▼ 07

「あの、名字さん」


退勤時間まであと10分
帰る支度を始めたところに声をかけられた


「あ、相馬くん、お疲れ。」

同じ1ヶ月前に同期で公安局人事課に配属された同僚
伸兄の言う“あの男”
食堂で一緒にいるのを何度も見かけられて、その都度嫌味を言われている


「今日この後何か予定ある?もし良かったら一緒に食事でもどうかなと思って」


別に毎日じゃない
基本は他の女の子達と休み時間は共にしてる。
週に1、2回程度「お昼どうですか」と誘われるのだ
断る理由もないし、むしろ断ったら傲慢な女だとでも思われそうな気がしてしまう
だから今回も


「うん、いいよ」


確かにここまで来ると、さすがに私に気があるのではないかと思う
でもだからなんだ
告白されたら断ればいい
無理矢理良からぬ事をしようと思っているなら、街頭スキャナーに検知されて、それこそ刑事課の手に落ちる

今日はちょうど伸兄も午後からの出勤で一緒に帰れない。
いつもいつも狡噛さんに送ってばっかりじゃ申し訳ないし、いいタイミングだ


伸兄に、今日はそのまま友達と外食してくる旨を送信する
暇なのか何なのか知らないが、即座に返信が来た


“またあの男か?絶対にダメだ、狡噛をそっちまで迎えに行かせるぞ”


狡噛さんは私の考えを尊重してくれる。
ここまで来る訳が無い






「皆さん、今日も一日お疲れ様でした」

定時を告げる無機質なアナウンスが流れるのと同時に立ち上がる














「僕の車でいい?」

「うん、私免許持ってないから」


ロックが解除された車の助手席側のドアを開けて乗り込む



「え、じゃあ普段どうしてるの?」

「家族が送り迎えしてくれてるの。たまに公共交通機関で通勤するけどね」

「そうなんだ。一人暮らしするつもりは無いの?」



....一人暮らし
考えたことも無かった
伸兄との暮らしが当たり前になっていた
一人暮らししたいかと聞かれると、何故かそんな気はしない



「今のところはこのままでいいかな。不自由してないし。相馬くんは一人暮らしなの?」

「うん、早く独り立ちしたくてさ」

「ふふっ、親からしたら自慢の息子さんだね」


それを本当の親がいない私が言うのもどうかと思う























「着いたよ。僕の行きつけなんだ」

「....バー?」


車を降りて目の前に見えたのはネオンに紛れた小さなバーだった


「今では珍しい本物のアルコールもある。あ、もちろん普通の料理もあるよ!しかも素材から手作りした料理」

「まだそんなところがあったんだ...」

「気に入ってくれると嬉しいな」



エスコートされながら入った店内は、一切ホロが使われていない、こじんまりとしたものだった



「お!エリートの相馬くんじゃないか!」

「マスター、久しぶりですね」

「隣のお嬢ちゃんは彼女か!」

「なっ!違いますよ!同期の名字さんです」



勝手に紹介されてすかさず会釈をする




「さあ座って座って!すぐ作ってくるから!」


マスターと呼ばれた男性に促されて、相馬くんとカウンター席に腰を下ろす





















ウ"ーーー


料理が出てくるのを待っていると、ポケットに入れていた携帯端末が震えた



“どこをほっつき歩いている”



短く簡潔なメッセージからは怒りが読み取れる



“だから夕食に行くって言ったでしょ。どっかの小さなバー”



そう返信してポケットに仕舞う



「家族から?」

「うん、まぁ」

「もしかして今日まずかった?」

「いや、大丈夫。気にしないで」



ウ"ーーーーーー

またかと、少しイラつきながら再度ポケットから取り出してメッセージを確認する



“バーだと!?ふざけているのか!今すぐ帰れ!”



....しつこいなぁ
もうどうにでもなれと、返信をせずに端末の電源を切って再びポケットに仕舞う




「...本当に大丈夫?」

「大丈夫、心配してくれてありがとう」

「はい!お待ちどうさん!ウチの特製パスタだよ!」




目の前に出された料理はキラキラしていて、アートかと思うほどだ




「いただきます!」






んー!美味しい!!
私の拙い料理とは全くの別物だ
これが本物


「すっごく美味しい!」

「でしょ?良かった気に入ってくれて」

「相馬くんはウチの常連だからな!これからも広めてくれよ!....そうだ、今日入ったレアな酒があるんだがどうだ?」

「僕は頂くけど、名字さんは?どうする?」




...お酒
しかも本物の
酔っぱらうと気持ちいいって聞くし正直興味はすごいある
でも....



「迷ってるって顔だな....少しだけ試してみるか?」

そうマスターに言われるとその気になる

「じゃあ少しだけ」











「はいどうぞ」

目の前に出されたガラスのコップに入っているのは琥珀色に輝く液体
氷とガラスとその液体が絶妙なバランスで光を反射する


「....キレイ....」

「それはウィスキーだ、結構強いからゆっくり飲めよ」


少し口をつけてみると、なんとも言えない苦味が口内を支配した


「うっ....これが大人の味.....」

「ハハッ、そうだな!」

「名字さん、無理はしないで」



これのどこが美味しいのか理解出来ない
そのうち慣れて美味しいと感じるようになるのか

そう思って、せめてこのコップ一杯はと、もう一口もう一口と飲み込む


「そ、そんなに飲んで大丈夫?」


今相馬くん何て言った?
上手く頭が回らない


「....暑い....」


スーツのジャケットを脱いで相馬くんに押し付ける


「え、ちょっと名字さん?」


あーどうしよう
今何してるんだっけ
どこにいるんだっけ
何時?
何も分からない
何も考えられない

....おかしいな
こんなにもコントロールが効かないなんて、まるで自分の身体じゃないみたい

重い
暑い
眠い
苦しい


テーブルに突っ伏す前に、ガシャンとガラスの割れた音がした


「あぁ....ごめんなさい....」


空になったウィスキーのグラスを落としてしまった





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