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どうして

もう1週間近く経つのに、未だに狡噛さんとまともな会話が出来ない

書類作成に忙しい、とか
もう退勤時間だ、とか

私が話しかけようとすれば、ことごとく阻かれる
その上、それは明からさまにわざとだった


伸兄に怒られる私を助けてくれたり、
些細な相談に乗ってくれたり、
落ち込んでたら言わなくても励ましてくれたり、

そんな狡噛さんはどこに行ったの


わざと冷たく私に当たる理由は何




はぁ....





何度でも何度でも漏れるため息


それでも不思議な事に涙は出ない


色相も安定している





きっと、今の狡噛さんは偽りだって分かっているから






「名字さん、大丈夫ですか」

「え、あ、すみません!」


突然降り注いだ声に慌てて姿勢を正す
....今は勤務中だった


「昨日提出いただいた報告書、間違いだらけでした」

「も、申し訳ありません!すぐに直して再提出します」


すると突然課長の距離が近くなった気がした

すぐ横に並行に並んだ顔は、目の前の画面を覗き込んでいた
冷酷で有名な課長の息遣いに、心まで凍りそうになる



「出勤から2時間、2行しか進んでいないとは。どういうことですか」

「....申し訳ありません!」


変な汗が流れる



「....1時間の休憩を特別に許可します。それで作業効率を取り戻してください」

「.....え?」




予想外の提案に課長の目を凝視してしまう




「この以上のエラーの連発や期限を過ぎての提出は認められません。それを考えれば1時間の対価は妥当と判断しました。」

「あ、ありがとうございます!」


急いで席を立ち深く頭を下げる



「必ず時間厳守で戻って来てください」
































私の足音が響くプールは、さすがに人が居ない
公安局ビルのトレニーングルームの施設の充実さは、どこにも負けないと思う

更衣室の3Dプリンターで作った使い捨ての水着は、体にぴったりとフィットする


別に特別泳げるわけじゃない
ランニング等は好きじゃないし
プールというだけで少しワクワクするのは学生時代の名残だと思う


淵に座って足をつければ、水の冷たさが気持ちいい
それでも全身を沈めると、さすがに震える
そんな気持ちもゆっくり水中で歩いて見れば、心地良いものへと変わる


休憩時間が終わればまた仕事があるから疲れたくはないと、泳ぐのはやめてただ水に身を任せる
動くたびに揺れる音が直接脳に入って来る










狡噛さんは何を思っているのだろう

施設で何かあったのだろうか

それとも、狡噛さんが濁っていく最中何もしなかった私を恨んでいるのだろうか

かと言って、私に何が出来たのだろうか










仰向けのままプールの底に沈んでみれば、ハッキリしない視界
ゆらゆらと揺れ動く遥か上空にある天井

それを見送って私は目を閉じた


息の続く限りこのままで
酸素が欲しくなったら水面に上がろう

そんな“どっちが息を長く止めていられるか”みたいな子供じみたゲームを勝手にしてみる

遠い昔、小学校低学年の時に伸兄とそんな事をしたなと思い出す
あの時は負けず嫌いで、絶対に勝ちたくて意識を失いかけた










....もうやめよう

きっとこんなに気に病んでいるのは、求め過ぎている証

狡噛さんが私にどう接しようと、それは狡噛さんの自由だ

優しくして欲しいなんて貪欲だ

初心に戻ろう








求めない

もし話しかけてくれたらちゃんと喜ぶ



それでいいじゃ

「ぁ"っ!!」






いきなり腕を掴まれた感覚に、思わず声にならない声を出す

吸い込んでしまった水が苦しい







顔に外気が触れ、目を開けた

直に伝わる体温は誰の物か気になって口を開くが、咳が止まらずうまく呼吸が出来ない





一瞬の内に硬い地面に引き上げられ、力無く座り込む


「大丈夫か!名前!」



その声にハッとして見上げると、焦りに満ちた表情と鍛え上げられた体に余計に咳き込む


「どうし、ゴホッゴホッ!」





















「....す、すまなかった、溺れているのかと思ったんだ」


プール沿いのベンチに並んで座る私達の髪からは、水が絶えず滴る


「い、いえ。私の方こそ勘違いさせてしまって....でも、ありがとうございました」


数ヶ月ぶりにちゃんと聞いたその声は、やはり私に安心感を与えてくれる


「....狡噛さんも泳ぎに来たんですか?」

「あぁ、休憩がてらにな。名前は勤務中じゃないのか?」

「あ、いや....最近疲れていたのを課長に見破られてしまって。特別に休憩を頂きました」

「そうか...」


どぎまぎする会話に、お互いの緊張が表れる




濡れた男らしい体が私の思考を支配して行く中、それに触れる資格など無い事に頭を切り替える




「....名前、食堂での事はすまなかった」

「そ、そんな、私は....」


“気にしてない”と言いかけた言葉を飲み込む
自分の意図していない意味に捉えられてしまいそうだと思ったから




「もう俺は、お前と....」


私の目を真っ直ぐ見つめる視線に、胸騒ぎがした









「一緒に居られない」





その言葉に全てが止まった

ベンチから立ち上がって去って行く背中を除いて





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