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「いいじゃん、それくらい」

「良くはないだろ、そんな欲に塗れた人間にはなりたくない」

「欲が無い方が人間じゃないでしょ」


朝だ
まだ寝てないのに、昨日という日がいつの間にか終わっていた
暖かくなった陽が柔らかいシーツを照らす


「悪いのは私だよ、あまりにも伸兄の事考えてなかった」

「だからお前は間違っていないと

「間違ってたの。良くあるじゃん、"仕事と私どっちが大事なの?"って。仕事に没頭するのは悪いことじゃないけど、それで家族を壊すのもあり得る話。それに私がしてたのは仕事みたいに大事な要件でも無いし」


顔の右側から直接聞こえる心臓の音
どうして人間の体温とか鼓動ってこんなに心地いいんだろう
流石の疲労と眠気にやや朦朧とした意識の中で義手をなぞる


「伸兄が寂しく感じてたのは何もおかしくないよ。触れたい欲だって気持ち悪くも汚くも思わないから」

「....だが」

「ねぇ、そんな事で今更嫌いになると思う?」


随分厚くなった胸板から頬を離して、真っ直ぐ見上げるようにその目を見つめる
いつもならこんな事私が言われそうな立場なのに、子供みたいな不安な色を浮かべて
つい撫でてあげたくなる衝動

髪も結構伸びたな....小さい三つ編みくらいなら出来ちゃいそう
特にケアもしてないのに、私も同じヘアケア製品を使ってるのに何でこんなにサラサラなんだろう


「逆に、もしあれで何の反応も無かったら私が寂しくなってたかも」

「はぁ....相変わらずのわがままだな」

「そんなの今に始まった事じゃないでしょ」


長かった甘ったるい空気がまだまだ抜けない私達
ゆっくり、ゆっくりと口元を寄せ合わせて
平和で幸せな時間に浸かる

昔はこんな事考えもしなかったな....
自分がいずれ誰かとする事は妄想しても伸兄は全く
むしろ恋人が出来ない事を時々心配してみたりしてた

顔にかかった髪を丁寧に退かすように頬を掠めた指先がくすぐったい
身体を引き寄せられて
角度を変えて
"満足"という曖昧な感情を得るまで






























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「猫ちゃんの事、伸兄が正しいと思う。今甘やかし過ぎたら私も猫ちゃんもお互いに離れられなくなっちゃうかも。....これから新しい飼い主が見つかるまでもうちょっと距離を保つよ」

「....止めはしないが本当に大丈夫か?俺もああは言ったが、どうせならお前のしたいようにして欲しい。猫を飼う機会など今後無いかもしれない」


この後仕事もあると言うのに朝からどうなのかとは思ったが、隣に座る妻がどうしてもと言って仕方無く開けたボトル
確かにメディカルな故に酔ってしまう事はない


「何をどう言っても、結局最後は家族が一番大切だから」

「それをお前が言うのか?」

「....っ酷い!」

「冗談だ」


言う事も聞いてくれない
すぐ喧嘩をする
俺が精一杯甘やかしても甘やかしきれない程の天真爛漫さ
そんな名前の口からこう言った言葉が発せられる度に、耐え難いくらい嬉しいものがある


「その顔、その笑った顔好き」

「....また欲しい物でもあるのか?」

「っ、もう!違うよ!本当に好きなの!」


昼食として用意したサンドイッチと共に流し込み赤黒い液体
...そうでもしないと気恥ずかしさに侵されてしまいそうで


「恥ずかしがるなら素直に喜べばいいのに」

「....そんな事よりさっさと食べろ、遅刻するぞ」

「またそうやって逃げる!」







共にスーツに着替え
共に洗面台前に並び
共に歯を磨き
共に身支度を整える

名前が相も変わらず化粧をしている間に植物の水やりをし、最後は共に犬と猫の飲み水を替える


「行って来るね」


すっかり仲良くなったダイムと猫に見送られ玄関の扉を開けた

充分過ぎる幸せ
だがそれも様々な紆余曲折があってこそ"幸せだ"と感じられているのかもしれない


「やっぱりワインはあまり好きじゃないかな」

「なら何故開けたんだ」

「飲めたらカッコいいなって」

「全く....そう考えてる時点で無理だな」


エレベーターの中で、眉尻を下げ、口を少し開けた表情でこちらを見上げる名前
その都度その都度で見せてくれる豊かな心が愛おしい


「焦らずにゆっくり慣れていけば良い」

「....なんか、優しくない?」

「お前は俺を一体何だと思ってるんだ」





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