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「今そっちに送ったから確認してくれ」
「ありがとうございます」
デバイスを見ると確かに新着の通知が1件
「心配しましたよ、通話にも出なければ部屋のベルを鳴らしても返事が無いんですから」
「すまない、たまには音楽でも聞いてみようかと思ってな」
少し前突然声をかけられ振り向いた先は、まさかの犬と共に濡れ切った身体を露にしていたこの部屋の主だった
タオルこそ巻いていたものの、あまりの咄嗟のことにどこを見て良いか分からず"風邪を引いたらいけない"からと服を着る事を促した
左肩付近、義手の繋ぎ目がどうしても痛々しそうな気がしたな....とか
「ここ数日、どうしてるんですか?カウンセリングのカルテには栄養失調気味とありましたけど」
「....見ての通りだ」
ダイムを片手で撫でながらやや血色の悪い唇は乾燥しているように見える
顔色が全体的に暗く見えるのは睡眠不足か、それともまともに食事を取れていない中での入浴が負担だったのか
「少しは動くべきかとダイムを風呂に入れたところだったんだが....身体だけさっぱりしても、と言うのが正直なところだよ」
文末を深い溜息で締めた視線が落ちる
こんな姿を名前さんが見たら....
そう思えば思う程、強引にでも二人を対面させるべきかとも考える
でもそこまで私が干渉しても良いのか
雑賀先生も
『放っておけ。首を突っ込んで事が悪化したら、また頭を抱える事になるのはお前さんだ』
「....すみません、さっき寝室を覗いてしまったんですけど、もしかして寝てないんですか?」
「いや、今はダイムとこのソファで寝ている。....と言っても本当に眠れているかどうかは分からないんだが....はぁ...全く...」
「睡眠導入剤が処方されたと聞きましたけど…」
「そんな錠剤一つで解決できる程の
「つまり飲んでないんですね」
名前さんを頑固だとか言うけど、どう見ても似た者同士
カルテには栄養剤の推奨も断ったとあった
人間の体は物理的に構造されているし、少しはそういったものに頼れば心身ともに嫌でも改善はする
論理的で感情論にはあまり走らない人だからこそ、霜月さんまでも"さっさと復帰させて下さい"と毎日クレームを入れて来る
「....名前は、あいつは自分じゃ何も出来ない。その上思いの外妙に好奇心があったりする。放っておけばどうせ菓子ばかり食べて、夜通し下らないドラマを寝ずに見る」
「それくらい良いじゃないですか、私だって休日はそんなものですよ?起きたらお昼を過ぎてる事も多いですし、次の日当直なのに友達と朝までおしゃべりしちゃったり。宜野座さんがしっかりし過ぎなんですよ」
「自己管理が出来る上での自堕落なら構わない」
こんな保護者、私なら嫌だと名前さんに同情する横でで、私だって一人でやりくりしたいわけじゃないと心が漏れそうになる
夜更かしして怒ってくれる親も、スイーツで甘やかしてくれたお婆ちゃんも側にはいない
代わりにやってくれそうな"良い人"もいないのに、身の回りで一番世話焼きのこの元先輩も、"自己管理が出来るなら"って言い訳
結局名前さんがどんなに優秀で独立した大人な女性だったとしても
別人にでもならない限り
「そんな事言うから、名前さんもコンプレックスを抱くんですよ。もう少し信頼を以って対等に接してあげたらどうですか?何でもかんでも心配されて制限をかけられたら窮屈に感じるのは当然です」
「....アドバイスとしては受け取る」
そう明白に上辺な返答をした宜野座さんはゆっくりと脚を組み替えた
なんだか
懐かしささえ感じる威圧感
柔らかかった暖かみが徐々に冷えて来たような空気に、思わず一度大きく息を吸う
「....それで、今回の件について謝るつもりは無いんですか?」
「あいつがそう言ったのか?」
「まぁ、はい....自分が悪いだなんて思ってない、と」
「....言い過ぎたとは認める。相手が相手という事もあり、なりふり構わずにあいつを抑え込もうとしたのは俺の落ち度だ」
「では、名前さんはやはり例の男性と交友を持つべきではないと?」
「....特別にその男が気になるのは俺の私情だが、わざわざリスクを背負ってまで会うのは許可出来ない」
「リスクだなんて、彼はごく誠実な一人の男性でしかありませんよ。過去は過去ですし、何より名前さん本人が楽しそうにしている事が....
と言いかけて、突き刺ささるような眼差しが私の声を詰まらす
まずい...かな
でも名前さんの為にも
「....私は大事だと思います」
「ごく誠実な人間であればノーリスクだという保証はどこにも無い。俺達が日頃相手にしているのは、つい昨日まで安全だとされて来た人間ばかりだ。その男が明日ドミネーターを向けられていないと誰が断言出来る?」
「それは....私も常に同行しています。本当に万が一何かあった場合は監視官として適切な処置を行います」
「物理的な危険性であればそれで対処出来るが、言葉は取り返しがつかない。20年前に"潜在犯の息子"だと度重なる差別を浴びせた者達は、今でもその殆どが善良な市民としてすぐ側で暮らしている。俺達が潜在犯として社会から隔離される限り、ここから外は安全とは言えない」
「....ですが、潜在犯かどうかというだけで名前さんの人間関係を縛るのは
「それを言えるのは全責任を負う人間だけだ」
私は....ただ同情する無責任者?
「....すまない、名前を思って抗議してくれていることには感謝する。だが何だろうと絶対に譲れない物はある。この先またあいつが例の夫婦に会いに行く予定があるならキャンセルしてくれ。何かが起きてしまう前に、頼む」
シビュラにより確立された安心と安全は
誰がその益を受けているのだろう