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「.....」

「....もういいだろ」

「.....」

「名前、

「放っといてよ!」


監視官二人と別れ、エレベーターで宿舎に戻る個室の中
焼肉店にて告げられたバースデーカードの真相に名前はずっとこの調子だ

東金に騙され、あれだけ騒いでいたのが全くの勘違いだった事が気まずいらしい
その気持ちは理解出来るが、このまま"放って置かれる"のも本望じゃない


「カバンは決まったのか?」

「....ん」


どうしたものか
マフラーに半分程埋めた横顔を見守ろうとしても、そんな視線を感じ取ったのか
エレベーターの壁に背けられる

霜月の話には俺も驚いた
特別気にもしていなかったが、それ程東金には何も無いと思っていた
だが、今になって思い当たるおかしな点は確かに....

実際あの期間、俺と名前の数値は悪化していた事を考えると恐ろしいが、東金の考えは甘過ぎたとしか言いようが無い
そんな事実無根でこれまでのおよそ25年がひっくり返されるわけが無い


宿舎階に到着したエレベーターの扉が開き、腕を組んだままの背中が一人で先に降りて行く

初めて会った日よりかは随分大きくなったが、依然として俺の目には脆く見えるのはどうしてだろうな

親父に連れられて来た日、その声を聞くのに何時間もかかったのを覚えている
共にした夕飯も全く手に付けず、俺達が話しかけても首をただ横に振っていた
家族団欒の時間として一緒にテレビを見ようとしたものの、俺達とは距離を取りソファの隅で膝を抱えて

さすがにまさか突然子供が増える等と予想していなかった征陸家は、当然何の用意も無かった
衣服も部屋も何も
最初は俺の両親が一緒に寝るかと提案していたが、あまりの怖気た様子に候補は俺に移った
その時は不思議に思っていたが、恐らく"大人"に虐待を受けていたからだろう

結局俺の部屋で、同じ布団で、俺のパジャマを着て共に就寝する事になったが眠れるはずが無かった
母さんに"ちゃんと妹の面倒を見るのよ、あなたはお兄ちゃんになったの"と言われて得た使命感からか
又は、自分より遥かに小さく見えた妹により初めて芽生えた"人を心配する"感情故か

正直本音は後者だ
今でもこれ程鮮明に覚えているくらいには、名前との出会いは衝撃的だった
まだ小学校にも上がっていない俺ですら、この子は一体どんな苦痛に耐えて来たんだと震えた

だがどうすればいいのかも分からなかった
両親が話しかけても首を横に振るだけ
自分から何をどうしたいのか言わない

親父に諭され部屋を出て行った母さんに取り残された俺は、しばらくしても隣で眠った感覚が無い妹に何か飲むかと聞いてみた
最初こそ何も答えてくれなかったが、間も無く"空腹を告げる音"が響き、小さな声でココアと聞こえた

ようやく聴けた第一声は本当に儚く、深く響いて
名前を部屋に置いて俺はすぐに両親の部屋へ向かった
当時はココアの作り方など分からず、母さんが台所で軽食と共に用意するのを注意深く観察した


「先にシャワー行くか?」

「....いい、待ってる」


そう無造作に手渡されたコートやマフラーをクローゼットの中に丁寧に仕舞う

そんな出会いだったのにも関わらず、いつからこうして本心を遠慮無く曝け出すようになったのか
今では当たり前になったが、その表情の豊かさには敵わない
初めて笑顔を見せた時は両親が大騒ぎして外食にまで行った覚えがある


「やっぱり!....あ、いや....」


部屋着を手に寝室を出ようとした俺を引き止めた声に振り返ると、以前あげたクマのぬいぐるみで顔を隠すようにしてベッドの上にうずくまる姿

....本当にいつまで経っても変わらないな
世話が焼けて仕方ないが、俺も自ら焼きに行こうとする


「....いいってば」

「そんなに気にしていても仕方ないだろ。東金はもういない、霜月も本音を話した。それに、俺はどうも思っていない」


シーツに広がる艶やかな黒髪を辿るようにして、左手でその後頭部に触れる
黒い背景に輝くのはあまりに質素な指輪だが、その不変さこそが何よりも価値があると俺は思う


「もう終わった事だ、お前には何も非は無い」


あの場で霜月ははっきりと

『一回りも年上の男性なんておじさんじゃないですか。好意を持つなんて絶対にあり得ません』

と言い切った
俺は有難い話だと思ったが、常守は何故か可笑しそうに笑っていたな


「....ねぇ、」


ゆっくりと顔をこちらに向けて体を起こした名前は、真っ直ぐに俺の胸元に頬を寄せた


「ぎゅってして」


セーター越しに感じる温もりが柔らかく、嗅ぎ慣れた匂いが空気を包む


「小さい頃からさ、ほとんど毎日私の顔見て来て飽きない?」

「お前は俺の顔に飽きたのか?」

「イケメンがそんな事言っちゃダメだよ」

「.....」

「美人も三日で飽きるって言うけどね。どう思う?」

「そうだな、むしろもっと近くで見ていたいな」

「....どこでそんな色気覚えたの?」

「事実を言っただけだ」


もういいか
シャワーなら後でいくらでも時間はある


「んっ....待って」

「はぁ、何だ」

「そ、そんな怒んないでよ....」

「状況とタイミングを考えてから言え」

「ただ...その....ごめん、バースデーカードの事信じてあげられなくて....」


"本当は信じたかったんだよ"と懇願するような身振り手振りに、それ程たかがカード一枚に翻弄されていた自分達が馬鹿らしく思えて来る

....実際俺も名前を強くは責められない
もし逆の立場だったら、結果として無罪だった霜月には悪いが俺はもっと直接的な行動に出ていただろうな


「....ちょっと聞いてる?」

「愛している」

「....答えになってな、ぁっ」

「それだけ分かっていればいい」





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