に、名前の言うように洗って返せば衛生上の問題は何も無い

....そしてそれは、俺が常守に貸した名前の衣服にも同じ事が言える


「ダイム、おいで!」


まるでクラスの友達を連れて帰って来たかの様な光景に入っていけるわけも無く、俺は自分でコーヒーを用意してキッチンから見守った

見知らぬ客人と楽しそうなダイムにも、距離の近い二人にも
嫌気が差して止まらない

もはや流石だとしか言いようがない
上手く俺が妥協出来ない隅を突いて来ている
わざとなのが見え透いているからこそ、余計に完敗だ


「散歩は?」


俺はここで何をしたらいい?
例え保護者でも仲睦まじく遊ぶ子供達に菓子を出したりするんだろうが、俺はどうするのが正解なんだ


「....ねぇ!」

「あ、あぁ....もうしてある」


そうでも言わないと二人で行くつもりなのだろうと機転を効かせたつもりだったが


「それなら明日どうですか?ついでにトレーニングも少し見て欲しいんですけど....」

「自分は構いませんが....」


俺を見るな


「じゃあ明日退勤後に

「ダメだ」


と気付いたら口にしていた


「....伸兄に聞いてない、勝手に口挟ま

「聞こえなかったのか?ダメだと言ったんだ」

「は?ちょっと!」

「悪いがもう帰ってくれ、そろそろ夕飯にしたい」

「分かりま

「待って!何勝手に!」































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「....これでおあいこだって言いたいの?」


オートサーバーで夕食の準備をする背中に俯いたまま声を投げつけて見る

須郷さんを"追い出して"からというもの、何をどう文句を言っても軽く流された
夜ご飯なら一緒に食べても良かったのに


「あおいこにしてくれるのか?」


目の前に並べられたのはまさに食べたいと思っていた物


「....さぁ」


でも食べたら負けな気もして


「....常守さんのお婆さん、昨日の夜死亡が確認されたって」

「....そうか」

「情報提供に東金さんが関わってたらしいよ。その東金さんも亡くなったけど」

「逃亡したのか?」

「そう言ってたけどよく分かんない、死因が不明だとかで」


一度向かいに腰をかけたと思ったらまた立ち上がって、今度はダイムにも餌を準備し始めた


「....ごめん」





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