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「はい、もう跡もありません。ご心配をおかけしました」

「良かったー!あの時は骨折でもしていたらどうしようかと....」

「自分が上手く支えきれずに起きた事でしたので....申し訳ありません」

「そんな、あれは私のせいですよ!あの時ちゃんと足元を見ていれば防げた事なんですから。謝るべきなのは私です」


そうさっきから目の前で会話を繰り広げている二人に、俺はただ後ろでエレベーターの壁にもたれ掛かって床を見つめる

気分は良くはない

名前と須郷が話している内容は報告書で読んだ
2階部分で猫を保護した後、下へ降りる為のたった一つの階段の前
上がって来る際に一部崩れてしまったらしいそれを先に須郷が飛び降り、まずは名前が抱えていた猫を受け取る
そして最後に名前も同じく飛び降りるつもりだったらしい
もちろん、須郷が下で万が一に備えしっかりカバーするという条件付きだ

だが結果として起きた事は、須郷が飛び降りた際は無事だったまだ崩れていない階段最下部から、猫を出来るだけ安全に手渡しをしようと無理に体を前に持ち出した名前がバランスを崩したという状況
当然のように須郷は下敷きになったが、その身体で抱え込まれた名前は全くの無傷だった

幸いにも打撲や小切傷程度の軽傷で済み、猫の方も所詮は猫だ
多少の高所から落ちようと大きな問題ではない
名前も最初からその性質に任せて、手渡しに拘らずにただそっと落としてやれば良かった物を

最近は妻が猫ばかりで俺に向けられる関心が減ったような感覚に夢中で忘れかけていたが

俺は怒りを感じているわけではない
単に"気分が良くはない"


「名前さんの応急処置のおかげです。医師もその行為によって傷口からの細菌感染を防げたと言っていました」


その応急処置もそうだ
"気分が良くはない"
最初にこの話を『実践は初めてだったから緊張したの』と聞いた時は、脱がせたのか等と幼稚な事を口走りそうになった
代わりに『霜月はどうしたんだ』と聞き返せただけでも自分を褒めてやりたいが、他人なら話が違くとも流石に名前相手に誤魔化せる程これは手慣れた感情じゃない

『応急処置されなきゃいけなかったのは私だったかもしれないんだよ?』

それは"怪我していたのは自分だったかもしれない"と言いたかったんだろうが、俺はもうどうしようも無かった

全くそういう心があるわけではないどころか、俺から見ても生真面目過ぎる須郷だ
その程度の"触れ合い"くらい気にするにも値しない

と堅い理性でコントロール出来る内にこの場を壊したいのだが


「良かったら猫ちゃん見て行きますか?」

「じ、自分は....」


決断をする前に俺の顔を見て来る須郷にももはや抉られる
だがここで本音を撒き散らすわけにもいかない


「....構わない、好きにしてくれていい」


名前と口論になるのは今最も避けたい事象だからだ

















「ご馳走様でした。こんな時間まですみません....」


本当にその通りだ
何故夕飯まで共にすることになったのか


「そんな遠慮しないで下さい!たまにはこういうのも良いと思いますよ!毎日一人なのもメンタルケアにはデメリットだったりしますし」


いや、遠慮はしてもらいたい

途中何度帰らせるタイミングがあった事か
"そろそろ"と切り出そうとすると毎度名前が新たな話題を引っ張り出した
昨日作ってまだ余っているクッキーがあるだとか
結婚式には何を着て行くつもりなのかなどと結局今の午後8時になっている

名前はこういった相手に人が良過ぎる
それを"立派に育ってくれた"と思える時もあれば、"余計な事はするな"とむず痒くなるのも否めない


「そういえばドレス届いたんだよね?」

「あぁ、寝室に置いておいたから着てみるか?」


ようやく始まった憩いの時間
仕事がよっぽど苦なわけではないが、それでも帰るべき場所は心地良いものだ

後頭部で髪を束ねるゴムを右手で外し、スーツのジャケットを脱ぎながら共に寝室に入る
互いにまだ着替えてもいなかった

クローゼットの中の新しい衣服を見つけすぐに意気揚々と脱ぎ出す姿を目の前に、これから1着だけのファッションショーが始まるのだとネクタイのノットに手をかけてベッドに腰を下ろした

近頃の俺がどうかしているのかもしれない
霜月に夫婦でいると仕事にならないと言われ、
その直後から新たな家族が1匹増え、
名前がそれに夢中である事が心配であると同時に寂しくも思い、
須郷の事もある


「上げて」


暗い紺色の布地から縦に覗く背中と、両手で支え上げられた黒髪より顕れる首筋

以前常守の件で散々言われた通り俺は分かりやすいのか、昨日唐之杜と六合塚にも茶化された

『あなた達は本当に見てて飽きないわね』
『たまには欲に素直になるべきよ。どうしてもって言うなら私達が発散のお手伝いしてあげてもいいわよ?』


「ぴったり!どう?」

「似合うと思ったから買ったんだ」

「でも半袖は良かったの?レースはダメだって言ってたのに」

「どうせ何か羽織る事になるだろ」


実際は、贔屓にしているアパレル店にハイネック長袖のシンプルなドレスを頼んだら、"結婚式にそれは地味過ぎるからせめて袖を短くするべきだ"と言われた
確かに目立ちたくはないが、あまりにも地味なのはマナーとしても良くないと思い素直に従った結果がこれだ

どちらにしろよく似合っている
鏡の前で長い裾を揺らしながら嬉しそうにする後ろ姿が、何故だかいつもより情を掻き立てられる

意識が薄れていくように機械仕掛けの腕を伸ばして


「わっ!何?どうしたの?」

「....少し疲れた」


一日着たワイシャツ越しに温かな体温と新しい布地の匂いを感じて

速まり行く鼓動に籠る熱が苦しくなって行く


「んっ....」


漏れる息遣いにすら脈打つ程強いこの感情はいつぶりだろうか


「ぁっ...はぁ....」


甘い
口に触れる全てが嫌味なくらいに
欲しがって
欲しがって
止められ...






「ミャー!」

「っ、あ!」

「ミャー!!」

「そうだ、ご飯の後のデザート!」

「それくらい後でも

「ちょっと待ってね!」

「なっ、おい!今じゃな

「すぐ終わるから!」


....俺は一体何をしてるんだ....

人一人が出て行き密度が低下した部屋では、重い溜息がよく響く
そんな気がした





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