▼ 388

「これ...違う、....これですか?」


ガサゴソと物を荒らすような音と、誰かと話をしているような声
視界が揺れるような感覚で体を起こした俺は自室のソファの上だった


「....あ、体温計....」


やや寒気がするような身体はいつの間にか部屋着に着替えられていて、見渡すとキッチンの方では名前がこちらに背を向けている


「はい、分かりました」


はぁ....こんなつもりじゃなかった
確かにこの頃あまり休めていなかったかもしれないが、それくらい今まではどうも無かったはずだ
強いて言えば、先日の公安局主催野外イベントに一日出向いた際はかなり疲れを感じたくらいだが....

あの日は日差しも強く、名前と互いに水分補給には気をつ....


「あ!ちょっと!」

「っ、な

「寝てて!まだ起きちゃダメだから!」


勢い良く倒されるようにして再び天井に向いた目線
ぐらっと揺れた感覚がまるで眩暈のようだが、そう感じられる自身の体調にまた酷く驚く


「まずははい、飲んで」


手渡されたマグカップにまた再度体を少し起こす事になったが、そういった矛盾した態度に名前の必死な心が見える
髪を後ろで一つに縛り上げ、袖も捲り、そのいかにも"作業をしている"姿


「....たまにはこういうのも良いかもな」

「っ、バカなこと言わないでよ!私がどれだけ心配してると思って!」


そのあまりにも自身が言い慣れた台詞を名前が発すると


「もう!笑い事じゃないってば!」


やけに温かく愛くるしい


「気付いたらすごい苦しそうで、触ってみたら熱いし、それで、すぐ唐之杜さんに来てもらって、局長に呼び出されてた常守さんにも連絡して、それで....それで

「分かったから落ち着け、ゴホッ....大丈夫だ」

「大丈夫って....」


何もそんな泣きそうな顔をしなくても良いだろ
と言葉にしたい衝動を込み上げて来る咳にかき消される

大袈裟だ
本当に病にかかったわけでもなければ
たかだか少し体調を崩したくらいでここまで大事にする必要も無い

そう思えば思う程、俺が言えた事じゃないのかもしれないとこれまで立場が逆だった時を思い出す
辛そうな表情を見せる度に、瞬時に治してやることも、代わりに背負ってやることも出来ない事に苦心した


「お腹空いてない?食欲は?」


名前も今は少なからず似たような感情を持ってくれているのだろうか

近頃、細かく言えばあの結婚式の一件以来
名前はかなり甘くなった
何をするにも"一緒にやろう"と言い、明らかに二人の時間を大切にしようとしている
毎晩ほぼ必ず共に映画やゲームなどをし、よっぽどの事が無い限り食事や就寝など基本的な生活習慣に時間のズレが生じる事も無くなった

とは言えそれでも相変わらずの万年反抗期だが
俺はこの日常に、唯一の生き甲斐に、
言葉では到底言い表せない価値を見出している


「唐之杜さんに薬も教えて貰ったから出来れば何か食べて欲しいんだけど....」

「なら一緒に食べるか?....ゴホッ、お前も夕飯はまだだろ」


正直に言えば食欲は無い
だがここで"食べない"とするのは、余計な心労をかけさせるとも理解している
俺がそうであるように


「分かった、すぐ用意するからちょっと待っててね!その間にコップの水飲んでて!」


そうしてまたドタバタとキッチンへ向かって行く背中を見届け、現状どんなに気分が悪くてもそれすらどうでも良くなる程に幸福を感じ笑みが溢れてしまうのは歳のせいだろう

名前ももう30だ
とてもそうには見えないが、そんな振る舞いを見せているのも疑い無く信頼してくれている証
いくつになろうが、ずっとそのままでいて欲しいものだ

....いや、そのままでいれるように俺が努力をするべきなのかもしれない


「飲み終わった?」


時折鬱陶しく感じる長髪を耳にかけて一気に飲み干す

元々"目元が嫌い"というくらいにしかこだわりが無い髪だ
名前が望むなら坊主でも異議は無い
だが大部分の好みが似通った俺達にはまた無縁な話でもある
...という理由付けをして、案外気に入っている事を認めたくないだけなのかもしれない

全く....俺は真剣に気にかけてくれている名前を横に何を考えているんだ
絶対に移してしまわないように距離を取るなどするべきだろうに
妻の珍しい頑張り様をもっと近くで見ていたいなどとも思ってしまっている


「はい、無理はしなくて良いけど水はいっぱい飲むべきだって」

「....今抱き寄せたいと言ったら怒るか?」

「え....いや、怒りはしない...けど....」


熱の熱さにまるで酔っている気分だ





[ Back to contents ]