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「それで?一体何なのよ?」


"助けてあげたんだから感謝しなさい"と連れられて来た会場入り口付近
会場とは言え少し広めなレストランだが、壁の隙間から俺達と常守以外の一係全員が一つの卓に着席しているのが見える


「....何でもない」

「何でもないわけないじゃない、今度はあの子が寂しがってるわよ」


そんな時に響いて来たのはデバイスのメッセージ受信音

『大丈夫?トイレ混んでるの?』

その送り主の後ろ姿はデバイスを見ているのか下を向いたり、周りをキョロキョロと見渡したり

『もしかして迷った?迎えに行こうか?』


「女の子がおめかしする時は、大抵褒めて欲しい相手がいる。もちろん自分が綺麗になりたい欲求もあるけど、その欲求を満たすのが他の誰でもないあなたの言葉なのよ。私達がいくら似合ってるって言ったところで意味が....ってちょっと!聞いてるの?」


席を立ち上がった須郷と何かを話している
その笑顔を含んだ表情でさえ、今日は一段と酷く、そして美しく見える事に苛立つ
これまで化粧など必要無いと言って来たが、決してそれが醜いと思っているわけではない


「....悪いが少し放っておいてくれるか。迷惑はかけない、名前とはちゃんと話をする」


『メイク嫌なら落として来るよ』

何組か遅れて来たゲストが早足で会場に入って行く横で俺は情けない感情に潰されそうだ
....いい加減にするべきなのは分かっている


「もう....あなた達夫婦の事に首を突っ込むつもりは無いけど、私はあの子の味方よ」
































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「君、どうしたの?女子トイレなら向こうだよ」

「あ、いえ....」


突然話しかけられて振り向いた頭に、初めて付けたイヤリングが揺れた
やや大ぶりなパールのイヤリング
振り子のような振動が痛くないのが驚き


「人を待っているだけなので....」


もしかしてお腹下しちゃってるのかな....
"大丈夫だ"って返信から心配になって来ちゃったけど、よくよく見るとそのメッセージからまだ3分くらいしか経ってない


「トイレにいるの?見て来てあげようか?」

「いいんですか?」


確かにトイレにいるなら電話もかけづらいし、私も入れない
本当に何かあったなら....
呑気にイタリアンなんて言ってる場合じゃない

この人の厚意に頼ろうか

取り出しかけていたメイク落としをポーチにしまい直して、私は再度顔を上げた


「名前は?」

「え?私ですか?」

「ははっ!違うよ、その待ってる人の名前。でも君の名前も是非聞きたいな」

「あっ、す、すみません!私勘違いして....」


は、恥ずかしい....
可笑しそうに笑う男性を前に私は羞恥の感情がどんどん大きくなって行く
そんなに笑わなくても....


「いいね気に入った!何ちゃん?」

「えっと、私の事より....」

「いいじゃん教えてよ!いや、俺から言おうか?」

「あの、まずは

「何をしているんだ!」


いきなり手首にかかった圧にポーチを落としそうになって
でも同時に安堵もした


「勝手に出歩くな!」

「もしかして探してた人?あ、待ってよ!」


引力につられてヒールを鳴らしながら、後ろから追いかけて来るような声が遠くなって行く
なんだか申し訳ないことしたなと振り返ろうとするも、履き慣れていない靴じゃ難しい

躓きそうになるのを必死に抑えて着いていく背中
人が徐々に増えていく景色は会場に戻っている事を示す

....伸兄、やっぱりイライラしてる
ひしひしと伝わって来るその感情に私も怯えてしまう
唐之杜さんの話だと、伸兄はもっと前から"寂しかった"らしいし、それに気付かなかった私にも責任はある
何で気付かなかったんだろうって今更言っても遅いけど、思い出してみれば猫を飼う事に伸兄は賛成してもなかった

了承したのはきっと私の為
その上で物理的な世話も金銭面も手伝ってくれて、すぐに必ず来る別れにも気にかけてくれてるのに
私は、あの"夜の事"だけじゃなくて一日中猫の事ばかり

週に数回一緒に行ってたトレーニングルームも、
VRを使ったダイムの散歩も、
ただ一緒にテレビを見る時間だって私は"猫ちゃんを一人にするのは可哀想だ"と言って断ってた
当直が一緒の日でも、休み時間になれば足早に一人で宿舎に戻って猫の様子を見たり
今思い返せばどう考えてもやり過ぎてた
全部全部"別にいいでしょ"って


「ねぇ、メイク....落とそうと思ってたんだけど....」


色んな申し訳なさと、謝っても"怒ってない"としか言われない私からしたら理不尽な状況
どうしたらいいのか分からない感情で、司会者の声が響き出した会場に踏み入れる直前に吐き出せたのはそんな言葉

否定して欲しい
落とさなくていいって、
似合ってる、綺麗だって紡ぐ声を期待しながらも、私は目を泳がせて俯いた


「.....」

「....いいよ、嫌いならそう言って」

「.....」

「わ、私もちょっと....こんな大人っぽいのは違うかなって、思ってるし....」


何も言ってくれない沈黙に耐えられなくて、思ってもいない事を口走る
引き止めるように握っている義手の左手を見ながら、自分の心臓が全身に酸素を巡らせようと生き急いでいる音を聞く


「....何か言ってよ」

「....そのままでいいだろ。結構な金もかけたんだ、それをたった数時間もしない内に無駄にしてどうする」


あぁ....もう....


「....そうだね、ごめん」





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